閑話1 その1
S県、隣県と接する山間部にある小さな村で事件が起こった。
道路事情が不便なこともあり――当然のことながら、鉄道なんか通ってもいない――人の行き来が無いため、事件の発覚が遅れた。
村の平均年齢が70歳を超え、村人の総人口――13名。
限界集落の状態を超え、危機的集落と呼ばれる状態になっている村だった。
樫山の娘――娘と言っても還暦を迎えようかという歳ではある――隣町に住む樫山真理江が、週に2度、様子見を兼ねて村を訪ねることにしていた。
ただ、その月、無理がたたり風邪をこじらせ、肺炎にまで悪化させてしまっていた。
そのため、入院という事態となり、週に2度の訪問が途絶えていたのだ。
隣町に住む子供達は、彼女の他にも居るのだが、その子供達もいずれ劣らぬ高齢者である。
また、孫達も村を頻繁に訪ねてはくれるが、それぞれの生活があり、真理江ほど頻繁と言うことも無い。
そのような複数の要因が重なった結果、事件発生からしばらく発見されること無く、最悪の形で幕を閉じることとなった。
その日、久方ぶりに村を訪ねるべく、真理江は、路線バスに揺られていた。
日に2往復しかない――2往復もしてくれていることに感謝するべきだろうか。
乗客は、真理江しか居ない。
大型バスでは採算に合わないのだが、そもそもひとりしか乗客が居ないのであれば走らせるだけ赤字である。
未だに廃止されていないのは、補助金が出ているからだった。
「真理江さん、久しぶりやのぉ」
「ちょいと風邪をこじらせたんよ」
「そりゃ、大変やのぉ。真理江さんもええ歳やから、気をつけんと」
「さすがに堪えたわ~」
当然のことながら、運転手とも顔馴染みである。
真理江以外の客など、とんと見ない――そんな路線であった。
「じゃあ、真理江さん。4時に来るからのぉ」
「はいよ。気ぃ付けてな」
村役場前の広場――バスロータリーと言うにはかなり寂しい物があるが、バスがUターンし、町へと戻っていく。
バスのエンジン音が無くなると、静けさが襲ってくる――そんな錯覚を覚えずにはいられなかった。
バブルの頃、景気よくお金がばらまかれていた時代に建てられた、村の規模を考えれば不釣り合いな村役場の前で、真理江は、周囲を見回した。
この村は、こんなにも静かだっただろうか――
そう思わずにはいられない程、静かだった。
真理江は、あまりの静かさに、どこか薄ら寒さを感じながらも、実家への道を歩き始める。
彼女は、そこまで深く考えていなかったが、冷静に観察すれば異常だったのだ。
普段であれば、近くの農家から聞こえてくる鶏や牛の鳴き声が聞こえてこないことに――
いくら静かだとは言え、村役場から生活音が聞こえてこないことに――
真理江が、実家へと歩いて行くと、ガアガアとカラスの鳴き声が聞こえていた。
ようやく生き物の鳴き声が聞こえてきたことに、どこかほっとしながらも歩を早める。
それに伴い、カラスの鳴き声も大きくなってきた。
1羽2羽では無い。
もっと多くのカラスが集まっているようだ。
やがて、カラスが電信柱の上で集まっているのが見えた。
何か、大きな物体が上に引っかかっており、それを一生懸命ついばんでいるように見える。
実家は、その先だ。
そのカラスの集団がいる下を通らなければならない。
さすがに黒い塊に見えるほど集まっているカラスの側を通るのは、襲われやしないかと不安になる。
ガアーと大きく鳴いたかと思うと、数羽のカラスが飛び立った。
ついばんでいた物が見えるようになる。
人――人の身体に見えた。
人が、力なく電信柱に引っかかっている。
赤黒くなった血が、電信柱に幾筋もの道を作っていた。
「ひッ――」
悲鳴は出てこなかった。
口はバクバクと何かを声に出そうとしていたが、声になることは無く、喘鳴するばかりであった。
何も考えることが出来なくなり、急に周囲の視界が遠のくかのような錯覚に陥る。
「ひィィ――」
ようやく悲鳴らしきモノが出ると、弾けるようにして実家への道を駆け出した。
前につんのめる様になりながらも転ぶこと無く、どこか腰が抜けたかのような走りであった。
実家の垣根が見えてくる。
そこに実家があることに、どこかほっとしつつ、それでも足を止めること無く駆けた。
玄関へのアプローチを駆け、横開きの扉を開ける。
真理江は、気がついていなかった。
周囲を見回す余裕があれば、気がついただろう。
いや、そこまでの余裕で無くとも、普段の精神状態であれば疑問に思ったことだろう。
玄関へのアプローチ、庭に欠片が散乱していることに――
その欠片は、瓦の破片であった。
1枚や2枚では無い。
もっと大量の屋根瓦の破片であった。
玄関扉を開け、真理江の目に入ってきた光景は、ひっくり返したかのように荒らされたモノであった。
電話台から落下し、受話器の外れたままになっている電話機からヴヴゥゥという警告音が鳴り響く。
それ以外の物音は聞こえてこなかった。
これだけの音が鳴っているのに母が何もしていないとは考えにくい。
対応することの出来ない事態が発生しているのだ。
「母さんッ」
脱いだ靴を整えることもせず、家の中へと駆け上がる。
居間へと入ると、ここもまた上へ下へと荒らされた後であった。
大型の液晶テレビは倒れ、画面が割れていた。
ポットは倒れ、中身が散乱していたが、既に結構な時間が経過していたのだろう――何も残ってはいなかった。
あまりの惨状に何事かと思うが、今はそれどころでは無い。
居間に母親の姿は無く、洗面所、風呂場と1階を見て回るが、どこにも見当たらない。
どの部屋も、家具が散乱しており物盗りと言うよりは大地震でもあったかのような惨状を呈していた。
2階へと上がる。
窓が開けっ放しになっているにしては、ここまでこの家の風通しは良かっただろうか――
そう思いながら、階段を折り返す。
妙に明るい。
電灯の明かりでは無く、太陽の明るさだ。
そこには――屋根に大穴が空き、空を見渡すことの出来る部屋があった。
畳には屋根瓦が突き刺さって林立している。
屋根瓦の破片も多数あった。
屋根瓦が天井を突き破ったのだろうか――
そして――血溜まりがあった。
乾きかけているのか――粘液になりかけている血が、上からとろりとろりと滴り落ちる。
落ちる血と逆行するように視線が上へと向かう。
――そこには、張りの上で仰向けにして引っかかっている母親の姿があった。
仰向けのはずなのに、身体はくの字に曲がっている。
真理江の位置から、その顔を見ることは適わなかったが、生きているとは思えなかった。
母親が、そんな死を遂げているなどとは信じたくなかったが、そんな体勢でぴくりとも動かない姿を見て、希望を持つことは難しい。
天井から吹き込む風に、衣服がパタパタと揺れていた。
真理江は、膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。
その半開きの口から悲鳴とも取れない声がただただ漏れる。
それは意識とは結びついていない声だった。
真理江は、どこか遠くを見つめるかのように正面を見ていた。
茫然自失――身体が弛緩したのだろうか――その足下を濡らしてしまっていることにも気がつかない。
それは、周囲が紅く染まるまで続くのだった。
この日、日本の地図上から、小さな村が姿を消した。
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