第九話 一条さんの危機その2
1
──……ここは……?
僕はゆっくりと目を開けた。
蛍光灯の光が眩しかった。
「おう。目ぇ覚ましたか」
保健室の先生である由利川先生は指で僕の目をこじ開け、ペンライトで照らした。
由利川先生は一応女性なのだが、言葉遣いがまるで男性だ。長い黒髪を後ろでまとめているのは、本人曰く「保健室内で動くのに邪魔」なのだからそうだが。
──何で僕はここにいるんですか?
と言いたかったが声が出なかった。
それどころか体も動かない。
辛うじて動くのは目と口くらいだ。とは言え自分の意思を伝えない事には何をされるか分からない。
僕は全ての力を振り絞った。
「……僕は?」
酷くかすれた声だが、何とか声が出た。
「……何で僕は……ここにいるんですか?」
一言一言が重い。確実に体力を削られていく気がした。
──そもそも何でこんな死ぬような目に遭っているんだろう?
その疑問の答えは単純で実に明快だった。
「お前は一条にぶちのめされて気を失った。ここまで運ぶのに苦労したぞ」
由利川先生はそう言って右肩を回した。ゴキゴキと音がした。
「……ぶ、ちのめされて?」
徐々にだが、僕の体に生命力が戻りつつあるようだ。言葉を紡ぐ口が軽くなってきた。ただまだ状況に頭が追いついていない。
「何だ? 記憶障害か? おい一条、もう一発殴ればこのバカが目を覚ますかも知れんぞ」
「ぶちのめしてません!」
一条さんがいた。
僕は無理矢理首を動かして声の主を探した。
「そもそもコイツが私の胸触るから!」
「何だと? それじゃ、もう一発殴っとけ。大丈夫。ここは保健室だ。手当ならすぐ出来る」
物騒な台詞だと思った。
「……どこの保健室の先生が、暴力を推奨するんですか」
「それだけ口が利ければ上等だ。瀬川、もう大丈夫だろう?」
瀬川さんもいたのか。
「そうね。結城君、動ける?」
僕は何とか上半身を起こした。一条さんから打ち込まれたダメージは思ったより深刻なようだ。
「まだ歩けそうにないです」
「凄いな一条。男子生徒を一発KOか!」
由利川先生が妙な感想を口にした。
「凄くない! そんなの嬉しくも何ともない! あんたもさっさと起きなさい! 男でしょ!」
無茶な要求にも程がある。
とは言え一条さんに逆らっていい事なんてない。
僕はぎぎぎと軋む体を動かし、何とかベッドから降りた。
「おっと」
足がふらついた。おっとっと、と手を伸ばす。
不幸な事は重なるもので、その先には柔らかい何かがあった。
「ぎゃーーーっ!」
一条さんが変な悲鳴を上げた。
同時に膝蹴りが僕のアゴを砕いた。
僕は再びベッドに転がった。
「な、なにすんだよ!」
「あんたが私の胸触るからよ!」
「仕方ないじゃないか! 倒れそうになったんだから!」
「それならそれで他に掴まるモノがあるでしょ!」
「そんなの探す余裕ないよ!」
「まぁ待て待て」
由利川先生が割って入った。
「一条」
「何ですか」
「いいか、年頃の男の子ってのは厄介なんだ。無意識に女性を追うように出来てる。だからきっと悪気はなかったんだ。と思うぞ」
全然フォローになっていない。
「結城も結城だ。ふらつくならもう少し考えてふらつけ」
これまた無茶な要求だった。
「とにかく二人とも元気そうね。良かった良かった」
瀬川さんは僕たちを遠巻きに見ながら安心していた。
安心するならもうちょっと近付いてもいいのでは?
