第九話
達也は羽田国内線ターミナルの上空に浮いていた。
東に東京湾が大きく開けC滑走路では今まさに飛びたとうとする小型旅客機が助走を始めていた。
(今俺の体は空中に浮遊している…まさか夢ってことは無いよな…)
子供の頃空を飛ぶ夢を何度も見たが、あのぼんやりとした感覚ではなく冷気が直かに感じられ浮遊に現実味を与えていた。
(うぅぅ寒い、これは夢なんかじゃないぞ…しかしこんな馬鹿げたことがあるだろうか、一体どんな原理で俺は浮いているんだ)
しかし体感は浮きを維持する感覚にどこかで力を込めている…それはまるで足を引き上げる感覚にも似ていた。
達也は下界を見ながら自然と笑いがこみ上げてきた、正直原理などはどうでもよいと思えた、有り得ないことがこの身に起こった…宝くじが当たった瞬間とはこんな気分を言うのかと達也は独りごちた。
しかしこの寒さ、いつまでも喜び浮かれている場合じゃない、こんな所にいたら凍死するか航空機に弾かれるがオチと考え降りる場所を探し求める。
暫く見る内 眼下に密集する建屋配置からP3駐車場の目星が付いた。
(まずはあの屋根に飛び降りてみるか…)
そう思い別世界で覚えたあの移動感覚を呼び起こす、そして移動意識を集中させた瞬間 目的の屋根がみるみる迫ってくる、あわや衝突すると思ったとき 急ブレーキがかかった様に着地の感覚に足に体重が加わった、それは着地と言うよりまるで以前からそこにいたという奇妙な感覚でもあった。
またこの移動体覚は飛行と言う感覚とは違い着地点をこちらへ歪み寄せる…そんな感覚なのだ。
着地すると屋根が暖かかった、それは夢じゃないと証明するかのように屋根は達也の心を和ませるような柔らかな熱を発していた。
達也は上空の寒気で冷え切った手足を温めるように屋根に密着した、震えは体の芯から手足へと伝播していく、手の表裏を返しながら頬も密着させ 暫くは屋根の暖気を貪った。
暫くする内、震えが徐々に消えていく すると霧がかかった頭の感覚も次第に明瞭になっていった。
しかし別世界に行くたび あの凍るような寒さに晒されるのは何とかしなければと想いつつ屋根に密着した体を引き剥がすように身を起こした。
今度は尻を屋根に密着してみる、ほーっこれはいいとばかり太腿も密着してみた、なにやら芯が溶けていく感覚に心が微睡んだ、すると頭の隅で先程味わった移動感覚が蘇ってくる。
達也は感覚を忘れないため移動や停止など行動思念の所作を頭内で反芻してみる、その時 自分は今反芻している所作は昔から身についていた…そんな想いが脳裏を過ぎった。
んん…と思いつつ目頭を押さえ記憶を辿ってみる…(いや、やはり覚えは無い)
しかし何処かで体感したような…そんな曖昧な記憶が頭の縁をいつまでも離れなかった。
体も温まり固まっていた筋肉が息を吹き返す、達也はゆっくりと立ち上がり周囲を見渡した。
すると今立っている屋根よりさらに高い建物が隣接していることに気づいた。
達也はマズイと思い一瞬身を屈めた、誰かに見られている可能性は充分にある。
早々ここから移動しなければと忍者にでもなったような想いで周囲を注意深く観察しながら身を屈めて屋根端まで走った。
下を覗き見る 幸い屋根下の道路上に人陰は見当たらない、達也は移動を念じた刹那 道路上に着地していた、思わず笑みが零れる(ククッ俺は忍者か…)
そして何事も無かった様に駐車場入口へと歩き出した、しかしこの場より車を停めた駐車位置まで思念での移動はいたって容易いと思えたが達也は取り敢えず歩くことにした。
だがこの歩くという行為の何と面倒なこと…歩くというごく当たり前の行為が今日に限りうんざりする想いに感じられるのは不思議であった。
階段を駆け上がり駐車した位置を探すと車高が一回り高い達也の車はすぐに見つかった。
遠隔キーで車の鍵を開け車内へ乗り込む、そして後部座席を振り返った…当然ながらそこには達也の抜け殻は無い、これにより別世界への移動は夢でも勘違いでも無いと証明されたような妙な想いにまたもや笑みが零れた。
