第五話
港区芝浦の工場は32坪の倉庫を兼ねた整備工場である、工場内には2坪の事務所と22坪のクリーンルームそして余白は倉庫としていた。
クリーンルームのレベルは予算の関係からバイオロジカルより数段劣るインダストリアルクリーンルームを構築した。
それでもクリーンルームを持つことは達也の昔からの夢であり、今も無塵服に着替えルーム内で作業をする整備工の動きに目を細め魅入っていた。
「野村君、そろそろマニュアルの読み合わせをするから皆事務所に集まってくれんか」
そう言うとクリーンルームの出口より一旦出て除塵服を脱ぐと事務所へ移動した。
5人座ったら一杯のわずか2坪の事務所である、そこへ作業を中断した4人の整備工が入ってきた。
年齢は20代から40代とまちまちで、いずれも大手の医療機器メーカーで組立・電装・検査を担当していた職人らである。
「野村君、整備マニュアルは3冊しか入手出来なかったから水野君は田中君に見せてもらう様に」そう言いながらマニュアル3冊を野村工場長に渡した。
「社長の分は…あっそうか社長はいつもの様にもう暗記してますよね」そう言って野村は笑った。
「では野村君は112頁、田中君は521頁、伊藤君は713頁を開いて水野君と一緒に見てくれ」
達也は時間短縮のため4人の整備工にそれぞれの担当分野を平行して講義していく。
「野村君は左頁上の静磁場磁石支持ブラケットの振動緩みの項を読み始めてくれるか、田中君は頁中央のサーフェスコイルの絶縁皮膜の項を、伊藤君と水野君はRFトランシーバーとトランスミッターの点検要領項を第5項まで読むように」
講義は休憩無しに夕方6時まで続けられた、皆は一気に詰め込まれたせいか放心状態に溜息をついた、達也はそれを見て限界を感じ「今日はこれまでにしておこう」そう言いながら窓を見た、すでに外は夕に暮れていた。
達也は工場を後にした、一旦は会社に戻ろうと思ったが昼間感じた父の失踪のことが頭を過ぎる。
(母さんの所に少し寄ってみるか…)
達也はポケットから携帯電話を取り出すと今日は直帰しますと会社に連絡を入れた。
午後7時、中野の実家に着いた、玄関を入ると母が少し驚いた様な顔で出迎えた。
「達也、今頃なにか急用なの?」と心配げに聞いてくる、「ううん、ちょっと母さんに聞きたいことが有ってね」達也はそのまま居間に通された。
「兄さんはいつも遅いの?」座ると茶を持って現れた兄嫁に挨拶しながら問う。
「ええ、このところ毎晩遅いの…でも仕事なのか何なのかちょっと怪しいけどね」言いながら顔を曇らせる。
「えっ、兄さん浮気でもしてるの?」真顔で兄嫁に聞いた。
「お前は何てことを言うの、孝夫にそんな真似なんか出来やしないよ」と母が笑った。
「病院の開業で…大学と揉めてるみたい…」兄嫁がぼそっと呟く。
「孝夫は教授になったばかりでしょ、推薦した学長さんの顔を潰すことにもなり あと五年は大学で辛抱できないかって言われてるらしいの」母も顔を曇らせた。
「兄さんも大変だな、でも兄さんの性格なら病院に残った方が俺はいいと思うが…。
病院建設やら人材集め…それと医療機器の導入や薬局の併設、一体幾ら金が係ると思うの。
それに職人気質の兄さんだろ、俺 いままで病院閉鎖をさんざん見てきたから分かるけど、病院経営って医術に優れている者こそ難しいと思うんだ、経営と技術の両立って簡単に言うけどこの5年で数百人の医院長に会ったけど 両立している人はほんの一握りしかいなかったよ」
「そうね あんな真面目を絵に描いた様な子に経営が出来るなんて私も正直難しいと感じてるの、でもあの子昔から言い出したら聞かないでしょ、困ったわね…。
達也、あなたから孝夫に言って聞かせること出来ない」
「母さんそれは無理だよ、兄さんが俺の言うことなんか聞くわけないじゃない」
「そうよね…あの子は人一倍プライドが高いから、こんなときお父さんさえいてくれたら…」
母が寂しげに呟いた。
「おっとそうだ、その父さんのことで今日来たんだ」
「父さんの事って 達也何か消息でも分かったの!」母が目を丸くして膝を乗り出した。
「ごめんそんなんじゃないんだ、ちょっと父さんの失踪前後のことを知りたくてさぁ…」
達也が否定すると母は落胆顔で視線を落とした、それを見た兄嫁は気を利かして居間より出て行った。
「お父さんが失踪してからもう15年たつけど…その前後のこと詳しく教えて欲しいんだ」
「詳しくって言ってもねぇもう15年も前のことだから…。
初めは女性関係と思ってたけど父さんの友人の方々にいろいろ聞いみて全くその影は無かったでしょ、失踪要因は女じゃないって事は確かよね」
母は昔を思い出す様に空間に目を泳がせ眉間に皺を寄せた。
「そうそう、失踪する1ヶ月ぐらい前だったかしら急にお父さん暗くなってね…それからはいつも物思いに沈んでいたの。
それから家に帰らない日もあって…長いときは4日も帰らないことがあってね 大学に連絡したら無断欠勤してたの、私も孝夫もビックリして警察に連絡しようとしてたとき帰ってきたのよ。
あのときは憔悴しきった顔でね私や孝夫が何を聞いても答えてくれなかった…。
そうあれは失踪した日の前の晩だったかしら、寝ていて急に大声で“助けに戻るから待ってろ!”って叫んだの、そのことを朝それとなく聞いたら そんなこと言ってたのかって怖い顔してた。
そう言えば達也は今年42歳になるのよね…。