だんだん頭の回転が戻ってきた。一条さんの蹴りのせいかも知れない。
「あの連中は? あの後どうなったんです?」
「逃げた」
由利川先生がその状況を端的に口にした。
「散り散りになって逃走した。まぁ捕まらないだろうなあ」
由利川先生は自分の椅子に座りながら、他人事のようにそう言った。
「詳しい事は瀬川に訊いてくれ。私は白目剥いたお前を運び込んだ事しか知らん」
そりゃそうか。訊く相手が違うか。
「瀬川さん」
「補足なし。逃げたとしか言いようがない。車は乗り捨てられていた。今鑑識が色々やってる。どうせ盗難車だと思うけどね」
「そうですか……」
車を使わず、散り散りに逃走。明らかに『逃走』を意図した行動だと思った。
「でも、監視カメラには映ってるんでしょう?」
「そんな高解像度のカメラじゃないし、全員覆面してたし。一応警察には提供したけど、手がかりになるかどうか」
うーん。
何か忘れている気がする。
あ。
「火災報知器は誰が、いやどこで押されたんですか?」
「西校舎の昇降口。誰が押したかは不明。と言うより、押された形跡がなかった」
「え?」
「あらかじめ仕組まれてたって事よ」
つまり。
あの連中以外にも仲間がいる。
授業中にいきなり警報が鳴り、校内は騒然とする。そのタイミングで一条さんを拉致する気だったのだろうか。しかも逃走手段までも無駄がない。あまりにも『手際が良過ぎる』。
──一体何が目的でこんな事を?
僕は何気なく窓を見た。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
そんなに長い時間気を失っていたのか?
「一条に感謝しとけよ? ずっと傍にいたんだからな」
「せ、先生それは言わないって!」
「いいじゃないか。それに言わないと感謝すらしないぞ、こいつは」
酷い言われようだった。
「僕だって感謝の心くらい持ち合わせてますよ。それより」
僕は一条さんを見た。ぷいとそっぽを向かれた。僕はため息をついた。この機嫌を直すにはどれだけの労力が必要なんだろう?
「それより授業は?」
「何言ってんだお前。皆帰ったよ。残っているのは先生方と、私と瀬川くらいだ」
由利川先生の目が『お前のせいでな』と言っていた。
「理事長は?」
「今こっちに向かってる。これから緊急の職員会議が開かれる。あんな簡単に外部の人間の侵入を許しちゃ当校のセキュリティを疑われる。その対策会議になるわね」
「ま、そう言う事だ。後は大人の仕事だ。お前らは帰っていいぞ」
お役御免ですか。おおっとその前に。
「橘先生は?」
「橘は今日は休みだ」
「は?」
「有給で休んでいる。だが非常事態だ。今頃呼び出しをかけているだろうよ」
ええ?
と言う事は、今日の騒動に橘先生が関与していない?
「瀬川さん」
「そうね。もう後は本人に訊くしかない。それとも準備をしていたのか……」
「何をごちゃごちゃ言ってるんだ?」
由利川先生が割って入ってきた。
「橘が何をしたのかは知らんが、自白させればいいのか?」
この先生が言うと、何でも明るみに出て来そうだ。
「一条さんはどうする?」
「私はお祖父さまを待っててもいいけど……」
「それは構わないけど……。会議、長引くわよ? 一旦帰った方がいいわね。私が送るわ」と瀬川さん。「ついでに結城君も」
僕はついでらしい。
「じゃ、そういう事で。今日は店じまいだ」
由利川先生がどうにも不謹慎な台詞で、その場をとりまとめた。
2
「今日は大変だったわね」
運転席でシフトチェンジしながら、瀬川さんが話しかけてきた。女性が乗る車なのにマニュアル車。いかにも『くのいち』の瀬川さんらしい。
僕は助手席。一条さんは後部座席。序列と実用を兼ねた配席だった。
