第三話
早坂教授に面会した日から2週間が過ぎた、夏は真っ盛りを迎え達也の会社は今日から8日間の夏期休暇に入った。
休暇前の先週始め 高額なMRIの引き合いが立て続けに3件あり達也は営業部員と共に大阪・名古屋と飛び回り今週末何とか契約に漕ぎ着けることが出来た。
まだ月の前半というに今月の売上目標はほぼ達成し、さい先の良さに満足し休暇を迎えた達也であった。
休暇初日、朝から達也は暇を持てあましていた。
例年であれば夏は旅費が比較的安いサイパンかグァムに家族旅行をしていた、しかし今年は例の幻視の症状が頻発化し達也は旅行を迷っていた、そんなさなか急に降って湧いた高額取引に忙殺され 旅行予約の時機を逃がしたのだ。
今朝は妻の志津江と息子の一翔は恒例の夏期旅行が無かった事で達也を咎めているのか口さえきいてくれない。
朝食が終わった時 一翔に宿題は進んでいるかと聞いたら…
「旅行に行くと思ったからもう全部やっちゃったよ!」と不機嫌に言い残し自分の部屋へ引き上げてしまった。
そんなやりとりを見ていた妻も一翔を叱るわけでもなく そそくさと後片付けを済ませキッチンに消えてしまった。
ポツンと一人取り残された達也は仕方なく新聞を持ってリビングのソファーに所在なげに座った。
新聞に目を通し始めるが文字は目に入ってこなかった、達也はこれからの八日間 妻や息子のあの態度に絶えねばならぬのかと気が滅入った。
(仕方無いどこか近場の温泉地に旅先を探すか、しかし盆休みが始まると言うに…今更どう足掻いても空きなどないだろうな)
そんなことを考えながら明日に迫った早坂教授の診察を思う。
達也はまだ迷っていた、教授のあの老獪に濡れた瞳を思い出すたび嫌悪感が湧きあがり、行けば腹の煮える対応に終始しよう。
しかしこの2週間、幻視の症状は飛躍的に進み今では幻視か現実かの区別さえ付かないほど鮮明化している。
それでも自己崩壊最後の砦である視覚チェンジはこの一週間何度も練習し今では自在にチェンジが可能にもなって来た。
視覚チェンジさえ自在に出来れば幻視など永遠に封印出来る。
そんな自信が芽生えつつある今、わざわざいやな想いをするため早坂教授を訪ねることは躊躇われるのだった。
今週の初め…名古屋に出張するさい空模様が気になり窓辺に寄ったときのことである
達也はブラインドに指を掛け隙間から空を見詰めた、雲は低く垂れ込め昼前には雨になりそうな気配に見えた。
(傘を持っていくか…)
そう思いながら視線を眼下に転じた、遠く神田川に架かる昌平橋の向こうに秋葉原の街並が望め さらに浅草へと繋がっていた。
達也は思い出した様に部屋内を振り返り社員の誰もがこちらを注視していないことを確認した、そして一瞬身構えると視覚チェンジを図ってみた。
一気に視界は暗褐色変わり今まで見えていた眼下の街は忽然と消え、不気味にうごめく陰が眼前一杯に広がった。
それはあたかもゴキブリの羽裏の地肌の如く気味の悪い幾何学模様を浮き彫りにした暗褐色のおどろな光景である。
気味悪いこの光景を初めて見たのは先週大阪から帰り、このブラインド越しから見たときであった。
その時は窓から弾けるほど驚愕し社員らを驚かせてしまった、その時以来社員らの注視を懸念しながらの覗き見なのだ。
とうとう全視野を占領された…そんな想いが胸を鋭く抉った。
それからは日を追うごとに視野全域の映像は鮮明化し、今まで幻視と認知してきた映像は現実味を帯び 今ではどちらの視野が本物なのか達也自身も迷うほどになってきている。
そのおどろな光景は不思議としか言いようがない。
それは茶色がかった深い空間に幾つもの巨大な島が浮き、ゆっくりと東へ移動しているのだ。
まるでガリヴァー旅行記に出てくる空中に浮かぶ巨大な島ラピュタと形容すればいいのか…。
その巨大浮島の一つが今達也のブラインド越し間近に浮いている、それは美しい緑の島ラピュタとは対照的に表面は茶羽根ゴキブリの羽裏か腹の如く奇っ怪な筋で縁取られ、筋は腸の様にうねり 昆虫が分泌する茶汁の如く粘ついた光を放っていた。
そしてそこに蠢く黒点は小さすぎて未だ実態は見えてはいない、しかし数日の内 これまでと同様に鮮明度も上がり見ることは容易になってこよう。
その日以来達也は街に出るのが怖くなった。
