第二案件 その2
「いつつッ」
蒔田真希は、全身に広がる鈍痛で目が醒めた。
どうやら床に横たわっていたらしい。
ゆっくりを身を起こし、頭を振って意識を覚醒させる。
身体を打ち付けたからか、身体中に痛みがあるが、骨折も出血もしていないようだった。
立ち上がろうとして、床の手触りに違和感を覚える。
ざらざらしており、所々に穴が開いているようだった。
――実際には、穴では無く模様のへこみであったが――
樹脂材特有のつるつる感が無い。
床に目をやると、薄いベージュで細かい穴の開いている物だった。
「え?」
思っていた景色と違うため、驚いて後ろへと手を着く。
ギシリともミチリとも付かない音が響き、身を固くする。
恐る恐る周囲を見回す。
同じ床材が拡がっているが、所々抜け落ちて穴となっていた。
床に取り付けられたスプリンクラーから水が噴き上がっていた。
その水が床を叩き、抜け落ちた穴へと落ちていく。
バシャバシャと水の音、悲鳴、そして呻き声――
抜け落ちた穴の周囲に残るレール、そしてそれを支えるボルト――
そのレールすら無くなっている箇所もある。
そんな場所には決まってボルトに赤い粘液が付着していた。
「キャアァァァァッ」
真希の近くで悲鳴が上がる。
誰かの立ち上がる気配がした。
そちらへと顔を向けると、小太りの主婦――だろうか、おばさんの姿が見えた。
そして、バキンッと音を立て床材が割れる。
「危なッ――」
真希が声を上げるより早く、その身体が床下へと落ちていく。
ガンと金属の筒を叩いたような音がしてから、バシャンッと水へ落下する音――
そして――断末魔の叫び声としか言いようのない、壮絶な悲鳴が耳朶を打つ。
それも一瞬のことであった。
真希が、恐る恐る移動し、穴の中を覗き込む前にはすっかり途絶えていた。
穴の中は、1メートルも無いだろう――
各所で口を開けた穴が、ぼんやりと中を照らす。
ダクトやパイプが走る中、コンクリート打ちっ放しの床、そして、その上で海老反りなるおばさんの姿が見えた。
腕を前に突き出したまま、上体を反らし、目は「かっ」と見開いている。
腕や足がびくんびくんと跳ねた。
「――大丈夫ですか?」
意を決して、真希が問い掛けるが、反応は無い。
視線すら動かないのだ。
びくんッと身体が跳ねる。
真希の乗る床、抜け落ちた穴から水がバシャバシャと流れ落ち、時たま「バシィ」と音が鳴り、火花が散る。
抜ける穴が無いのだろうか――水はうっすらと溜まり始めているようだった。
電気配線が切れ、溜まった水に接触しているのだが、ヒューズが飛ぶことも無く通電されたままがゆえ、筋肉が反応する。
ゆらりと――髪の毛が水に揺れる。
「うッ」
思わず、真希は顔を背けた。
何かがこみ上げてくるような感覚。
それを必死に押し返す。
そして、状況を確認するべく、そのまま周囲へと顔を向けた。
「一体、何が――」
そして、言葉を失ったかのように黙ってしまう。
天井から棚が生えていた。
床には明かりが点いていた。
――バチィと音を立てて、煙を上げつつ消えてしまったが。
バシャバシャと出ていた水とショートしたらしい。
「落ち着いてくださーい。慌てないでくださーい」
そう声がしたので振り返ると、店員と思しき人が声を上げていた。
もっとも、その声が効果があるかは疑わしかった。
「イヤよッ。死にたくないわッ」
「だからって、こんな所でじっとしていていい訳ないだろッ」
涙で顔をぐしょぐしょにした彼女――怒鳴る彼氏――
「くっそ。なんでだ。なんで繋がらないんだッ」
悪態を吐きながら携帯電話を弄る中年男性――
真希もヘッドセットを取り出し、登録されていた番号を呼び出そうとするが――
圏外になっており、一向に繋がる気配が無い。
携帯電話を取り出し、画面を確認するが、確かに圏外の表示であった。
溜息をひとつ吐き、携帯電話を仕舞う。
それから、周囲を見回し、床――天井が抜けやすいことは解っているので、枠組みの上へと――そろりそろりと移動する。
ミシリともギチリとも付かない音が聞こえ、ひやりとするが、抜けること無く移動することに成功する。
多少の安全を確保した上で、改めて周囲を見回した。
――逆さまになった世界。
そう言うほか無かった。
かなりの客足があったハズであるが、現状、そこまで多くは無い。
既に避難した――と言う可能性が無い訳でも無いが、その可能性は低い。
ざっと目にしただけでも、かなりの箇所、天井が抜け落ちている。
わざわざ確認はしていないが、先ほどの様子から、中へと落下したのならば――
そこまで考え、「うっ」とこみ上げてくる物があった。
口を押さえうずくまるようにして――耐える。
しばらくそうしていたが、なんとか落ち着き、山場を超えることが出来た。
目の端々には涙がうっすらと浮かんではいたが――
「どうしよう――」
口から、不安とも泣き言とも取れない呟きが漏れる。
外界との連絡は絶たれている。
外部からの救いがあるかは不明――
楽観するのは危険だろう。
肌身離さず持っていた図面ケースを掴み直す。
中からカチャリと何かがぶつかる音が聞こえる。
その音が、中身の無事を確信させ、心強くもあった。
まずは、上――1階を目指そう――そう、思った。
別段、根拠のある話では無い。
出入り口から、外がどうなっているかを確認しようと思ったのだ。
ジリリリリリリィィィィッ!
火災報知器のベルが鳴り響く。
どこかで火災が発生したのだろう。
うっすら焦げ臭い香りが、漂い始めていた。
どこか視界も悪くなり始めている気がする。
周囲を見回すが、煙までは見えなかった。
取り敢えず、心持ち背を低くしながら、新鮮と思われる空気の方へと小走りに移動を開始した。
この逆さまになった建物において、火災というのは最悪と言っても良い代物だった。
まず、床――現状における頭上に、火災検知器など付いているはずも無い。
火災報知器が鳴り響く状況と言うことは、つまり天井――現状における足下――にある火災検知器が反応したと言うことなのだ。
既に、かなりの範囲が延焼していることは疑いようが無い。
さらに、普段であれば、天井にある防煙壁が足下にあるため、一切役に立たない。
床――頭上には煙を妨げる物は何も無く、物凄い勢いで周囲へと拡散していった。
天地がひっくり返っていると言うことは、スプリンクラーも足下にあると言うことだ。
噴水状に吹き上げるだけのスプリンクラーに、勢いの増した火災を消火するだけの力は無い。
さらに、防煙壁が流れる水を遮っている。
火災時のセオリーであれば、下に逃げなければならないのだが、下は――行き止まりだ。
出入り口は、上にしか無いのだ。
生き残った人々が、パニックに陥るのも時間の問題であった。
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