第二案件 その4
蒔田真希が、エスカレーターに近づく。
その視界は、悪くなる一方だった。
下からの煙が、エスカレーターを一種の吹き抜けとして、駆け上がってきているからであった。
火災が発生する前は、幾人かが移動に使用したのだろう。
天井――いまでは床に当たる部分がべこべこにヘコんでいた。
下からは黒煙が上がり続けている。
紫水彰と千石武臣は、姿勢を低くしたままうなずき合い――じゃんけんを始めた。
無言で手を振る。
あいこ、あいこ、決着――
彰が自分の手を不満げに見つめる。
そして、先行した。
エスカレーターの背面――床となる斜面に足を載せる。
ギユッ――スニーカーが滑り落ちる身体を支えるべく摩擦で音を立てた。
姿勢を低くしたまま、斜面を駆け上がって行く。
武臣がそれに続く。
真希も離されまいと続く――姿勢を低くしているとは言え、息苦しいし、何より目が痛い。
涙が止まらない。
目をつぶる――手前の薄目にし、エスカレーターを駆け上がった。
2フロア分駆け上がり、3階に到着した。
上に進めば進むほど、煙の中に突っ込むような形になると思ったのだが、思った以上に煙が少ない。
なによりイベントフロアのためだろう――床まで――頭上の高さが2フロア分ある。
それに加え、1階の出入り口が大きく口を開けているため、そこから外へと出ていることが大きかった。
地階は、煙の逃げ場が無く、悲惨なことになっていたが――真希には知る術もない。
彰と武臣は、足下の天井にあるフレーム上を、余裕が出来たため、背を起こして素早く駆けていった。
真希も置いて行かれまいと慌てて付いていく。
フロア中ほどに連絡通路が見えた。
アコーディオン状の門扉が、だらんと斜めに垂れ下がっている。
彰が近づいて、門扉をグッと2度、3度と引っ張ると、ギギッと金属同士が擦れる音がした。
慌てて手を離す。
支柱に上からはめてあるだけの簡単な作りだ。
逆さまになることなど想定されていない。
彰が引っ張ったことで、1、2センチほど抜け駆けたのだ。
少し離れていた武臣の元に戻る。
天井――足下のフレームから連絡通路の切り欠きまで2メートルはあるだろうか。
ふたりして壁へと全力で駆ける。
そして、ジャンプ――壁を一蹴りして更に上へ――腕を上へと伸ばし、通路へと手を掛け、勢いそのままに身体を引き上げる。
「ええッ!?」
思わず真希の口から、驚きの声が出てしまう。
一瞬の出来事であった。
打ち合わせをするでも無く、アイコンタクトすら見受けられなかった。
「ま、待って――」
真希が、そう言った所で、ふたりが待つ理由にはならない。
彰は、一瞬だけ――ちらりと真希の方を振り返ったが、そのまま奥へと姿を消してしまう。
――別段、彼らの仲間という訳では無いのだ。
置いて行かれるのも当然ではあったが――
「なによ。引き上げてくれてもいいじゃない」
思わず、そんな愚痴が漏れてしまうのも仕方の無い事であった。
やり方は解っている。
彼らに出来たのだ。
真希にも出来る――ハズだ。
何度も壁と通路を見やる。
行ける。
行ける――ハズ。
「行けるんだからーッ」
壁へと一直線に走り出す。
迫り来る壁。
もう飛んだ方がいいだろうか。
まだ早いだろうか。
――意を決して壁へとジャンプ。
上へと手を伸ばす。
一歩、蹴るが届きそうに無い。
もう一歩、蹴る。
身体が、壁から遠ざかる。
だが、右手は――届く。
図面ケースを持った左手も、大きく振りかぶり通路へと載せる。
両手が掛かれば、こっちの物だ。
身体を引き上げる。
壁を2度、3度と駆け上がるようにして、身体を押し上げた。
別館への連絡通路には、人の姿は無かった。
ふたりは、既に別館へと入ったのだろう。
連絡通路の大半は、足下が透明だった。
ガラス張り――ガラスでは無く、透明な樹脂板なのだが、真希にはそこまで解らなかった。
透明な天井だった。
フレームは、極細と言っても過言では無い。
1センチか2センチ――あるか無いか。
さすがに、透明な板の上を歩く気は起きなかった。
恐る恐る、フレームの上へと足を載せる。
ギチィッときしむ音がし、思わず足を引っ込めてしまった。
先ほどまでとは違う。
足下の天井が抜けたところで、その下に落ちるだけだった。
今は違う。
足下には晴天が拡がっていた。
落ちたら――どこまで落ちて行ってしまうのか。
それを確認する気も、したいとも思わなかった。
ごくり――知らず知らずの内に喉を鳴らしていた。
目をつぶり斜め上を見やる。
目をつぶっているのに、自然と視線が足下へと向かう。
2度、3度と深呼吸をする。
「よしッ」
下を見ないように――正面を見据え、心を決めた。
上半身を屈め、身を低くしながら飛ぶように大きな一歩――
僅かな幅しか無いフレームへと、勢いと体重の載った右脚が触れる。
ギチィともミシィとも付かない音が、真希の不安を煽った。
勢いを殺さず、駆け抜けるつもりで左脚を踏み出す。
ミシィときしむ音が通路の中を満たす。
真希の足下、前方、そして後方から襲ってきた。
両腕に鳥肌が――ずわっと走るが、今更止まる訳にはいかない。
更に1歩、真希の体重が移動する毎に、きしむ音が響く。
最後の1歩――真希の身体が、連絡通路の反対側へと到達した。
ほぅと大きな息を吐き出しつつ、変な荷重から解放されたきしみ音が真希の後ろから響く。
たったこれだけの距離なのに、息が上がっていた。
はぁはぁと荒い息を吐きながら後ろへと振り返る。
特にひびが入って白濁したりすることも無く――何事もなかったかのように青空を見やることが出来た。
息を落ち着かせ、別館の中へと視線を移す。
大規模改装中――その名に偽りなし――という様相を呈していた。
「早く追いかけないと」
先刻の水魔法が、このデパートを示しているのならば、彼らは、別館の中ほどを目指しているはずだった。
化粧板も無く、フレームがむき出しになっている天井へと足を下ろす。
不安定な足場ではあるが、先ほどの連絡通路に比べれば、しっかりとした足場に思える。
本館と違い、明かりが少ないのが心許なかったが、ぽつんぽつんと点灯している非常灯がある。
そのお陰で、暗闇という訳でも無かった。
スプリンクラーが吹き出している形跡は無い。
火災が発生していないのだろう。
呼吸が楽になるのはありがたかった。
「誰も、いないよね――」
そう呟くが、ソレに応える人はいない。
民間人に目撃されるのは避けたかったので、図面ケースのまま持ち歩いていたが、人の目が無い――と判断して図面ケースを開ける。
留め金を外し、白木造りの鞘を掴む。
いつでも抜刀可能なように――心構えをしつつ、フレームの上を走り出した。
ふたりに追いつくために――
Twitter @nekomihonpo