第一案件 その1
水本一彦の休日は穏やかだ。
彼は、公園での読書を好む。
良く晴れた日、木陰で涼やかな風に身を任せながら嗜む読書など最高だ。
公園で、子供の声をBGMとし、世の平和を感じつつ読み進めるのも悪くない。
もっとも、子供達というのは、よく喧嘩をする。
喧嘩の声はよくない。
読書の邪魔になる。
ヘタに仲裁するべく介入しても面倒事になるし、何もしなくても面倒事になる。
そんなときは、無責任ではあるが、そっと立ち去ることにしている。
まぁ、多少の難点はあるにせよ、彼にとって外での読書とは、たゆたうような時間を感じることの出来る至福の時間だった。
その日は、家から歩いて30分ほどの所にある中央公園まで散歩ついでに足を伸ばしていた。
昨今では、安全への配慮というクレーム対策によって撤去されがちなアスレチック施設が残る珍しい公園だ。
――もっとも、本当にクレームが入ったから撤去されたのかは水本の知ったことでは無いが――
この公園の良いところは、公園内に自動販売機が多く、読書をする際のドリンクに困らないことだ。
喉が渇いたからと、読書を中断してコンビニまで出向くなど、興ざめも良いところでは無いか。
がこんッ。
入口脇の自動販売機でストレートティーのペットボトルを購入し、早速一口、こくりと口に含んだ。
よく冷えた紅茶が、喉に心地よい。
ヘタに砂糖が入っていると、口の奥に何かが残っているような感じがし、それを注ぐため、更に飲みたくなってしまう。
その点、ストレートティーなら、そういう心配が無い。
一息付いたついで――と言うわけでは無かったのだが、自動販売機の前から周囲を見回した。
時刻は、10時になる少し前――と言ったところだ。
子供達が駆け回る声、ベビーカーを止めたまま話に興じるママさん連中――そんな公園の日常が目に入る。
そんな日常の風景を背に、いつものベンチへと向かう。
この時間から14時くらいまで、ほどよい木陰を維持してくれる読書には最適なベンチだった。
早速、ポケットから文庫本――推理小説を取り出し、証拠集めに奔走する探偵の世界へと足を踏み入れることにする。
【◇】
キンコーンとドアのチャイムが軽快な音を響かせる。
その唐突な音にビクンと身体を震わせたが、来客なのだと気がつき、どこか張っていた気が抜けた。
パタパタとスリッパの音を響かせながら玄関へと向かい、ドアスコープ越しに来客を確認する。
それは見知った顔だった。
さっき抜けた気が、より一層抜け、緊張など霧散した気がした。
ガチャガチャとドアチェーンを外し、ドアを開け放つ。
「もう、来るなら来るって電話くらいしてよ」
秋葉奈月は、文句を垂れながらも来客を迎え入れた。
決して広くは無いマンションではあるが、ダイニングキッチンへと案内する。
客は、席に着き、室内を見回す。
テーブル、本棚、食器棚、レースのカーテンが引かれた窓からベランダを見やり、奈月の背中へと視線を戻した。
奈月は、そのままキッチンへと向かい――
「珈琲でいい? インスタントだけど」
客に対し、無防備な背中を晒していた。
いいよ――と適当な返事をし、テーブルの上に置かれていたクリスタルの灰皿へと手を伸ばす。
使用された形跡は無い。
あくまでもインテリアの一巻なのだろう。
手に取るとずしりと重たい。
音も立てず立ち上がると、奈月の背後へ向かう。
「それで、今日はどうし――」
奈月がそう言いながら振り返ろうとした所、その頭部へと灰皿が振り下ろされる。
ゴッという鈍い音、一瞬の後、糸の切れた操り人形のごとく、奈月の身体が崩れ落ちる。
キッチンへと身体がぶつかり、揺られた頭部が薬缶へとぶつかった。
ガシャンと大きな音を立て、薬缶をはじき飛ばす。
火が付いたままのコンロが振動を検知し、ガスを止める。
火が消えるまでの僅かな時間で、奈月の髪へと引火した。
力の抜けきった身体が、さらに崩れ落ちる。
髪の毛の火は消えること無く、絨毯の上でくすぶり続けた。
――やがて、絨毯からも煙が立ちのぼる。
奈月が動く様子が無い事を見やると、客は、足早にエレベーターホールへと向かった。
奈月の部屋のドアからは、白い煙が弱々しく漏れ出していた。
【◇】
殺しやがった。
水本は、そう思った。
この作者、よく証人を殺す。
知ってはいたが、今回もあっさり殺しやがった。
よく殺すと知っていながらも、この作者の作品は止められない。
登場人物に魅力があるのもさることながら、読み進める最中、こいつは死ぬだろうと予想するのも、またひとつの楽しみだからだ。
決して趣味のいい楽しみ方とは言えないが、この作者のファンの間では、よく行われる楽しみ方だった。
水本の予想としては、今回、奈月は殺されないと思っていたのだが、外れたようだ。
ペットボトルへと手を伸ばし、一口、喉を潤す。
さて、作品へと戻ろうか――というその時、ギャアともキャアとも付かない悲鳴が聞こえた。
読んでいた小説が、血なまぐさい場面だったこともあり、ビクンと身体が縮こまる。
水本の位置から、悲鳴が聞こえた場所は見えなかった。
悲鳴が聞こえてきたであろう方向からは、断続的に悲鳴、鳴き声――そんな喧噪が続いていた。
普段、日常の一場面として発生する子供のけんかとは違う喧噪――
