第二話
翌日、達也は東都大学大学院 生命機能研究科の早坂教授を訪ねた。
「東大の青田君の紹介だと聞いたが…君は青田君とはどんな関係なんだ」
案の定、青田教授が言っていた通り 言い方からしても愛想の無い御仁である、達也はこの先が思いやられた。
「はい、青田教授は父の教え子で私の大学の先輩にもなります、現在も親交は厚くして戴いておりますが…」
達也が応えているのに教授は耳を傾ける感じになく紹介状の文面を見詰めていた。
「君の姓が五十嵐と言うことは東大医学部教授だった五十嵐公彦君の息子になるのか…たしか教授は15年前に失踪したままだったな…」
早坂教授は独り言の様に呟くと ようやく達也の目を見た。
「君は五十嵐教授の息子か…ふん まぁいいや」
そう言いながら青田教授の瞳が一瞬揺れた。
「君の脳スキャンは青田教授が送ってくれた資料であらましは分かった、幸い君の脳には腫瘍も傷も見当たらない、しかし 君の脳は異常というよりは奇形に分別されるだろうか。
人の脳は容積1400cc前後で約150億個の神経細胞とグリア細胞及び血管や分泌器官(分泌器官)でできているんだが…。
しかし君の脳は容積がなんと2100ccも有り常人の1.5倍ほどだ、ボールに例えれば直径14cmの脳を常人サイズとすれば君のは16cmにもなる、たった2cmゆえ外見的には分からぬが容積にしたら1.5倍にもなる計算よ。
それと大脳の表面部分の入り組み…ヒダと言った方が素人には分かりやすいか、それが異常に多く表面積にすれば常人の数倍はあろう。
こりゃ脳の大きさよりヒダの多さの方が問題だな。
おっと 奇形という言い方は失礼だったかな…そう 突然変異と言った方が妥当か…。
ところで 父親が東大医学部と言うことは君もそこの出身なのか」
「いえ、兄は医学部でしたが私は工学部です」
達也は答えながら 奇形とか突然変異とか教授の歯に衣着せぬもの言いに少々腹が立ってきた、また15年前 突然失踪した父のことを何か知っている様で気になった。
「では専門的な話しは通じんな、しかたない触りだけでも平易に噛み砕いて話してやろう。
君の脳は特殊なんだ、多分どの国の脳医学や遺伝子研究チームも君の脳スキャンを見たら腰を抜かすほど驚くであろうよ、青田教授が君を儂に預けたのも奴の専門を逸脱しておるゆえ手に負えぬとばかり儂に助け船を求めたのであろう。
さて…本題に入る前に予備知識として少々人類学のさわりでも話そうか。
ホモ・サピエンス・イダルトゥ、つまりヘルト人は現生人類ホモ・サピエンス・サピエンスの直接の先祖であると考えられているのだが…。
約16万年前の更新世東アフリカに生息していたとされ、その起源はアフリカ単一起源が今や一般化しつつある。
自然人類学におけるアフリカ単一起源説とは地球上のヒトの祖先はアフリカで誕生し、その後世界中に伝播していったとする学説なんだが。
一方、アフリカ単一起源説と対立する説にジャワ原人・北京原人・ネアンデルタール人などが各地域で現生のヒトに進化していったとする多地域進化説もある。
ただし多地域進化説も時間を充分さかのぼればヒト科の誕生の地がアフリカであるという点で意見は一致しており、この二説の相違点は「現生人類の祖先はいつアフリカから出発したか」でもあろうか。
そのため両者を「新しい出アフリカ説」「古い出アフリカ説」と呼ぶこともあるのよ。
分子系統解析の進歩、いわゆるミトコンドリア・イブやY染色体アダムなどによって人類は14~16万年前に共通の祖先を持つことがわかり、これはアフリカ単一起源説を強く支持していると言えよう。
またミトコンドリアDNAの分析では現代人の共通祖先の分岐年代は14万3000年前±1.8万年でヨーロッパ人と日本人の共通祖先の分岐年代は7万年前±1.3万年であると推定されておるのよ。
それと誰もが知っているネアンデルタール人だが、かつては人類の祖先と考えられてきたが遺骨から得られたミトコンドリアDNAの分析によって別系統の人類であることがほぼ明らかになったんだ。
しかし近年のゲノム研究の結果から現代人にも約1~4%の遺伝子が受け継がれていることが分かってきたのよ。