「そうですね」
僕はのど元にナイフを突き付けられた女子生徒を思い出した。
「あの女子は、大丈夫だったんですか?」
「ああ、あの子は大丈夫。結城君のおかげで傷一つ負ってない。それにしてもよくあんな行動取れたわね」
「あれは……隙さえ作れば、一条さんがどうにかしてくれるかなーと思って」
「……呆れた」
後部座席からボヤき声が聞こえた。
「私がか弱い女の子だって事忘れてない?」
「最近の日本語は用法が難しいですね」
「あんた、私にケンカ売ってんの?」
「まさか。もう充分だよ」
パンチにケリ。もうお腹いっぱいだ。
「あ、あれはあんたが変なトコ触るからよ!」
「不可抗力だよ」
「そんな都合のいい不可抗力があるかっ!」
「いや、だって」
「ちょっと黙って!」
瀬川さんが鋭い声を上げた。どこか緊張感のある声色だった。
「……どうしたんですか?」
「尾けられてる」
「え?」
周囲は夜の帳が降り、闇に支配されていた。所々に街灯があるが、照らす範囲は狭い。
「くっ」
瀬川さんはヒールアンドトゥでギヤを落としつつ、ステアリングを切った。
リアタイヤが悲鳴を上げてスライドする。
「どこかに掴まってて!」
僕と一条さんはとにかくシートに体を押しつけ、天井やドアに手を押し当て体を固定した。
それでも前後左右からかからるGがキツい。
「くそっ、まだ追って来る!」
瀬川さんの右足がペダルを目一杯踏み込む。僕は生きた心地がしなかった。
と。
「まずいっ!」
目の前に巨大な光源。
──ぶつかるっ!
瀬川さんは、ひっきりなしにシフトレバーを動かし、クラッチペダルとブレーキペダルを踏んだ。
派手なスキール音を立て、車が横向きになって止まった。
目の前の黒いワンボックスカーから、わらわらと黒づくめの男たちが出て来た。
「二人ともそこを動かないで!」
瀬川さんは車を降りた。手には長い棒状のライトが握られていた。
僕は運転席から全てのドアをロックして、後部座席へ移動した。
「何でこっち来んのよ!」
「『ボディガード』」
「は?」
「僕は理事長から一条さんの『ボディガード』を任されてる」
「……」
一条さんが暗がりの中、じっと僕を見た。
「ゆ、結城君」
「大丈夫。瀬川さんは『くのいち』なんだ」
「は?」
その時だ。
窓ガラスの割れる音がしてドアロックが解錠された。
「出ろ!」
くそ、ドアロックした意味がない。時間稼ぎにすらならない。
僕たちは開け放たれたドアから引きずり出された。見ると、瀬川さんがぐったりと横たわっていた。
「瀬川さん!」
僕が叫ぶと瀬川さんも叫び返した。
「逃げなさい!」
だが。
周囲を黒づくめの男たちに囲まれ身動きが取れない。逃げ場は見当たらなかった。
「あんたはどいてなさい」
一条さんが僕の肩を引っ張った。
「地に這わせてやる」
「ちょ、ちょっと待った!」
と僕が静止するより一条さんの動きの方が早かった。
一条さんは流れるように動き、連中の一人が一瞬で地に這った。
「後三人」
一条さんの目に凶暴な輝きが宿った。
が。
僕の視界の端に一条さんの背後から近付く男が映った。
「一条さん、後ろ!」
「!」
連中の中で一番体格がいい男が、一条さんを羽交い締めにした。一条さんの足が宙に浮いた。
だが、それくらいで動きを止める一条さんではなかった。
一条さんは思いっきり後頭部を大男の顔面ぶちかまし、その隙で体の自由を取り戻した。
──おお!
一体どれだけの武術やってんだ一条さん。
僕は拍手喝采したくなった。
だがそれは叶わなかった。
後ろから首筋に『何か』が押し当てられ、目の前でバチっと火花が散った。
──スタンガン!
瀬川さん程の『くのいち』を、一瞬で無効化出来るなんておかしいと思ったんだ。
──く……っ!
