第二案件 その3
蒔田真希は、階下から黒煙が登ってくるエスカレーターの側まで移動していた。
煙が充満――と言うほどでは無いが、視界に影響する程度には煙が立ちこめてきていた。
噴水のように水を噴き上げるスプリンクラーの水でハンカチを濡らし、口に当ててはいたが、心なしか喉が痛いように感じられた。
人々がパニックを起こし、人々が殺到――することは無かった。
恐慌状態に陥っているのは間違い無い。
しかし、慌てて移動を開始した人は、足下の石膏ボードをぶち抜き――天井裏へと落下していった。
多少落ち着きのある幾人かは、エレベーターホール、エスカレーター付近まで慎重に移動してきていたが、そこで途方に暮れていた。
集まってきた見知らぬ人と、どうすべきなのかを相談する。
逃げるべきは、「上」なのか「下」なのかと――
火災が発生しているのだ。
「上」に逃げては、煙に巻かれる。
しかし、「下」には屋上しか無い。
この「逆さま」になったビルの中で、「下」に逃げることが正解なのか――
「上」に逃げて助かるのか――
誰にも答えは解らなかった。
それでも――じっとしていては煙に巻かれてしまう。
個々人の判断で、エレベーターホール脇の階段を、逆さまになったエスカレーターを上へ下へと移動していった。
真希は、エスカレーター側で、もうもうと上がってくる煙に躊躇していた。
ゆっくり移動しすぎただろうか。
人で溢れかえっている訳では無いが、それなりに人が逃げてきている。
上にも下にも希望を見出せなかった人が、足下に開いた穴からそろりそろりと下へ降りていく。
煙から逃れると共に、スプリンクラーから流れ出た水が溜まっている。
生き延びる選択肢としては、ひとつアリなのかも知れなかった。
周囲を見回す真希の視界に、刀を持ったふたり組が映った。
その刀は、真希の図面ケースに入っている刀とは正反対の色をしていた。
刃先から真っ黒だった。
真希は、ふたり組へと近づき、声を掛ける。
「ちょっと。あなたたち。ソレを仕舞いなさい」
話しかけられたふたり組の内、髪型の整っていない方が、驚いたように真希へと振り返る。
年の頃は、真希と同じくらいだろうか。
ブレザーの学生服姿のふたり組だった。
「ぁ、いや。お嬢ちゃん。ごめんな。今ちょっと取り込んでるで」
振り返った男子学生に、そんなことを言われる。
もうひとりは、こちらに視線すら向けない。
「取り込んでるって――ソレを見られたらどうするの」
「ああ、まぁ、そりゃ確かにマズいんだが――」
真希は、その見たことも無い黒い刀を指差しながら指摘する。
真希と相対している男子学生は、どこか困った表情を浮かべつつ、彼らがしていることから真希の視線を遮るような形で立ち位置を変える。
もうひとりの男子学生は、スーツケースを見つめていた。
そのスーツケースには、スプリンクラーの水だろう――なみなみと水が溜められている。
「あなたたち、どこの所属なの?」
真希は、そう言いながら手帳を取り出し、その中身を見せつける。
身分証明書――真希の顔写真と所属が明記されている。
「げッ。対特――」
その声は小さく、真希には良く聞こえなかった。
真希と相対していた男子学生が振り返り、もうひとりの眼鏡の男子学生に話しかけようと――
「彰、始めるぞ」
「――ッ。解った。武臣、頼む」
「ちょっと、あなたたち――」
ふたりの男子学生は、真希を無視し、話し始めた。
眼鏡の男子学生――武臣と呼ばれた少年が、眼鏡の蔓を右手で触っていたかを思うと、その手を水へとかざす。
「励起ッ」
そう言葉を発したかと思うと、スーツケースに溜められた水が徐々に盛り上がってくる。
じわりじわりと不自然に盛り上がる。
円錐状ならまだしも――四角く盛り上がるなどというのは、不自然極まりない。
「――魔法」
真希が小さく呟く。
三人が見つめる中、水の柱は、70cmほどの高さに達しようとしていた。
そして、横に拡がる。
水のテーブルのようにも見える。