約2万8000年前まで存在し自然消滅していったネアンデルタール人の新生児と現代人の新生児の脳を比べるとサイズはほぼ同じで一見ほとんど同じように見える、しかしドイツにあるレックスドランク進化人類学研究所によると生後1年間の脳の発達には顕著な違いが見られると言う。
研究者は生後1年半から2年のネアンデルタール人と現代の新生児の脳比較において、その発達の仕方に大きな違いが見られると言い、この新しい発見は人類の最も近い祖先の思考が現在の人間とどのように異なっていたかに光を当てるものであり、人類の脳の進化についてその詳細を明らかにするきっかけになるものであろうと高く評価しているんだ。
脳の比較はネアンデルタール人の新生児頭骨は発掘されていないため 発掘されている大人の頭蓋骨の断片を詳細にスキャンし、それに現代の新生児頭蓋骨モデルを組み合わせ、コンピュータ上で仮想ではあるがネアンデルタール新生児の脳を作り出し 時間をかけ詳細に研究していったらしい。
現代の新生児の脳は最初の1年で神経回路がネアンデルタール人よりも活発に活動を始める事が解ってきた、これがホモ・サピエンスが自然淘汰で生き残るのに役立ったと考えられている、またネアンデルタール人の脳は現代人とは違って成長して行くにつれ小さく細長い形状に変化していくらしい この特徴はチンパンジーによく似ている。
さらに興味深いことは分析の結果、脳の大きさは知的能力にはほとんど影響せず知的能力に重要なのは脳の内部構造にあるということも解ってきたんだ。
これまでネアンデルタール人は巨大な脳を持っていたことから知的であったと考えられていた、しかし脳の内部構造が現代人とは基本的に異なるため彼らが現代人の我々と同様のプロセスで外界を知覚したり反射する行動も…たぶん根本的に異なっていたであろうと思われるのよ。
つまり 我々が知覚する以上のものを彼らは知覚することができたのか、或いは我々が普通に知覚できるものさえ困難だったのか…そこまではネアンデルタール人の生の脳が無い限りは想像の域を出ぬがの、しかしネアンデルタール人が自滅していったことを考えれば多分後者であったことは容易に判断はつこうか。
君は“アリは人の存在を知らない”という説を聞いた事があるかな。
まっ、アリは下等に過ぎて例にはなりにくいからマウスとしようか。
透明容器に入ったマウスに餌を与え係員はマウスの視界から隠れたとしよう。
この時マウスは係員をどう思うかだ、多分マウスは姿を隠した係員など全く興味はなくただ餌を貪るだけであろうよ。
さらに飛躍して考えればマウスは係員が隠れたことが認知出来るだろうか、猿ならば拙劣であっても人間が隠れたと認知するやもしれん、ふむぅ…知的レベルを図で表現してみようか」
教授は言いながら机上の資料の1枚を裏返すと白地の左端に「アリ」と書き、中央に「人」と書いて右端に丸を書いた。
「さて、アリと人の知能レベルはこれくらい離れているとしよう、それと同じくらい離れているこの右端の丸印に該当する生物は存在するだろうか」
教授は丸印の中にχと描き込んで達也の目を窺う様に見詰めた。
「人が進化の頂点ゆえこの右端のχの存在など君は考えたことも無かろうが、しかしもし存在するとしたら…その生物をアリレベルの人間が知覚できるかということよ。
先ほど知的能力に重要なのは脳の内部構造にあると言ったが、この数万年の間に現生人類ホモ・サピエンスが何らかの淘汰なのか突然変異なのか、優れた脳の内部構造を持って出現し この地上を手中に収め生物の頂点に君臨したと思っている、しかし果たしてそうだろうか。
この数万年の内、現生人類ホモ・サピエンスが偶然に誕生したならばさらにそれを遥かに超えた高等生物が出現する偶然を否定出来ようか。
もしそのような高等生物が生まれたとしても人間はアリと同様“見ることさえ叶わぬ”と思わぬか。
そこでだ、もし君の脳が人類の脳を遥かに超える内部構造を有しているならば我々常人に見えぬものが見えたとして何の不思議があろう、それは我々常人が言う“幻視”とは全く異なるものと言えよう。