体中の力が抜ける。
僕は膝から崩れ落ちた。
「こら! あんた何やってんのよ!」
一条さんの声がはるか遠くから聞こえて来た。
──ミスった……。
僕はスタンガンの直撃を受け地に這った。手足がしびれて重い。まるで自分の体じゃないみたいだ。指を動かすのがやっとだ。
「早くしろ! 人が来る!」
黒いワンボックスの運転席から、目出し帽を被った黒ずくめの男が怒鳴る。
「いや、この女手強いぜ?」大男が頭を振りながら立ち上がった。
それを聞いた目出し帽の男は、ニッっと口元を歪ませた。
「そこに這いつくばってるガキがどうなってもいいのか?」
「大人って卑怯だわ!」
「何とでも言え。俺が訊いてるのはイエスかノー。それだけだ」
「……好きになさい」
一条さんは力なく両手を挙げた。
──くっそー。これじゃ『ボディガード』じゃなくただの『お荷物』だよ!
「おい、そこのガキも乗せろ」
「あん? それは『依頼』にねぇぞ?」
「この嬢ちゃんが暴れないための保険だ」
「……分かった」
大男は僕をひょいと抱え上げ、車に乗り込んだ。
「両手を後ろ手に縛れ。足もだ。それと目隠しした後に口をテープで塞げ。それと携帯を取り上げろ。急げ!」
「こらっ! 私に触るなっ! そんな事しなくても抵抗なんかしないわよっ!」
一条さんが喚くが、目出し帽の男は冷静に言い放った。
「念のためだ」
僕たちを乗せると、黒いワンボックスカーは急発進した。
──ちっくしょー! これじゃただのお荷物だよ!
僕は自分の不甲斐なさを嘆いた。
3
朦朧としていた意識がはっきりしたのはしばらく経ってからだ。目隠しはいつの間にか外されていた。
僕はパイプ椅子にロープで両手両足括り付けられ、身動き一つ出来ない。自由に動くのは頭と目だけだ。
僕はぐるりと周囲を見回した。
そこは四方がコンクリートで覆われ、窓一つない部屋。鋼鉄製の扉が一つ。
──地下、かな?
そして黒づくめの男たちが三人。僕たちを攫った犯人たちだろうな。一人足りないが、部屋の外で見張りでもしているのかも知れない。
僕は一条さんを探したが、首が回る範囲では見当たらない。
──別の部屋かな。
「テープを外してやれ」
「あいよ」
テープは思いっきり勢い良く剥がされた。口がヒリヒリした。
「痛いじゃないか!」
「ほほぅ、まだそんな口が利けるか」
目出し帽の男は帽子を脱いだ。無精髭がヤケに似合っていた。言動や立ち位置から判断すると、どうやらリーダー格らしい。
「おい! 顔を晒すのかよ!」
「いいんだよ。どうせもう終わった仕事だ。これが終わったら海外に逃げる。このガキがいくら騒いだって届きゃしねぇさ」
「……彼女をどこにやった!」
「お前、自分の立場分かってるか?」
男はそう言って、面白そうに僕を見た。
僕は男を睨み付けた。
「いい度胸だ」
男のケリが腹に入り、僕は派手に咳き込んだ。
「あの嬢ちゃんがやたら強いのは驚いたが、一応計画通りだ。今頃『犯行声明』が学校に届いているだろうよ」
「犯行声明?」
「『明日の九時までに二〇〇億用意しろ。さもなくば生徒の安全は保証しない』」
「……日本じゃ身代金目的の誘拐は成功例が少ないよ?」
「いいんだよ。俺らの目的は金じゃない」
「……?」
「ま、これ以上はお前に教える義務はない。ゆっくりしてな。こっちはこっちで忙しいんだ」
金銭目的ではない誘拐。
そして僕に顔を晒した。
──生命の危機ってとこかな。
でも僕に出来る事なんてたかが知れている。せいぜい睨み返すくらいだ。
しかしだ。
せめて一条さんくらいは脱出させたい。
危ない橋を渡ってる自覚はある。
『ボディガード』としての責務もあるが、僕の『男』としての意地だ。
「ねぇ。この後、僕らはどうなるのさ?」
何か作戦が必要だ。それには時間や情報が必要だ。
男は屈み込み、僕に視線を合わせた。
「分かってるだろう? そんなにお馬鹿さんじゃないってツラしてるぜ?」
「僕を殺したって何の得もないですよ?」
「損得の問題じゃない。俺たちの仕事上の問題だ。そもそもお前は勘定に入っていない」
冷徹で合理的な回答だ。
「俺たちの仕事はお嬢ちゃんを攫うまでだ。そっから先の事は知らん」
驚いた。犯罪に分業があるなんて思いもしなかった。
『堕とし屋』がいるとすれば、この連中は差し詰め『攫い屋』だろうか?