あなたはお父さんと顔つきも体つきもそっくりだからさっき玄関に佇んでいたお前を見て父さんが帰ってきたかと勘違いしちゃった…。
それほど似ているお前がお父さんのことわざわざ今日聞きに来たのって…達也あなた私に何か隠していない?」
「いやだなぁ、何も隠してなんかいないよ」
「そうかしら、昔から孝夫は分かりやすい子だったけど お前とお父さんは私には理解出来なかったから…」母は不意に寂しい顔を見せた。
達也は8時に実家を後にした、母が寂しげに玄関まで送りに出て車が角を曲がるまでその場に佇むのがバックミラーに映っていた。
いらぬ事を思い出させたな…達也は寂しげな母の顔を瞼に浮かべた。
父が失踪してからというもの顔かたちが父と瓜二つであったためか長男の孝夫より次男の達也の方に母は異常なほど愛情を注いでいたと達也は思う、その嫉妬せいか3つ違いの兄はいつも達也に邪険であったことが思い出された。
それにしても今夜は父の失踪前後を聞いて確信めいたものを感じた、それは母が言った失踪前にちょくちょく家を空けたという下りである。
(父さんもあの異世界を知ったのか、今朝体感したあのラピュタに飛び乗れる感覚…父さんはそれを実行に移したんだろうか)
父の失踪…それはまるで神隠しの如く何の痕跡も残さず霧の様に消えた。
その頃達也は就職して栃木の社員寮にいた、母から連絡を受け会社を1週間休んで父の友人宅や訪れそうな地を方々探し回った、しかし何の手掛かりも無く警察の協力も得たが結局消息は杳として知れなかった、父の失踪は文字通り“忽然”という形容であった。
あれから15年、警察から身元不明の遺体でDNAが合致するものは未だ出ていないと報告も受け、また国外に出た形跡も無いという、考えられるのは何処かで密かに生きているか又は樹海の闇に消えたかのいずれかであろうと警察の見解は曖昧であった。
(もしラピュタに飛び乗ったならば父さんは生きている可能性大、あの世界に行けば連れ戻せるやもしれぬ)そんなことを考えながら車をとばした。
同時に不安も過ぎる、あんなに母を愛していた父が母の元に帰るのを放棄するだろうか。
(いや何らかの事情で帰れない、それとも囚われの身…ということはミイラ取りがミイラになる可能性も有ろう)
気づくと達也は家の前にいた、思い出した様にバックで庭横の駐車スペースに車を停めエンジンを切った、そして車から降りることも忘れ想いに耽る。
(今朝の体感…あのラピュタに飛び乗れる感覚はどうなのか、あの異世界は俺の脳が勝手に造り出した幻影に過ぎないのでは…)そんな想いも過ぎる。
(どう考えてもそんな異世界が現実に存在することなど有り得ない…しかし教授の言った蟻と人間…そして進化極のX、もし俺が突然変異でXに近い存在であったなら、人間が認知出来ないものをリアルに知覚できるは無理な話とは言えないのかも…)
「あなたどうしたの!」気付くと妻の志津江が車の窓越しにガラスを叩いていた。
達也は降りしなに「考え事していて降りること忘れてた」と恥ずかしげに頭を掻いて見せた。
「あなたったら…」志津江と笑いながら玄関へと歩く。
(しょうがない…明日早坂教授に相談してみよう)そんなことを想いながら玄関の鍵を閉めた。
翌朝工場に直入し昨日の続きの講義を行った、昼12時 会社に電話を入れ佐橋課長に岩田総合病院のMRI買取りの可能性を聞いた。
「社長、何とか取れそうです 工場の受け入れ準備を進めて下さい」と嬉しげな声が返ってきた。
達也はそのむねを整備工らに伝え現在クリーンルーム内で整備中の2台の機器を早期に仕上げるよう指示した。
昼2時、達也は携帯電話で東都大学の早坂教授に電話を入れた。
「教授、本日急に体が空いたのですが…これから診て頂くことって可能でしょうか」
「おおっ、儂も3時過ぎなら体が空くゆえいらっしゃい!」の応えであった。
教授の声音は思わぬ品物が入手出来たときのあの感嘆調子の驚声に聞こえた。
(今から行くと丁度よい時間か…)達也は社に電話を入れ私用で早引きする事を伝え車に乗った、さて…教授にどう伝えたらこの胸の内が分かってもらえるのだろうと考えた、また血液採取の結果が出ていれば自分は何者でどこから来たのか解るかもしれない。
午後3時、早坂教授の部屋のドアを叩いた、教授は待っていたのかすぐに扉が開けられた。
「おおぅよう来た、待っておったのだ…さぁ座りなさい」教授は嬉しそうに椅子をすすめた。
「五十嵐君のDNAを調べていて実に興味深い事が分かったんだ」教授は息急く様に言いながら分厚いファイルを広げた。
「教授、その前に私の近々の症状を先に聞いてもらってもいいでしょうか」
「いいとも、何か急変でもあったのかね…」そう言うとファイルを一旦閉じ達也の目を凝視した。
「実は……」達也は幻視のリアル化から話しを進め、幼少期から現在に至るまでの常人を逸脱する能力や視覚チェンジ能力、そして醜悪なラピュタの存在や移動体感、最後に父も自分と同じ能力を持っており失踪前後の奇妙な行動など現在心に引っ掛かる全ての澱を教授に思い切って吐露した。
教授は1時間にわたる達也の吐露を口も挟まず黙って聞いてくれた、そして話しが終わった時達也は顔を上げて教授の目を注視した。
その時、教授の初老の顔に目だけが若々しく輝いているのが奇妙に感じられた、それが教授の興奮したときの顔であることは後から知ったのであるが…。