第一案件 その2
蒔田真希は、学校の帰りに公園に立ち寄っていた。
当然のことながら制服姿である。
その制服――見る人が見れば、都内の進学校の物であると解るが、素人がぱっと見で解るほどの有名校でも無い。
ただ、その蒼い影が出来る白いブレザーは、女子に人気のデザインなので人目を引いた。
衣替えには、まだ少しだけ早い季節ではあるが、日差しは強く――夕暮れ時となった今でも、十二分に熱を残していた。
腰に届くかと言わんばかりにまで伸ばされた髪が、熱をはらみ、少し鬱陶しかった。
手ですくい周囲の空気と撹拌する。
切ろうかと思うので友人に相談したら、猛反対にあった。
そんな事を思い出し、思わず苦笑してしまう。
真希は、公園の入口から道に沿って中へと進んでいく。
その手には、学生カバンと図面ケースが握られていた。
女子学生とA0のサイズにも対応しているであろう図面ケース、その組み合わせは、どうにも不自然だった。
しかも、図面が入っているにしては、軽さを感じさせない。
紙以外の何かが入っているようにも見えた。
時折、カバンとぶつかりガチャリという鈍い音を立てる。
夕暮れの朱い光に染まる公園は、静かなように感じられた。
全く人の気配が無いという訳では無いが、妙に寂れた印象を受ける程度には閑散としていた。
所々、「KEEP OUT」と書かれた黄色いテープが風に揺られている。
張り渡されてから時間が経っているのだろう。
薄汚れ、よれよれになりつつ、粘着面は砂埃で黒くなっていた。
真希は、そんなテープを気にも留めなかった。
時折、アスレチックの下やコンクリートで出来た土管の中、ベンチの下や茂みの影を覗き込むようにしながら、公園内を練り歩く。
遠目に、ブランコで遊ぶ子供達の姿が見えた。
親御さんから、この公園で遊んではいけないと言われなかったのだろうか。
それとも、言いつけを守らずに遊びに来ているのだろうか。
注意して追い返した方が良いだろうか。
言いつけを守らないような子に、言い聞かせたところで守らないかも知れない。
そんな事を考え、ひとまず注意をするのは止めた。
真希自身が、そこに子供達が居たことを注意していればいいと考えたからだ。
都内の公園で男性が惨殺された。
犯行は、昼間、衆人環視の中で行われた。
ワイドショーの格好の種にも思われたが、犯人――犬による犯行だったため、保健所に連絡が入り、犯行に及んだ犬は殺傷処分になる。
被害者の男性や、巻き添えで怪我を負った人たちには悪いが、これでは数字が取れない。
TVからは1日で消えていった。
そのため、報道されていないが、――この事件は、終わっていない。
連絡を受けた保健所では、手に負えなかったのだ。
連絡を受けた保健所の職員が駆けつけたときには、男性がむさぼり食われ、とても素人が手を出せる状況では無かった。
殺人事件と言うことで警察に連絡が行くも、警察としてもどうしようも無かった。
報道では、狂犬とされているが、――犬では無かった。
確かに、基本となるところは犬だっただろう。
鼻が折れ曲がり、身体の中から「ナニ」かを漂わせているモノを犬と呼ぶならば、犬なのだろうが――
アレを犬と呼ぶには無理があった。
警察官、保健所の職員が手を出しあぐね、遠巻きに見ている間に、その犬をベースとした「ナニ」かは逃げてしまった。
無能のそしりを受けようとも、アレに手を出すことは被害を拡大させるだけで、この場合、手を出さないことが正解ではある。
結局の所、上への報告と周囲の警戒、現場の封鎖が一般人の取れる精一杯の対応だったのだ。
世の中には、悪魔と言うしか他ならない存在がある。
世間一般に認められる事柄では無いし、大まじめに口に出したとしたら、確実に変人扱いされるだろう。
それでも悪魔としか言いようのない存在は、人の歴史と共に歩んできているのだ。
例えば、アダムとイブに禁断の果実を食するよう囁いた存在――
遙かな昔から、伝承、宗教という形で語り継いできているでは無いか。
書物の歴史は、悪魔の記録の歴史でもある。
