閑話2 その2
女の子は、一連の流れに呆気に取られていた。
車椅子を取り返してくれた真希にお礼を言ってなかったが、今、なんと声を掛けるべきか解らなかった。
ゆっくりとベンチから立ち上がると、車椅子へと移動する。
それに気がついた真希が、少し慌てたが、立てないという訳では無いため、心配は無用だった。
車椅子に座ることで、自分の居場所に戻れたという感がするのだろう――どこか安心した笑顔を浮かべるのだった。
女の子が、車椅子へと移動することで、真希の意識が逸れたのか、怒りも静まっているように見える。
「お姉さん、ありがとうございます」
それは、先ほどまでの涙声では無く、明るく、清らかな河のような――まさに鈴を転がすような声だった。
真希は、彼女の前で腰を下ろし目線を合わせ、「どういたしまして」と応えた。
「お名前は? 私の名前は、蒔田真希。真希でいいよ」
「真希お姉さん――私は、愛菜。千石愛菜です」
「愛菜ちゃんね。可愛い名前ね」
「真希お姉さんの名前もステキです。
それに格好良かったです。
あっという間に車椅子を取り返してくれて」
「ああ、うん――」
身体には自信があるからね――と応えようとして、愛菜の身体を見やる。
立てない――という訳では無いが、車椅子を使わなければならないような身体だ。
そんな愛菜に対し、身体には自信があると応えるのはいかがなモノかと思ったのだ。
結果として、その逡巡は、間を産み――少なくとも真希は微妙と感じる空気を醸し出してしまった。
何か空気を変える話題――
「愛菜ちゃんは、ひとりで来たの?」
咄嗟に出た言葉ではあったが、疑問に思っていたことに違いは無かった。
どこか慌てた口調の質問ではあったが、愛菜は、特に訝しんだ様子も無い。
それどころか、可愛らしい笑顔を浮かべ――
「お兄ちゃんと来てるんです」
と、その可愛らしい声で応えるのであった。
余りの愛くるしさに、思わず可愛いっと抱きついてしまいそうになるのを、ぐっと押さえるのに苦労するとは思わなかった。
それくらいの可愛らしさであった。
その笑顔だけでも、彼女が兄を慕っていることが十二分に伝わってくる。
それは、先ほどまで、どこかしらで残っていたしこりのような怒気を霧散させるには十分な笑顔であった。
「そっかぁ、お兄さんと来てるんだ」
「はい」
「そのお兄さんは?」
「ちょっと買い物に行ってます」
「こんな可愛い妹を放っておくなんて」
そう真希が軽く怒ってみると、愛菜があわあわと否定をする。
それもまた可愛らしい物であった。
「ち、違うんです。私がここに居るからって言ったんです」
「そうよね。こ~んなにも可愛い愛菜ちゃんを放っておくなんて」
そう言われ、愛菜は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「じゃ、お兄さんが戻ってくるまで、私が話し相手になっててもいいかな?」
「――はい」
一瞬、何を言われたのか解らないという顔をしていたが、真希の応えが理解出来ると、嬉しいという感情を全身から放ってきた。
車椅子を押し、木陰まで移動すると、近くのベンチに腰掛けた。
そこから、彼女の兄が来るまでふたりで話し込んだ。
好きなモノのこと、彼女の兄のこと、彼女自身のこと――
愛菜は、幼い頃から身体が弱く、長く入院生活を続けているとのことだった。
さすがに、笑顔で応じるにはつらい話題であったため、避けるようにしてはいたのだが、触れずにいるのも不自然ではあった。
愛菜も、長い入院生活を続けているためか、少なくとも表面上はつらいという表情を見せなかった。
彼女の兄は、まだ学生だというのに、妹の治療費の手助けをするべく、働いているのだという。
――両親について聞くことは躊躇われた。
兄は、まめに見舞いに訪れてくれるらしく、今日もそんな日なのだそうだ。
「愛菜、待たせ――た、な」
「ぁ、お兄ちゃん」
噂のお兄さんが戻ってきたようだ。
途中で途切れたかのような呼び掛けが、不自然だったので、首をかしげながら後ろへと振り返る。
「愛菜ちゃ~ん、久しぶり――げッ」
そこにはふたり組の男が立っていた。
薄緑色のサマージャケットを羽織りメガネを掛けた男性と、白い薄手のパーカーを羽織った男性――
メガネを掛けた男性は、顔色を変えた様子は無かったが、どこか固まっているようにも見えた。
パーカーの男性は、あからさまに嫌な者にあったという顔をしていた。
真希としても見知った顔であった。
「あーッ」と叫びそうになるが、愛菜の横顔が視界の隅に入ると、その熱が静まっていく。
ここで彼らを詰問することは可能だろう。
だが、愛菜の目の前で行うことだろうか――
そう考えると、躊躇われた。
彼女は、そう考えながらゆっくりと立ち上がる。
右手を差し出しながら――
