第三案件 その3
蒔田真希は、前傾姿勢で校舎へと駆けた。
地面に倒れ込むのでは無いかと言う急角度な前傾姿勢だ。
それでも倒れはしない。
地面が傾いているのだ。
真希にしてみれば、坂道を駆け上っている気分である。
右手でポケットを弄り、ヘッドセットを取り出す。
そして、そのまま登録された番号へと掛ける。
――が、繋がらない。
昇降口へと入り、背中を預けられる場所に移動したことで、カバンからスマートフォンを取り出して確認した。
――圏外だ。
都内のこんなところで、圏外になるとは思えない。
この異常な事象により通信網が破壊されたか――いずれにせよ何らかの障害が発生しているのだろう。
本部への連絡は行えないと言うことだった。
当初、30度程度だった傾きは、40度になろうかという角度へと変わりつつあった。
このまま変化していったとしたら――先日のように逆さまにまで変わるのだろうか。
その危険を考えれば、建物の中に入っておくことは間違いでは無い。
そして、先日と同じように、彼らは対処しようとしているのだろうか。
真希は、下駄箱の並ぶ昇降口の先――廊下へと視線を移した。
ターゲットはどこに居るのか。
そもそも、この校舎内にいるのかも怪しい物だ。
足下へと視線を落とす。
上履きに履き替えるべきなのだろうが――
来客用のスリッパでは、滑ってしまって移動もままならないだろう。
かといって、ストッキングを脱ぐ気にはならない。
どこかでガラスでも割れていよう物なら、それだけで移動が出来なくなってしまう。
申し訳ないと思いつつも、下履きのまま移動することにした。
壁へと預けていた背中にぐっと力を入れ、身体を起こし、床に手を添えつつ滑り落ちないように気をつけて1歩を踏み出す。
滑りそうになる力に対し、ギュッと摩擦で食らいつきつつ、更に1歩――
床が大きく回転した。
倒れた独楽が、くるりと芯を中心に回転するかのように――重力の掛かる方向が回転する。
「きゃッ」と小さな悲鳴を上げつつ、真希の身体が壁を転がる。
廊下からは、ガタガタガタッと机の移動する音、そして、ウワァァともゴアァァとも付かない悲鳴の集合――そんな声の波が聞こえてきた。
その回転は、90度向きを変えると収まった。
廊下へと出るには、坂を登る必要があったのだが、今では、横に進むだけで出られるようになっている。
真希は、自分の身体を確認した。
――特に怪我を負った様子は無い。
痛みも無い。
壁と床の境目を、慎重に進む。
そして、壁に身を預けつつ、廊下を覗き込んだ。
上へ、下へと視線を動かす。
廊下の左手側から――現在では下側にあたる――真希と似たような形で大人が顔を出していた。
職員室であり、恐らくは教師なのだろう。
「き、きみィ、大丈夫かね」
「はい。大丈夫です」
「い、いま、警察に連絡をしている。君は、そこを動かないように」
「はい」
真希は、はいと応えつつも、廊下に手を付きつつ階段へと移動した。
スカートを下から覗かれるのは、イヤだったので、手で押さえながら移動したため、少々不安定だったが――
滑り落ちること無く階段へと移動出来た。
背後から、先ほどの教師が、真希を制止するべく声を掛けてきていたが、真希は、それを無視した。
「どけどけッ」
上階から幾人かの男子生徒が駆け下りてくる。
制止するべきかと思ったが、勢いよく駆け下りてきていたため、一旦、壁を登るようにして道を空けた。
そんな真希の目の前を駆け抜けていく。
「待って」
列の最後の方にいた三人が、立ち止まり、真希へと視線を向ける。
他の生徒は、外へと駆け出していった。
「今、外に出るのは危ないよ」
「お前、どこの者だ」
「外が危ないって、何で解るんだよ」
「何、知ってるんだ」
真希の制止の声に対し、矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
「学校の中が安全って、何で言い切れるんだよ」
「おい。長谷、行こうぜ」
「お前も、早く逃げた方がいいぞ」
そう、真希とやり取りをしている間にも、幾人もの生徒が――男子に限らず女子も――駆け抜けていった。
職員室から、生徒を制止する教師の声が響く。
「じゃあな」
そう言うと、彼らも逃げ出す生徒にまぎれ――そして外へと消えていった。
会話の時間など、たかが知れているが、そんな僅かな時間の間にも傾斜は、一層進んだように思えた。
【◇】
「痛ぇ。くっそ。痛ぇよ」
川崎雅史の口から泣き言が漏れる。
足を机に挟まれ、千切れるかと思うような責め苦に遭っていたのだ。
泣き言のひとつやふたつ言っていなければ耐えられなかった。
実際、こうして口から苦しみを吐き出すという行為は、ストレスをやわらげる効果があり、全くの無意味という訳でも無い。
川崎が、責め苦から解放されたのは偶然だった。
他の机や生徒の体重が加わり、自分の力では抜け出すことも出来ず、もうだめなのだと目の前が真っ暗になりかけていたとき――
急に床の傾く向きが変わったのだ。
今まで自分の側へと傾いていた床が、90度、その傾く向きを変えた。
のし掛かっていた机が、教室前方へと一斉に移動し、川崎は、足を千切ろうかという拷問から解放された。
今度は、自分が他人を押しつぶす側に回る――その傷みを知る川崎は、それを回避するべく窓枠に腕を回した。
当然ながら、皆が皆、その様な行動を取れた訳では無い。
犠牲者を入れ替えながら、教室内に悲鳴が響き渡る。