もし街の雑踏のなかで視覚チェンジをしたら…たぶん一瞬で発狂してしまうだろうと思えた、それほどに身の毛がよだつ視覚なのだ、そんな恐怖におののき視覚チェンジはこの数日間封印していた。
しかし 街なかで視覚チェンジをしてみたいという奇妙な想いが沸き上がるのも否めない、それは怖いもの見たさなのか、はたまた真の己を知りたい欲求なのか…。
いずれにしても今はそれを見る勇気はない、それは本能が避けているのであろう。
それを行えば確実に狂ってしまうか あの世界に取り込まれてしまう、そんな気がしてならないのだ。
翌朝、達也は早坂教授に電話を入れた「今日は急な都合で行けません」と伝えた。
教授は怒った様な口振りで「ではいつなら都合は良いのか」と聞いてきた。
「来週こちらから連絡致します」と言い相手の返答を待たずに電話を切った。
電話をする前は「診察はもうやめます」と応えるつもりだった、しかし土壇場で翻った、それは教授の怒声に怯んだ訳ではなく己の不安が未だ払拭しきれないからであろうか、それとも自分はどこから来たのかをやはり知りたいと思ったからなのか、その刹那の感覚は電話を切った今では分からない。
翌日早朝、達也は妻と子を伴い羽田に向かった。
妻と息子の冷たい態度にあったあの日、どうせ駄目だろうと思いながらも会社の慰安旅行などで世話になっている旅行社に電話を入れてみた。
「五十嵐様、国内で御座いましたら沖縄便とホテルにちょうどキャンセルが入り、今御予約して戴ければ御席をお取り出来ますよ」との返答だった。
但し、座席はプレミアムクラスでホテルの部屋はエクゼクティブスイートと言う、達也は一瞬躊躇したが妻と子の恨みがましい顔が脳裏に浮かんだ瞬間「それで御願いします」と応えてしまった。
結局ハワイに行く以上の旅費になり、電話を切ってから呆然と佇む達也であった。
それでも妻や子の嬉しげな顔を見た時、まっ休暇前に多少は儲けたから何とかなるかと思い直した。
羽田を9時に発ち昼に那覇に着いた、三人とも沖縄は初めて訪れる地であった。
三人は那覇の空港ビルを出て、レンタカー送迎バスに乗り込みレンタカー営業所に案内された。
達也が運転するレンタカーは那覇ICから沖縄自動車道に乗り一路名護市へと向かう、途中伊芸のサービスエリアで食事休憩を取った。
東京も暑いが沖縄の暑さは別格である、しかし陽の光と風景はグァムと遜色ないのが嬉しく、また日陰に入ると幾分涼しく感じられ南国の雰囲気も充分に感じられた。
三時前に許田のICを降り58号線をかりゆしビーチ方面に向かう、途中喜瀬の交差点にブセナ海中公園の案内を見つけ右折した。
夕刻ホテルに着き部屋に案内された、ベットは天凱風の純白のベットで部屋の広さも申し分無かった。
妻が「あなた、贅沢しちゃったね」と嬉し顔で呟いた、たしかに社長と言えど未だ社長室も秘書もいない社長兼営業マンの達也である、こんな部屋に泊まるのは10年早いと言われそうだ。
夕食後、息子の一翔はブセナ海中公園ではしゃぎすぎたのか八時前には寝てしまった、妻はそれを見ると「あなた少し海辺を散歩しましょうか」と言ってきた。
二人はホテルを出るとかりゆしビーチに散策に出た、ビーチには明かりが灯りレストランも営業し華やかな南国のビーチを演出していた、二人は靴を脱ぎ水辺をはしゃぐ様に歩いた 頬を撫でる風は爽やかでここが日本とはとても思えなかった。
二人は砂浜に置かれた白い椅子に腰掛け そして暗緑色の海を見詰めた。
志津江は今年36になる、達也はその横顔見ながら美しいと思った。
志津江は10年前達也が大手医療機器メーカーで開発部に在席していた頃 初めて見初めた美しい女性であった。
しかし社内では彼女の美貌は音に聞こえ 達也には高嶺の花そのものであった。
そんな美しい女性に冴えない開発部員が恋をしても叶えられるはずもなく、おおかた花形である営業マンが浚っていくのだろうとあきらめていた。
それが何の間違いか彼女は全く目立たぬ達也に恋をしたのだ。
きっかけは社の廊下を歩いていたときの事である、正面から来た彼女と達也はおたがいに避ける方向が偶然一致し軽くぶつかってしまった。
その時は二人とも顔を赤らめ謝り合ってそそくさと別れたが、次の日の夕刻偶然にも同じ廊下でまたもや彼女とすれ違った。