非日常のナニかが起こっているのだと伝えてきていた。
グルルという獣のうなり声が聞こえてきた。
つまり、この騒ぎは、凶暴な犬が引き起こしたと言うことか。
と、納得がいった。
とは言え、うなり声が聞こえてくるような距離まで近づいてきていると言うことは、自分が襲われる可能性もあると言うことだった。
冗談では無い――と腰を浮かしかけたところ、アスレチック施設の影から犬が顔を出した。
その動きは、どこか不自然で、びっこを引いているように見えた。
途端、水本に余裕が生まれる。
万全の状態で無いのならば、早々後れを取ることは無いだろう。
そう考えるのも仕方の無い事であった。
ぽたりぽたり――涎では無いナニかを垂らしながら――犬の全身像が見えてくる。
身体のあちこちに裂傷が走り、そこから血を垂れ流し、地面に赤黒い跡を引いていた。
うなり声を上げ続ける口からも血が垂れ、見るからに怪異であった。
もっとも、口から垂れる血は、身体の血と違い、どこか鮮やかさを持っていた。
水本は、腰を浮かし、ベンチに登るようにして距離を取る。
あの傷ならば、あと一撃か二撃、打撃を加えるだけで逃げていくはずだ。
自分は、うまく切り抜けられる。
そう思い込むことで、この気持ちの悪い怪異から逃避していた。
その不気味な様が見せる幻覚だろうか。
犬の傷から「黒いもや」が漏れ出しているようにも見える。
恐らくは、赤黒い血が、そう見せているのだろう。
そう考えつつ、胸から腹に掛けて汗が流れ落ちていくのを感じていた。
グルルと低いうなり声を上げていた「敵」が、跳んだ。
溜め動作の無い不自然なジャンプだった。
例えるなら、つま先だけでジャンプしたかのような――そんな不自然なジャンプだった。
後ろ足の方が強く飛んだのだろうか、そちらの方が高い位置に上がっていた。
「うわあぁぁぁッ」
水本の口から悲鳴が漏れる。
手にしていた飲みさしのペットボトルを投げつける。
無闇矢鱈に投げつけたにしては、良い狙いをしていた。
ペットボトルが、犬の顔面へとぶち当たる。
鼻にぶち当てたのだ。
普通であれば、キャインと悲鳴でも上げて逃げ出すことだろう。
だが、この犬は、そうではなかった。
確かに、ジャンプの勢いを殺すことには成功した。
犬が前足を大きく開きつつ着地する。
ペットボトルをぶつけたことで、あらぬ方向を向かせることに成功はした。
犬――犬なのだろうか――水本の犬に対する認識が正しければ、これは犬と言っていいのか解らなかった。
確かに、パーツ毎に見ていけば犬だろう。
だが、水本の知る犬とは――鼻がもげそうなほど折れ、ぶら下がりつつも「グルル」と唸るような動物では無い。
しかも、もげそうになっている部分から血を垂れ流し肉を見せているのならまだしも――
そこには、赤黒い「何か」しか見えなかった。
血と思われる赤黒い液体が漏れ出し、垂れようとしたそばから赤黒い霧となって周囲に拡散していく。
結果、顔の周囲に赤黒い「もや」を纏っていた。
その犬――と思しき物体が、「グァウ」と大きく口を開け、再度、水本へと飛びかかってきた。
ただただ気持ち悪い。
得体の知れない生物が、自分に飛びかかってきた恐怖で、「ひぃぃぃ」と悲鳴が漏れる。
声というよりは、喉が――空気が抜けることで音を出したという悲鳴だった。
崩れ落ちそうになる脚、抜けそうになる腰、逃げなければと、そればかりしか考えることの無くなった頭――
それでも身体は、なんとか後ろへと逃げ出すという命令を実行してくれた。
脚がもつれる。
転びそうになる。
それでも逃げなければと――地面に手を突いて走り出そうとした。
ズルリと足が滑る。
「ギャァアァッ」
その延びきったふくらはぎを噛まれた。
身体の中をブチリブチリという音が伝搬してくる。
見れば、犬が、水本の脚を一心不乱に噛み千切っていた。
水本の血が、周囲に紅い霧を振りまく。
痛い。
アタリマエだ。
肉が無くなったのだ。
痛くないわけが無い。
それでも、痛みより――恐怖が勝った。
あの犬が――自分の脚に取り憑いている。
「ギャァアァッ」
再度、悲鳴を上げたが、水本の意識には、悲鳴を上げたことなど残っていなかった。
とにかくおぞましい。
この生き物を遠くへと押しやらなければならない。
そんな思念だけが水本を支配していた。
残った脚で蹴りつける。
生き物を蹴ったにしては不自然な柔らかさだったが、今の水本には、そのことを考えるだけの余裕は無かった。
蹴る、蹴る、蹴った。
その延びきった脚を犬の前脚が踏みつける。
それは、とてつもない勢いと力を持って、水本の脚を押さえつけた。
犬の爪が脚に食い込み、地面へと押しつけられる。
水本の耳に、ゴギィンという音が届く。
その音は、空気と体内を伝搬して聞こえてきた。
「グギャァッ」
何度目か解らない悲鳴を上げる。
それは、水本の脛骨と腓骨が折れる音と、その悲鳴であった。
犬は、水本の脚を踏みつけたまま、水本を睨んでいるように見えた。
水本の頭は、物を考えることを放棄した。
犬が噛み千切る音、液体が出す音、そして――無意識に上げる悲鳴が空へと消えていく。
遠くからサイレンの音が響いていたが、水本がそれを意識することは無かった。
Twitter @nekomihonpo