エンジン始動ボタンを押し何気なくオーディオパネル上の時計を見た、時間は11時30分をさしている。
達也はおやっと首を傾げながら胸ポケットの手帳を取り出し頁を焦る様にめくった。
手帳に書かれた「2014年11月9日10時52分羽田P3駐車場より」を認める…何とこの車内より別世界に移動しまだ38分しか経っていない、そんな馬鹿なと思いながらポケットの携帯を取り出し液晶画面に食い入る、やはり画面には2014年11月9日と今日の日付が表示されていた。
(やはりたったの38分間…)
達也には別世界の滞在時間はどう考えても1時間以上の滞在に感じられたのだ。
(一体どうなってるの…やはりあれは夢だったのか)
しかしふと思う、確かカメラで写したはず…スーツのポケットから薄型デジカメを取り出した。
(映っててくれよ…)達也は祈る気持ちでカメラの電源を入れ撮影データーを液晶モニタに表示させた。
(おおっ映っている、やっぱり夢じゃない)喜びがこみ上げる。
写真は80枚ほど記録されていた、その一枚一枚を丹念に見ていく、望遠撮影により人物は接写撮影の如く明瞭に映し出され、また服装も現地では気づかなかった装身具の類いさえ映し出されていた。
(これはいい、これなら寸分違わぬ衣装が作れるぞ)
カメラの電源を切りポケットに慎重に戻した、しかし時間の狂いは依然解決していない…別世界の時間の流れは元世のおよそ半分程度というのか、達也は未だ元世の時間概念に縛られていた、しかし時間概念を超越する思念が心の片隅に燻っている そんなもどかしさも同時に感じてはいた。
空港を後にした、時計は12時近くをさしている。
(さてどうしたものか…家に帰るには早すぎるし会社に行くのもなぁ…)
それより達也の心はあの得たばかりの移動体感をもっと試したいと渇望していた。
それはまるで以前から欲しかった車がようやく届き、これから試乗に出かける…そんな想いなのだ。
(何処か人のいない所に行きじっくりと試してみたい)そう思うともうたまらなかった。
達也は有明JCTを左に切る予定であったが、急遽真っ直ぐに船橋方面へと進路を取った。
船橋方面への行き先は以前成田市のゴルフコンペに行った際 周辺の野山に田舎を感じたからだ、あそこなら場所さえ選べば人知れず移動の試行は出来ようかと思えた。
13時5分、大栄ICを降り51号線に乗り北へと向かった、そして途中左に折れ小高い丘を目指した。
しかしいざ来てみると行けども行けども道路両側に人家は絶えず、都心に近すぎたかと半分諦めかけたとき右手に森に続く細い道を見つけた。
その道は深い森に囲まれた平地へと続いている…そんな気がしたのだ。
(よし、あの先に行ってみよう)ハンドルを右に切り舗装されていない山道を暫く進んだ。
すると5分ほど走らせたところで道が急に細くなりこのまま進めばターンさえ困難になるように感じられ達也はしかたなく車を停めた。
車から降り周囲を見渡すと己がいま丘の中腹辺りにいることが分かった。
そして見渡す限り人家らしきものは見当たらない、また小高い丘側には畑らしきものが点在するが人影は無かった。
(ここならいいだろう)
そう考え移動場所を求め歩き出した、歩き始めて10分ほどで森を抜け出た。
森を抜けるとすぐに小川が有りその向こうには草地が広がっている、さらにその奥は深い森に遮られていた。
まるでポッカリと森に囲まれたような草地である、達也は注意深く辺りを窺った 幸いにもその空間には人気は全く感じられなかった。
(こんな格好の場所があるとは…よしさっそく試してみるか)
そう思うと移動先を物色する、暫く見る内 目先100mほどに地が剥き出しの空き地を見つけた
(あそこに移動してみよう)
思念を空き地に向け集中する、すると1秒後に達也はその空き地に立っていた…まるで己が移動するのではなく空き地が勝手にたぐり寄せられた そんな感じなのだ。