「何かしようったって無駄だぞ? ここには誰も来ない。それとも実は奥の手があるなんて言うんじゃないだろうな?」
「そうだと言ったら?」
「即座に黙らせる」
「そんな事したら彼女が黙ってませんよ?」
「言っただろう? 俺らの仕事はお前らをここに連れてきて監禁するまでだ。その後あの嬢ちゃんが暴れようが何をしようが関係ない」
話はそこまで。
男はそんな顔つきで、僕から離れようと立ち上がった。
その時だ。
突然部屋が闇に覆われた。
「な、何だ? どうした?」
慌てる男たち。
次いで大きな爆発音と金属音。何かが閉まるか倒れるかしたらしい。
「くそっ! 誰かライト持ってねぇか!」
その声に応じ、ささやかな光が灯った。
「……ペンライトかよ」
「仕方ねぇだろ? これしかない。ライターもないしな」
「誰かタバコ吸わないんですか?」
僕が口を挟むと意外な答えが返ってきた。
「タバコは体に良くねぇ」
随分健康的な犯罪者だと思った。
「一体何が起こった?」
それは僕が知りたい。
「おい、誰か説明しろよ」
何の説明だ。
僕は一旦頭をリセットして、状況を整理しつつ『説明』を始めた。
「電源が落とされたね。さっきの爆発で出入り口が塞がってるかも。大きな金属音がしたけど、あれは防火隔壁かな? とにかく閉じ込められた」
「お前に言われるまでもねぇよ!」
男は強がっているが、あきらかに狼狽していた。
「あのヤロー、裏切りやがったな」
「あのヤロー?」
「依頼主だよ」
男は、忌々しそうに吐き捨てた。
「何が『堕とし屋』だ。仕事仲間ごと堕っことしやがって」
──『堕とし屋』!
「おじさん!」
「お兄さんだ!」
男は年齢設定を訂正した。
「『堕とし屋』と会ったの?」
「直接は会っていない。電話だけだ──いや、一度会ったな」
「一度?」
「おいガキ」
男は僕の頭の毛を鷲掴みして凄んだ。
「何が言いたい? 男ならはっきり言え」
凄んではいるが、男の焦りが伝わってきた。
そのせいで僕は冷静になった。この空間では誰も何も出来ない。付け入る隙はここかも知れない。
光源は男たちが持っていたペンライトのみ。
これが切れたらもう誰も何も出来ない。
一条さんがどんな状況なのか不明だが、今はこのペンライトに頼るしかなさそうだ。
「交換条件」
「あんだと?」
「そのペンライト、保っても後数分じゃないかな。その後は真っ暗になる。そしたらここにいる全員がどうにもならなくなる。ここから出られなくなる」
僕は分厚そうなコンクリートの天井を思い浮かべた。
「まさかツルハシとか持ってないよね?」
「んなモンはねぇな」
「じゃ、尚更だ」
男は自分の頭を掻きむしった。
「だから何が言いたい? さっさと言え。時間がない」
「僕を彼女の所へ連れて行って」
「なぜだ?」
「裏切られたんでしょ? それなら契約は全部ご破算。限られた労力を皆が助かる方向に向けた方がいいと思う」
「……何企んでやがる」
僕は精一杯虚勢を張った。
「僕と彼女で全員ここから脱出させる。その替わり『堕とし屋』の情報が欲しい」
4
僕と元・誘拐犯たちは、頼りないペンライトの光で何とか一条さんがいる部屋に辿り着いた。
「おおい、急に真っ暗になってよ。どうなってんだ?」
一人少ないと思ったら、一条さんの監視役だったようだ。
「詳しい事は分からねぇ。とにかくここから出ねぇと話にならん」
ペンライトが僕に向けられた。