「初めまして。蒔田真希と言います」
そう営業スマイルを浮かべつつ挨拶をすることにした。
眼鏡を掛けた男性――男子が握手を交わしつつ――
「千石武臣だ。――妹が世話になったようだ」
「いえいえ。とても可愛らしい妹さんですし。――それで、そちらは?」
パーカーの男子へと話を振った。
降られた側も、愛菜の手前、下手な応対をするわけにも行かず――
渋々という感情があふれ出してはいたが――真希の握手に応じてくれた。
「紫水彰――だ」
「よろしく。紫水さん」
真希の営業スマイルに対し、眉根を寄せた顔になってしまう彰であった。
「彰ちゃん、久しぶりー」
「おーう。久しぶりだなぁ。元気してたかぁ」
愛菜の呼び掛けが聞こえると、寄せられた眉根もあっという間に霧散し、どこか蕩けたような笑顔を浮かべ応えていた。
「うん。いつもどーりだよ」
「そっかぁ。このねーちゃんに変なことされなかったか?」
その言葉に、今度は愛菜が眉根を寄せる。
「だめだよ彰ちゃん。真希お姉さんは、とっても優しいお姉さんなんだから」
「ぉ、おう」
彰としては、軽い冗談のつもりだったのだが、愛菜の真剣な眼差しに気圧されてしまった。
「何かあったのか」
武臣が、愛菜の頭に手を置きながら問い掛ける。
ぶっきらぼうな言葉ではあったが、その声音には、妹を心配する兄の心情が溢れていた。
「――うん。ちょっと。――困ってたところを助けてもらったの」
「そうか。――もう大丈夫なんだな」
「うん。大丈夫だよ。――ありがと」
「いや、大丈夫ならいい。――妹が世話になったな」
愛菜の頭を少し乱暴に一撫でしてから、真希へと向き直り、頭を下げる。
「ゃ、ほんと、大したことじゃ無いから。愛菜ちゃん、可愛いし」
「いや、今、可愛いって関係ねーだろ」
彰がぼそっと呟く。
「や、ほんと、私、何言ってるんだろ」
真希は、急に恥ずかしくなって俯いてしまった。
頭にかーっと血が上り、耳まで朱くなっていた。
彰としても、突っ込みを入れるつもりは無かったのだが、ついつい口から出てしまっていた。
そのことに少し戸惑いを覚えつつ、すまんと謝っていた。
どうにも調子が狂う――そんな感覚を覚えていた。
「そろそろ時間だ。戻るぞ」
「――うん」
そう告げた武臣に対し、愛菜の返事は、どこか無理をしているように感じられた。
少なくとも、真希には、そう聞こえたのだった。
「愛菜ちゃんッ。お見舞い。そう、お見舞いに行ってもいいかな」
どうにか元気付けたくて――咄嗟に、そう言葉が出た。
思いつきではあったが、自分で発言するうちに、とてもいい考えのように思えた。
「――うん」
「ほんと? じゃぁ、今度、行くね」
「うんッ。いいよね。お兄ちゃん」
愛菜の返事は、元気の良い――花の咲くような明るさを取り戻したかのように見えた。
愛菜は、武臣に同意を求めるべく兄を見上げる。
その兄は――驚きと苦虫をかみつぶしたかのような苦渋、葛藤――そういったモノをまぜこぜにしたような表情をしていた。
対特の女となんぞ、これ以上、接触されてはたまらない。
来るなと言いたいところだが、妹が喜んでいる以上、理由も無しに来るなとは言えない。
この様子からして、すでに場所は知られていると思って間違いは無い。
仮に、だめだと言っても、彼女の性格からして押しかけるだろう。
――そう推測できるほど彼女を知っているわけでは無いが――そうに違いない。
様々――ではなく偏ってはいたが、様々な思いが、頭の中でまぜこぜとなり、すぐに返事は出来なかった。
その様子を愛菜が心配そうに見上げる。
この短い間に、兄の顔色から雲行きを察し、顔を曇らせていた。
それは武臣としては、不本意に他ならない。
ぎこちない笑顔を浮かべ、了承するのが精一杯であった。
「ほんと? ありがとー」
真希の返事は、心底嬉しそうに見えた。
それは、武臣にとって、ほんの少しだけ意外で、驚きを持って見つめてしまった。
背後から、彰の溜息が聞こえる。
彰としても、こうなるのは致し方ないという思いであった。
「いや、――礼を言うのはこっちだから」
「愛菜ちゃん、今度行くからね」
武臣が返事をしたときには、真希の意識は愛菜に向かっていた。
どこか肩透かしを食らったかのような印象ではあった。
ペースが合わない。
武臣は、どこか真希に対して苦手意識を感じ始めていた。
「――愛菜、行くぞ」
「うん。お兄ちゃん」
「じゃぁ、愛菜ちゃん、またね」
「真希お姉さん、またね」
そうして、三人は真希の前から立ち去っていった。
愛菜という可愛らしい娘と知り合えたこと――そして、彼らへ繋がる糸を見付けたことが真希の胸を躍らせるのであった。
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