(クーッこれは面白い)そう思うとまるで童心に返った様に周囲400mほどの草地を次から次へ飛び回った、あの子供の頃の夢と同じ感覚に心が喜びに震え始めた。
次第に移動のコツが掴めてきた、また移動先を念じるとその場の周辺の景色がリアルに脳裏に映し出されることも知った。
達也は3時間ほど夢中に移動試行を繰り返した。
しかしやがてその興味は次第に色褪せてくる、しかし興味は失せたものの移動の原理は解き明かせず未だ朧の思念域にある…そんな感じでもあった。
朽ちた古木に腰を下ろす、汗が額に滲み出ていた(あぁ喉が渇いた)達也はハンカチで額を拭きながら視線はすぐ横を流れる小川に注がれた。
(飲める水かなぁ)
その上流を目で追った(この辺りなら上流に人家もあろう)
結局飲むのを諦め小川で顔を洗うだけにした。
さて帰るか…そう思うも今の達也は意識が高揚しているせいも手伝ってか「何でも出来る」そんな感覚に力が漲っていた、だからもう少し潜在能力を開花させてみたいとの想いも捨てきれなかった。
その想いとは…例えばあの森の木々全域を一瞬で引き倒すとか この小川の流れを逆流させるとか…思念次第で簡単にできそうな気がするのだ、しかし今はその術が何かに引っ掛かった感じに脳裏に具現化できなかった、しかしこの身に必ずや備わっていると思えるから不思議だった。
達也は朽ち木から腰を上げると ふと自宅を思念上に映してみた、すると妻の志津江や自室で3DSに夢中になっている一翔の姿が見えてくる。
すると想いはあの一翔の部屋へこの場から瞬時移動できる そんな感覚が漲っているのが分かった、また今からあの別世界へ飛び立つことも容易に出来そうに思えるのだ。
その時ふと疑問が生じた、以前あの別世界で見た囚人らしき人々…自分と同じ様に移動が出来るのなら鎖に繋がれずとも逃げ出せばいいのにと。
また道路を行き交う人々も何故歩いているのだろう、歩く必要などないはずなのに…。
(これには何かある…俺が見たあのラピュタは俺が目指す父がいる世界では無いのかもしれない)
そんな疑問が湧くもその先は朧の霞に遮られていた、ただ他にもまだ見ぬ別世界が無数にあるやも知れぬとこの時痛烈に感じたのだ。
この疑問は次第に解き明かされていくだろう そう思いながら腕時計を見た、時間は4時半を回っていた。
(おっと もうこんな時間か…)
これから自宅に戻れば6時には着くな…さて 妻にどう説明するか。
(急遽出張は取りやめになった、そう言うか…)
その時遠くの森の切れ間から老人らしき人影がこちらにくるのが目端に入った。
反射的に達也は丈の高い草むらに身を屈めた、そして屈めたとき何故隠れなければならないのかと思った、そんな時 車の映像がリアルに脳裏に浮かぶ、達也はその周囲を思念上で見詰めていった、車周辺に人影は見当たらない、達也は反射的に思念を強めた、一瞬で 草むらから実像は消え車の横に立っていた。
あの日から18日が経った、デジカメで写したあの無様とも言える別世界の衣装は昨夜上野のコスプレ店より貰ってきた。
正直あの衣装を作るには苦労した、妻に頼めば何ということはないがさすがに頼めない。
ネットで数日探し渋谷のコスプレ店で注文衣装を作っている事を探し当てた。
達也は早速あの日撮った写真から別世界人類の全身が写っている写真と部分詳細が分かる写真5枚をその店に持ち込み生地を選んで衣装製作を依頼した。
店の店員は「一体これは何…」と失礼にも達也をジロジロ見詰め苦笑を噛み殺して達也の体を採寸していった。
達也は会社で催される仮装大会に着る衣装と顔を赤らめ答えたが…さすがに気まずかった。
日曜の午後、妻と息子が外出したのを見計らい鏡の前で例の衣装を身につけてみた、着てから鏡に映し思わず苦笑する 我ながら何と無様なと思う、もし妻や息子に見られたら発狂したかと思われそうなのだ。