「いいか、変な気起こすなよ」
「分かってるよ。どうせこれじゃ何も出来ない」
僕は足こそ自由にしてもらったが、手は縛られたままだ。
「おら、先に行け」
背中をど突かれた。どうせ何も出来ないのに。用心深いなぁ。
ペンライトの光は今にも消えそうだ。色が白色ではなくオレンジに近くなっている。
「一条さん!」
「んーー」
返事があった。
「お兄さん」
「何だ?」
「とりあえず彼女の口のテープ剥がしてよ。これじゃ話が出来ない」
「……剥がしてやれ」
「あ、一点だけ注意が」
「何だ!」
「丁寧に剥がさないと後が怖いよ?」
「……了解だ」
ここにいる全員が、一条さんの怖さを身をもって知っている。触れれば投げ飛ばされ、距離をおけば蹴りが飛んで来る。この中で最強なのは、きっと一条さんに違いない。
二〜三分が経過した。
「ぷはっ」
やたらと時間がかかったのは、『丁寧に』剥がしたからだろう。
「……よくも私をこんな目に遭わせてくれたわね」
「一条さん。今は時間がない。怪我とかしてない?」
「……口元がヒリヒリする。それからロープがキツイ。とっとと解いてよ!」
「だ、そうですが?」
男はしばし考えた。
「嬢ちゃん。一つ約束して欲しいんだが」
「何よ?」
「暴れねぇでくれよ?」
「それはあんたたち次第。先に言っとくけど、私は今機嫌が悪い。丁重に扱うと約束するなら暴れない」
「お前ら、それでいいな?」
男は仲間たちを振り返り、同意を得た。
「ついでに僕の縄も解いてよ」
「んなモン自分で何とかしろ。男だろ」
無茶な要求だと思った。
と。
ふっとペンライトが消えた。
「うをっ! ヤベえ!」
一切の闇。
もう自分の指先すら見えない。
「おいガキ! 交換条件、忘れてないだろうな?」
「忘れてないよ。だけど彼女がどこにいるのか……」
男は僕の手を縛っていたロープを解き「手探りで進めよ」と頭を小突いた。何で声だけで頭の位置が分かるんだ?
僕は手を前に突き出し、そろそろと歩を進めた。
ふいに。
ふに、とした何やら柔らかい感触があった。
そして。
部屋中に盛大な悲鳴が響いた。
「ぎゃーーーーーーーーっ! このバカ変態ドスケベ死んじゃえーーーーっ!」
5
「あーあ。手首、痣になっちゃうかも……」
一条さんがボヤいているが、こっちはそれどころじゃない。
一条さんに罵倒されつつ縄を解くと、往復ビンタ、右ストレート、ハイキックのコンボを食らった。
この闇の中、なぜこんなにも正確に僕の顔面の位置が分かるのか不明だった。
「こっちは痣どころじゃないよ……」
「何か言った?」
「いいえ……」
僕は痛む頬を押さえつつボヤいた。
今この部屋には、元・誘拐犯の男たち四人、それと僕と一条さんしかいない。とりあえずと言う事で、全員がそれぞれの衣服を掴んで繋がっている。手を離せば下手すると死に繋がる。
「いいかお前ら! 絶対に手ぇ離すなよ!」
男が声を張った。僕にはそれが、闇に対しての恐怖をぬぐい去っているようにも聞こえた。
実際僕も相当怖い。目の前が真っ暗というのが、こんなに圧迫感があるとは思わなかった。
僕は一条さんのブレザーの端を握っているが、果たして本当に一条さんなのかも怪しい。
なので呼んでみた。
「い、一条さん?」
「わあっ!」
なぜか一条さんが大声で驚いた。
「な、何だどうしたっ!」
「こらお前、急に動くなっ!」