要するに、それくらい昔から悪魔という存在は、人と共にあったのである。
「ワァァァン」
真希の思考は、子供の泣き声に邪魔された。
一瞬、自分が何をしていたのかを思い出すかのように周囲を見回す。
そして、なおも続く悲鳴、泣き声のする方へと振り返り、走り出した。
――やはり、注意して追い払うべきだった。
そんな後悔の念が押し寄せていたが、今は、その感情をねじ伏せる。
真希の視界に、地面にへたり込んだ子供と、その子供に飛びかからんとする犬の姿が見えた。
邪魔なカバンを投げ捨て、全力で駆ける。
妙にゆったりとした視界の中で、犬が飛び上がる。
このままでは、一歩、いや、二歩届かないだろう。
真希は、手にした図面ケースの端を掴むと、踏み出した足に体重を掛け、身体全体をねじるようにして手を突き出した。
その手にした図面ケースが、犬の胴体へとめり込む。
スローモーションのように感じる世界の中で、その手に肉へとめり込む感触が伝わってくる。
そして、ゆっくりとした世界が時間を取り戻した。
グシャッとした手応えを真希の手に残しつつ、犬が地面を転がっていく。
3回、4回――地面に伏せるようにして踏ん張ったかと思うと、頭を振り、真希の方へと視線を向けた。
その時には、すでに獲物の姿は遠ざかり始めていた。
真希は、手にした図面ケースを背中に背負うと――犬を殴った割には、コレっぽっちも潰れること無く、形を保っていた――駆け寄って勢いそのままに、子供をすくい上げる。
泣き続けていた子供は、真希の姿を見て安心したのか、更に泣き出してしまう。
「大丈夫だから。男の子でしょ」
「おねぇぢゃぁんッ」
3歳、――4歳だろうか。
近くに親の姿は見えない。
いくら小さい子だからとは言え、子供を抱えたままでは不利だ。
あの犬は――
そう思い、真希が振り返った時だった。
あの犬が飛びかかってくる姿が見えた。
なんとも不自然な飛び方だった。
後ろ足を使ってジャンプするのでは無く、前足を使って跳んだかのような――
それでいて、身体の回転は腰の辺りが浮くような――
だが、その勢いは驚異的だった。
真希は、子供を護るようにして抱え込むと斜め前へと跳んだ。
その足下を犬の顎門が抉る。
一瞬の差で、その脅威から飛び退くことが出来た。
そのまま肩から地面にぶつかるようにし、背中へと前回り受け身を取った。
そして勢いを殺すこと無く立ち上がる。
抱え込まれていた子供は、一瞬の出来事に毒気でも抜かれたかのように呆けた顔をしていた。
目をぱちくりと瞬かせる。
真希は、そんな様を少し微笑ましい気持ちで視界の隅に捕らえつつ、犬から逃げるべく駆け出す。
子供を抱えたまま、前回り受け身を取るなどと言う無茶をしたため、身体が痛かったが、そうも言っていられない。
地面を2度、3度と貪っていた犬が、自分の獲物では無いと気づき真希の方へと顔を向けた。
その小さな隙は、真希たちに大きなアドバンテージを与えてくれる。
公園の入口まで来ると、男の子をそっと下ろす。
何故このまま逃げないのかと、不安な眼差しを向けてきた。
「もう大丈夫だから」
真希が、そう声を掛けるが、男の子は泣きそうな顔をしていた。
「ほら、男の子だろ」
「で、でもぅ。怖いよ」
「お姉ちゃんに格好いいとこ見せて、ね?」
そう言われて、何か思うところがあったのか、両手で顔を拭う。
2度、3度――そして、顔を上げると、もうさっきまでの泣き顔は無かった。
「うん。男の子。いい顔してる」
男の子は、うんと大きく頷く。
例え小さくとも、男としての矜恃があったのだろう。
「お家、解るよね。よし。じゃぁ、お家までダッシュだ」
そう言って背中を軽く叩き、男の子を送り出す。
男の子が一生懸命駆けていく様を見つつ、真希は立ち上がると公園の中へと振り返る。
そこには、今のやり取りを待っていた訳では無いのだろうが、あの犬が、身を低くして待ち構えていた。
Twitter @nekomihonpo
変更箇所
2016/01/24:ルビ修正