川崎は、左腕を窓枠に回し、右腕で腿をさすっていたが、視線を上げる。
机や椅子が雪崩を起こし、そこにクラスメイトが紛れていた。
必死に足掻いている者、なんとか助け出そうとしている者、そして――ぐったりと動かなくなっている者もいた。
「なんだってんだよ――」
そんな呟きと共に、得も言われぬ感情が腹の辺りを満たし、せり上がってくる。
――訳も無く涙が溢れてくる。
足の痛みが取れた訳では無かったが、じっとしていられる状況でも無かった。
埋もれている生徒を助け出そうにも、机を置く場所が無い。
どかした側から滑り落ちてしまうからだ。
そんな中、クラス委員長の海沢が、廊下側に机を積み上げ始めていた。
川崎は、滑り落ちないように気をつけながら、廊下側へと小走りに移動する。
「ほら、委員長、こっちだ」
「ああ、川崎か。助かるよ」
不安定ながらもどうにか絶妙なバランスを保っている机の上から海沢へと手を伸ばす。
川崎に気がついた海沢が、川崎へと椅子を渡す。
倒れないように気をつけながらも力を込め、椅子を持ち上げ――足下に積み重ねる。
何度か揺すり、どうにか崩れないように噛み合わせ、再度、海沢へと手を伸ばした。
「ちょっと重たいぞ」
「おう」
ずりしという重さと、不安定な足場、ぐらりと揺れた自分の身体を支えるべく力を入れるが、どこかに力が逃げていく。
机の中に詰め込まれた教科書が、凶悪な重たさを川崎の背骨に伝えてくる。
「委員長、ダメだ。無理無理」
「え? おい。無理じゃねーよ」
「この体勢やばい。背骨やばい。せめて中身捨ててくれ」
「仕方ねーな」
そう言いながらも、机を受け取った海沢は、机をひっくり返し中身をぶちまけた。
「ほら」
「おうよ」
再度、受け取った机からは、先ほどまでの殺人的な重たさは感じられなかった。
机とは、本来、ここまで軽い物なのか――そんな妙な感動を覚えずにはいられなかった。
そして、その机を足場に組み込んで行く。
「ほら、中竹。大丈夫か?」
「うん゛、あり、が、と」
どうやら、中竹を救い出すことが出来たようだ。
こう言っては何だが、あまり美人という類の女生徒では無い。
足や腕から出血してはいるが、骨折まではしていないようだ。
涙でくしゃくしゃになった顔を、何度も拭いながら海沢へとお礼を言っていた。
慣れない姿勢に、慣れない作業、精神的な疲労と相まって、かつて感じたことの無い疲れが、川崎の身体にのし掛かっていた。
緊張と肉体的な疲労とで、すっかり汗だくだった。
積み重なった机の天板に腰を下ろし、壁により掛かるようにして廊下へと視線を移す。
他の教室でも、同じように救出作業が行われているのだろうか。
一時に比べ、悲鳴や怒号と言った無秩序な雰囲気は感じられなくなっていた。
――それでも、泣き声や苦痛を訴える声は、響いてきていたが――
外へと逃げていった生徒はどうなっただろうか――
外の世界も、学校と同じように斜めになっているのだとしたら――
まだ、ここの方が安全なのでは無いだろうか――
そんなことをぼんやりと考えていたときだった。
白い制服を着た女生徒が、階段を上がってきた。
当然のことながら、川崎の通う学校の制服では無い。
近隣で見かけた記憶も無かった。
腰の辺りまで伸びている髪が、ふわりと揺れる。
その白い姿と綺麗な黒髪が、物語にありがちな深窓の令嬢という趣を醸し出しつつも、この状況とのミスマッチがゆえか、どこかアンバランスな印象が付いて回っていた。
美人と言うよりは、可愛らしい顔立ちがいけないのだろうか――
そんな彼女が、素早く廊下を駆け上がってくる。
「ねぇ。キミ――」
川崎は、そんな彼女へと声を掛けた。
特に意図は無かったのだが――
彼女――蒔田真希は、きゅッと靴音をさせつつ、廊下に立ち止まり、川崎を見た。
「何?」
「ぁ、いや。――危ないから中に入った方が――」
川崎の声は、どこか尻すぼみとなっていた。
中――教室の中が安全とどうして言えようか。
真希は、優しく微笑み、心配してくれてありがとうと返した。
社交辞令だったとしても、その笑みに川崎は、すっかり顔を赤くしてしまった。
「何か変わったモノを見なかったかしら」
「変わったモノ?」
「そう。――特に見ていないのね」
川崎が、オウム返しに聞き返したことで、何も見ていないのだと判断を下す。
実際、何も見ていないのだが――川崎には、心を見透かされたような気がして、ドキリとした。
真希の視線が、反対側の窓へと移り、そのまま外を眺める。
釣られるようにして川崎も外へと視線を移した。
周囲を見回していた真希の視線が固定される。
川崎の位置からは、何も見えなかったが、彼女の視線の先には体育館かプールがあったハズだ。
実際、真希は、体育館を見ていた。
更に言うのならば、その中に見える人影を見つめていた。
斜め上から見下ろすような形で見える体育館の中に、ひとりの生徒が立っていた。
床から真っ直ぐ――この斜めになっている世界において真っ直ぐに――だ。
真希が、くるりときびすを返し、階段へと落ちるようにして走る。
「あッ」と川崎が声を上げるが、彼女は振り返ること泣く階下へと消えていった。
川崎は、呼び止めておいて何を話すつもりだったのか――自分でもよく解らず、なんとはなしに頭を掻くのであった。
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