「おいコラ手を離すなって。抱きつくなっ気色悪ぃっ!」
後続の男たちが、それぞれが恐慌状態に陥った。
「あんた、急に話しかけないでよっ! びっくりするでしょっ!」
「いや、一条さんがいるのかなーって思って」
「いるわよ。どこに行くってのよ、この真っ暗な部屋の中で!」
さっきから一歩も進んでいない、僕たちと元・誘拐犯たちだった。
6
「で、どうやって俺たちをここから出してくれるってんだ?」
「まぁ、そこは今から……」
「んだと! さっきまで自信満々だったくせに! 交換条件ってのは嘘っぱちか?」
「交換条件って何よ」
一条さんが尋ねてきた。
「ああ、それはね」
僕は、ここから全員脱出させる替わりに『堕とし屋』の情報を提供してもらう事になっている旨を告げた。
「……呆れた。どうやってここから出るつもりだったの?」
「その相談をしようとしてたら、ライトが消えてさ」
「このガキ共は……緊迫感がねぇのか? それともバカなのか?」
「バカはこいつだけです!」
その時だった。
天井から破片が降ってきた。次いで、大きな振動が伝わってきた。耳元をコンクリート片らしきものがかすめた。
「ヤバいな。このビル、そう長くは保たねぇぞ?」
「倒壊するって事ですか?」
「このままだとな」
そう言っている間にも、小刻みな振動が足元から伝わって来る。これは本当に時間がないようだ。
「一条さん」
「な、何よ」
「目隠しは?」
「階段降りたら外された」
「じゃ、見たんだね?」
「ええ」
「地図、作れる?」
「ちょっと待って……」
一条さんが、くるりと一回転した気配がした。
「……私が縛り付けられていた椅子から扉までの距離が七メートル。で、その先は廊下になってる。左右に道がある……入り口は……」
男たちが生唾を飲み込んだのが聞こえた。
──きっと唖然としてるだろうな。
気配で何となくそう思った。
「……うん。『地図』は大丈夫。方角は?」
「あっちが北」
「お前ら……何言ってんだ?」
男が抑揚のない声で呟いた。
「一条さんは周囲を見さえすれば地図を作れる。その間に壁があろうが建物があろうが関係なく正確にね。で、僕は方角を言い当てられる」
「マジかよ……」
感心しているのか気味悪がっているのか。まぁどっちでも構わない。もう慣れっこだ。
「見えなくても歩いた範囲で想像出来ますけどね。それより北があっちって言われても何も見えませんけど?」
「……あ」
しまった。方角を指し示そうにも、この暗闇じゃ何も見えないじゃないか!
「……あんた、考えてなかったわね?」
一条さんが僕の胸中を見透かしたようにそう言った。次いで大きなため息の音がした。きっと呆れているに違いない。
「い、いや。大丈夫。一条さんの体の向きを変えれば……」
と一歩足を前に踏み出した瞬間。
こつん、と何かにぶつかった。同時に口元に柔らかい感触も。
「……は、早く方角を教えて」
あれ?
急に一条さんの口調の角が取れた気がした。
まぁいいや。
「ええっと、じゃ失礼して」
僕は一条さんの両肩に手を置いた。一条さんの息づかいを感じる距離。こんな状況なのにドキドキした。
「え、ええと。今、一条さんは僕の方を向いている」
「そ、そうね」
なぜか口ごもる一条さん。
「どうしたの?」
「な、何でもない! 早く方角を教えなさい!」
いつもの一条さんの口調に戻った。
──さっきのは何だったんだろう?