達也は彼女が私服に着替えており また時間からしても帰宅時と思い、すれ違いざまに「さようなら」と小さく声をかけた、そして通過し数歩してから耳元がカーッと熱くなるのを覚えた。
反射的に出た咄嗟の言葉であったが(お前よくもまー言えたもの)と自問が木霊したのだ。
その後 達也はそこから開発室までどの経路を辿って返って来たかは覚えてはいない。
それほどに気持ちは高揚し体中が焼ける様に熱かった。
その日以来、寝ても覚めても彼女の像が脳裏を離れず切ない恋心に身を焦がした、まるで中学生の恋であった。
それから一月経った雨の夕暮れ…会社正門横に佇む彼女を見つけた、遠目にもその美しさは輝いて見え達也の心は躍った。
しかし彼女の様子は誰かを待っている様…とても声をかけられる雰囲気には無かった。
暫く様子を窺う内 達也の高揚は次第に萎んでいった、雨は本降りに変わり始めた。
駅まで5分 達也は走ればそれほど濡れることはあるまいと思い鞄を頭に乗せ駆け出した。
人待ち顔に煙る嫋やかな彼女が次第に目の前に迫ってくる。
達也は切ない想いを振り切り 俯いてその横を走り抜けた。
その時、後方から「五十嵐さん」と声が聞こえた、達也は一瞬立ち止まるも空耳かと思い再び走り出そうと身構えたとき…またもや「五十嵐さん」と呼び止める声が聞こえた。
達也は声の方に振り返った、その先には訴える様な瞳で達也を見詰める美しい像があった、その日から半年も経たない内に二人は結婚したのだ。
「あなた、最近悩んでいるみたい…会社の方うまくいかないの」急に志津江がこちらを見て悲しげな表情を見せた。
それまで志津江の横顔に魅了されていた達也は慌てて目を逸らした。
「いや…会社は順調だよ、俺って日頃そんな難しい顔をしてるのかなぁ」とぼける様に達也は空を仰いだ。
「うん、最近いつ見ても考え事しているみたいで…とても苦しそう」
「そうか…ちょっと疲れているのかな」そう言いながら達也は掌で顔を擦った。
「あなた、苦しいときは一人で考え込まないで私にも相談してね」
これまで達也は家にいるときは極力快活に振る舞っていたはず、しかし妻には見抜かれていた、それならばもっとうまく振る舞う工夫をしなければと思った。
この時 幻視のことを妻に話そうとは毛筋ほどにも思わなかった、それは常人を逸する症状をどんなにうまく説明したとしても…今の妻には想像の埒外であり不安を煽るだけに過ぎないからだ、達也は今の幸せを壊したくはなかったのだ。
翌日息子の一翔を連れビーチに向かった、志津江は陽に焼けるのはいやと言いホテル内のエステサロンへ行った。
ビーチは昨夜と一変し光りに溢れていた、砂浜は眩しいほど白く 海はエメラルドグリーンに染まっていた。
達也は童心に返り一翔と水際ではしゃいだ、しかし30分もするとさすがに疲れる。
一翔に浮き輪を借りてやり達也はビーチチェアーに大きく寝そべった。
目を瞑っても夏の光りは容赦なく降りそそぎ達也は持ってきたタオルを顔に乗せ光りを遮った、すると闇が一気に広がる…その闇が次第に褐色化し達也を幻視の誘惑にいざなう。
達也はタオルを外すとチェアーから半身を起こし一翔が戯れる海辺を見詰めた、一翔は砂浜近くの水辺で浮き輪に掴まり遊んでいた。
達也はそれを確認すると沖に視野を転じ視覚チェンジを図ってみた。
視野は一気に深い茶の世界に切り替わる、達也はその視野の隅々に焦点を合わせていく…しかしそこには蠢く陰どころかあのスウィフトのラピュタさえ浮いてはいなかった。
深い茶の茫漠とした世界が一面に広がるのみ、沖縄にはあの醜悪な世界は存在しないのだろうか…。
達也はホッとしながら視覚を元に戻した、(何故だろう)首を傾げながら再び水辺に視線を転じた。
(一翔…)今までいたはずの水辺に一翔の陰は無かった、達也はチェアーから立ち上がると水辺周辺を目で追う、胸が締め付けられる様に高鳴りはじめた。
「お父さんもう泳がないの」後ろから不意に声が掛けられた、振り向くと一翔が重そうに浮き輪を担ぎちょこんと立っていた。
4泊5日の沖縄旅行、その後行く先々で視覚チェンジを図ってみたがどこにもあの蠢く陰は見つからなかった。
(もう蠢く陰はどこかに消えたのだろうか…)そんな淡い期待を抱き達也は那覇を飛び立った。