拡がった天板――にあたる部分の水は、耐えきれずにぽちゃぽちゃと落ちていくが、次々に水が補充されるためか、その形を維持していた。
そして、天板の一部から、水が大量に滴り落ちて――2本目の柱を形成した。
1本目の柱と違い、2/3あたりまでだろうか――天板から2本の柱が生えているようにも見える。
「どこだ?」
「まぁ、待て――」
武臣と呼ばれた少年が、左手に持つ黒い刀で自身の右手に傷を付ける。
ぽたり――血が水へと滴り落ちる。
1滴、2滴――
その血は、一瞬にして水に溶け込んでしまった。
真希は、ふたりを注意することも忘れ、様子を見守っていた。
魔法――当然ながら、一般的な事象では無い。
だが、ソレが、実在する物であるということも、真希は知っていた。
術士と呼ばれる人たちが行使する力のことだ。
呪文の詠唱を行うことで魔法陣の構築を行い、それを視界に捉え、魔力を注ぎ込むことで発動する。
属性媒介と呼ばれる物質を必要とし、その属性に関する魔法を使うことが出来る。
――と言うのが、真希の知る魔法だった。
目の前で、武臣と呼ばれた少年が使うような魔法では無い。
呪文を詠唱しているようにも見えなかった。
真希の見つめる水の中、2本目の柱――短い方の柱、中ほどがうっすらピンクになったかと思うと、赤い塊がゆらゆらと出現した。
それは血の赤にも見える。
「どこだ?」
「別館だな」
「別館?」
「今、工事中のハズだ」
操り人形の糸が切れたかのごとく、水の柱が姿を崩し、バシャンと音を立て没する。
「別館なんて、どうやって行くんだ?」
「3階に連絡通路があるハズだ」
「3階か――」
真希も館内の案内図を思い起こしていた。
確か、3階に連絡通路があった気がする。
工事中のシールが貼られてはいたが。
――と、そこまで考えて、そういうことじゃなと自分に突っ込みを入れる。
「ちょっと、あなたたち。こんな所で魔――そんなことするなんて何考えてるの」
真希が、噛み付くような勢いでふたりに詰め寄る。
その剣幕に――そう言えば、こんな女がいたなと思いだしたかのようにふたりが驚く。
――気圧されていると言ってもいい。
「あなたたち、どこの所属なの」
「ぇ、あ、――俺たちは、その――」
「私は、東京支部3班所属の蒔田真希」
真希は、そう言いながら、改めて手帳を見せた。
「げッ。3班かよ――」
ぼさぼさ髪の――彰が小さく呟いた。
「それで、あなたたちの所属は?」
「ああ、その。俺たちは――中野の」
「中野?」
「彰、行くぞ」
やぼったいメガネをかけた――武臣が、話をしている暇は無いと彰を促す。
その声に、それまで、どこかヘラヘラとしていた顔付きが変わり、真剣な物となる。
その変わり様を見て、真希にも思うところがあったのか、ハッとさせられた。
「どこから行く?」
「エスカレーターじゃないか?」
「――そうだな」
ふたりは、そう相談しつつ、エスカレーターへと向かう。
が、彰と呼ばれていた少年が、何かに気がついたように立ち止まり、真希へと振り返った。
「じゃあな、お嬢ちゃん」
「お、お嬢ちゃん!?」
「オレら、ちょっと野暮用で――」
「ば、バカにしないで。私だって――」
私だって、何だというのだろう。
彼らは、恐らく、今のこの怪異の何かを知っている。
付いていかねばならない。
そんな義務感に突き動かされての発言だった。
「いや、ほら。危ないかもだし?」
「それこそ、バカにしてる」
「彰ッ」
どこかイラついているかのような武臣の声に、悪かったよと彰が応える。
無視された形になった真希としては面白くない。
面白くないが、彼らがその気なら、真希にも考えがある。
とことんついて行ってやる。
人前で刀を晒していることといい、魔法を使ったことといい、彼らには言いたいことが山ほどある。
山ほどあるが――今は、この怪異を解決することが先決だ。
そう自分に言い聞かせ、黙って彼らの後を付いていくことにした。
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