とりあえず、僕は一条さんの体の向きを『北』に向けた。
「……よし。じゃ行くわよー」
一歩ずつ。一条さんを先頭に、僕たちはそろそろと動き出した。
7
「あいたっ!」
先頭を歩く一条さんが何かにぶつかったようだ。
「どうしたの?」
「ここ、入り口なんだけどね」
「塞がってる?」
「そうね」
口調は淡々としているが、それは、今までの苦労がまさに徒労に終わった事を示していた。
「くそっ!」
男の一人が、悪態をついた。
直後。
「痛ってぇ!」
どうやら悪態ついでに瓦礫ではなく、柱か壁を蹴っ飛ばしたようだ。
だが。
ぱらぱら……。
天井から、細かな破片が落ちてきた。
「ほほう。この俺様にケンカ売ってんだな?」
きっとニヤッと笑ったに違いない。
「お前ら! 何でもいい。その辺の壁やら柱、蹴っ飛ばせ!」
誰かが何かにぶつかるか蹴飛ばすかする度に、舞い降りる破片の量が増えていく。
「おりゃーっ!」
たぶん一番体格のいい男が体当たりしたのだろうか。派手な音がして、ガラガラと構造物が崩れた。
と。
天井の一部が崩れ、一筋の光が差し込んだ。
「あそこだ! 行けっ!」
全員がその一点に集中して、瓦礫を掻き分けた。
掻き分け。
掻き分け。
さらに掻き分けた。
そして。
人が一人通れるくらいの穴が開いた。
「……やっと出られる……」
僕はへたっと座り込んだ。安堵した反動で疲労が最大値だ。
「おいガキ」
月明かりに照らされ男の顔が見えた。埃やら汗で煤けていた。
「お前は約束を守った。後は俺が守る番だ」
そうでした。
こっちはまだ終わっていない。
少なくとも一条さんを危険に晒したヤツを放っては置けない。
僕は立ち上がり、瓦礫の山を登り外に出た。
何時間ぶりかの空気。
夜は更け、空はやけに澄み渡っていた。
「一条さん」
僕は手を伸ばした。
一条さんは僕の手を握り、穴から這い出た。
「ここは……」
「ここは、元々は工業団地になる予定だった場所だよ。企業誘致が思うように進まなくて、ほとんどが更地。誘致に成功しても、採算が取れずに撤退。その結果がこれ」
僕は自分たちが出て来た廃墟を見た。
「電源が生きてたのはびっくりだよ。誰が払ってんだろう?」
「あーここはな」
男が出て来た。一人だった。
「俺らがアジトに使っている場所の一つだ。電源やら水やらはその辺の配管から失敬している」
「それってドロボーじゃないですか」
「ははっ、その通りだ。俺たちはそれを生業にしている。裏の世界の人間さ」
そう言う男は寂しそうに笑った。
「だがな、裏の世界は表ほど単純じゃない。能力と信頼のみで生き延びなきゃいけねぇのさ」
「単純に聞こえるけど?」
「そう思ってるよりは複雑って事だ。だから裏切りは許されない。お前らみたいなのが関わっていい世界じゃねぇんだ」
男の顔に影が落ちた。
「一度しか言わねぇ」
男は小さな声で、その名前を告げた。
8
「いいの? あの人たち?」
僕たちは崩れつつある廃ビルから遠ざかりながら、街の灯を目指していた。ざっと五〜六キロはあるだろうか。まぁ夜明けまでには着くだろう。
「うん。いいんだ。あの人たちは自分で何とかする。それに一応犯罪者だ。僕たちがこれ以上一緒にいてもロクな事にならない」
「そう……」
なぜか名残惜しそうな一条さん。
「いいんだよ? 一条さんは残ってても」
「は? 何でよ?」
「一条さんの破壊力はきっと戦力になる。スカウトされるかも知れない」
「……あんた私にケンカ売ってんのね? そうなのね?」
バキバキと指が鳴った。
「それはともかく。ここから先は僕たちの闘いだ」
「スルーしたな!」
「表の世界らしく常識的に行こう」
「だからスルーするなってば!」
「その前に一旦お風呂かなぁ。一条さん、酷い格好だよ」
「あんただって同じでしょうがっ!」
空が白み始めた。朝が来る。今日が来る。──対決が始まる。
「徹夜しちゃったよ……ああ、眠い」
「あんたは緊張感がなさ過ぎる!」
「一条さんが元気過ぎるんだよ」
「なんだとぉ!」
一条さんはホント元気だ。基礎体力の違いかも知れない。
「あんたが運動不足なのよ!」
……ごもっともで。
返す言葉のない僕だった。