暫く正面や側面を鏡に映しあの日見た衣装と異なっていないかを確認する、幸い生地の色や風合いはあの日見たとおりと感じられた、その時玄関に物音を感じ達也は弾ける様に衣装を脱ぎ慌てて普段着に着替えると玄関へ走った、しかし玄関に人影は無かった…。
怪しげな行動を取っていると耳まで敏感になるのだろうかと達也は思わず苦笑した。
(さてこれで準備は整った、いつでも行ける)そう思うといつ出発しようかと考えた。
別世界の時間の流れはこちらの2倍、であるならば今度は5日も休暇を取る必要はないかと考える。
(2日も有れば大丈夫か)そう思うと机上の手帳を手に取りスケジュール欄をめくる。
(来週の木金なら今のところ予定は無いな…この日に決めようか)そう思いながら壁に掛かったカレンダーに視線を移す(12月4日と5日か…よしこの日に決めよう)
そうなると後は準備である、今度は何を持って行こうかと考えた。
手は自然と引き出しの奥から例の写真を取りだした、そして一枚一枚丹念に見始める。
(彼らが着る衣装にはポケットらしきものが見当たらない…)
また写真に映る人々は全員が手ぶらであることに気付いた。
あの世界にはポケットとか鞄というものが存在しないんだと思った。
(これでは持ち込みは何も出来ないということか、徒手空拳で単身乗り込むには勇気がいるな)と思うも武器を持って乗り込むわけでもあるまいしと思わず笑みが洩れた。
(あの体にフィットした衣装ではカメラなど隠しても浮いてしまう…しかたない手ぶらで行くしかないか)
そう思うと諦めが付いた。
(まずはあの世界に行って現地の状況を掴んでみよう、風土・風俗その他あらゆるものを見て記憶するか…おっと食事はどうしよう、食堂とか金銭関連はどうなっているのだろう、まっ二日ぐらい絶食しても大丈夫だろう)
達也はそれから数時間、妻が戻る夕刻まで自室で思案に暮れた。
次の朝、達也は久々に港区芝浦の整備工場に直入した、引き取った最新鋭MRIの整備状況を見るためである。
クリーンルームに入りルーム全域を占めるMRIの大きさに驚いた、見方を変えればMRIが大きいのではなくクリーンルームが小さすぎると思い直し苦笑した。
暫くMRIを眺め裸にされた各構造に見入っていく、その視線がテーブル下部に転じたとき奇妙な違和感を覚える、その違和感はすぐに理解出来た。
「野村君、整備の進み具合は予定通りかな」と機器調整中の工場長の肩を叩いた。
「はい、明後日には終われそうです」
「そうか、となれば今進めている売り先の交渉を急がんとな」
そう言うと達也はMRIのテーブルに手を掛け力を込めた。
「野村君このカバーを悪いが外してくれんか、テーブル昇降スライドのリニアガイドが一ヶ所だけ与圧が甘いと思うんだ、それとボールネジのフランジ側ブラシシールが外れかけてる」
「社長、リニアガイドの与圧は4年に1回とマニュアルに記載されているので点検はしておりませんが…しかし押しただけでどうして分かるんです」
「まっいいから外してごらんなさい、メーカーの出荷点検不良ということも有るだろうから…。
リニアガイド8個は全ての与圧をまず均一に調整し、ブラシシールの再取付は専用工具がいるからもう切り取ってもかまわない、代わりに低発塵のグリースを塗布しておいて下さい。
それが終わったら私は事務所にいるから顔を出して下さいな、ちょっと相談したいことがあるから」
そう言うと達也はクリーンルームを出て無塵服を脱いだ。
脱ぎながら整備不良が手に取るように分かったことに首を傾げた、あの別世界から返った日から何やら全てが見えてくるそんな気がしてならないのだ、それは視界が開けるというより悟りの境地に似ている…そんな感じなのだ。
まだ己の能力のほんの一端が目覚めただけに過ぎない…そんな気がしていた。
達也は全能力に目覚める日はそれほど遠くはないと体の何処かで感じている事に違和感を覚えるが、能力の全貌が明らかになったとき…それはもう「神の領域」そんなことを朧にも頭の片隅に感じていたのだった。