儂は君の脳スキャンを見て常人を逸脱する脳構造に直感的にそんな想いがよぎったのよ、まっ少々飛躍に過ぎたかもしれんがの…。
君の脳は我々脳を研究する者にとっては驚異的な存在と言えようか、儂は正直胸躍る想いなのよ、故に先の直感も含め今後は時間を掛けて君の脳や君がどこから来たかを知る上で遺伝子を研究したいと思っておる、まっ幻視の原因も研究の推移と共に解明できるであろうよ。
さて、話しは逸れるが世界各国の現代人の遺伝子を分析した結果、発見された変異体ハプログループDは現代人の約70%に存在する、これは現代人がネアンデルタール人から受け継いだ遺伝子であろうと考えられている。
ハプログループDは他の変異体とは異なり研究チームはこの変異体が少なくとも約100万年前には存在していたと考えており、これは現代の人類であるホモ・サピエンスの出現以前のことであるためレックスドランク進化人類学研究所の研究チームは先史時代のホモ・サピエンスがハプログループDを持つ【χ種】と交配したと考えている、そして交配して生まれた種がネアンデルタール人ではないかと推測して…」
「教授、ちょ…ちょっと待って下さい、教授の語りは飛躍しすぎてついて行けません…もう少し分りやすく説明願えませんか」
教授は学者にありがちな相手の理解など頓着しない一方的な語りへと変化しつつあった。
「ん、飛躍…儂の喋りが突飛過ぎるとでもいうのか、ならば本題に入るなどは無理だな」
教授は話の腰を折られたのが不愉快なのか怒ったような顔を見せ沈黙した。
沈黙が続く、嫌な時間の流れである。
達也は話の腰を折ったことを悔い始めた、しかし暫くすると教授は顔を上げ人が変わった様に…
「まっ、平たく言えば君はどこから来たかと言うことよ、まずは遺伝子から調べようか、それと君が見る幻視を詳細に調べるには脳神経の伝播と特異性を見つけるが先決かな。
まだ君自身さえ知らぬ常人を逸する潜在能力もあるはず…これからじっくりと研究していこうよ。
それにしても君の父親は正真正銘の天才じゃったが…原因はやはりこの脳にあったようじゃな。
君もたぶん学生時代の成績はトップであったろうが、誠に羨ましい限りよ…。
今日は口腔内細胞や毛髪からでは十分なDNA回収は難しいゆえ血液を採取しておこうか、次回は2週間後に来てもらえるかな」
そう言うと教授は達也の思いなど頓着なく受話器を取上げると誰かに指示を始めた。
「さて、そうだな…次回は8月12日の午前10時が都合がよいが君はどう」
「はぁ私の方もそれでいいかと…」達也は曖昧顔で応えた。
「よし決まった、では帰りに2階の採血センターに寄ってくれるか、君の名前は伝えてあるから行けば分かる、それと会計はしなくていいから」
教授はファイルを閉じると立ち上がり 歩いて行って扉を開けた、まるで用は済んだから出ていけと言わぬばかりの事務的な態度に変わっていた。
達也は病院前のタクシー乗り場で客待ちに並ぶ先頭タクシーに乗り込んだ、「どちらまで」の問いに「小川町」とだけ応えた、その顔は憂鬱に曇っていた。
来るんじゃなかったと達也は後悔し始めていた、教授の一方的な語りといい実験試料扱いが見え見えな態度といい妙に腹が煮えた、医師と患者に共通する支配の構図を感じたからでもあったが。
(もう行くのはやめよう…)
車窓を流れる夏の風景は眩しいほどに光輝いていた、しかし車窓に垣間見える街の辻・ビルの隙間・高架橋の下、それら視野の先にはあの陰が再びうごめきはじめていた。
(くそー、俺の頭の中はどうなっているんだ…やはりあの教授につきあわねばならんのか…)
「お客さん、小川町に着きましたが 何処で停まればよろしいでしょう」運転手の呼び声で我に返った。
「あっ、ここでいいです」達也は代金を払うと車を降りた、社が入っているビルはまだ400mも先にあったが頭を少し冷やしたかった。
小川町の交差点を北に向かい教授の語りを反芻するように歩いた。
教授が最後に言った父親が天才なのはこの脳が原因だったのかの一言が妙に気になった。
たしかに達也自身も子供の頃は特に勉強したわけでもないのに成績は常にトップだった、中学の頃には学校に全く興味は見いだせず不登校になっていた、それでも試験の日だけは母親がうるさく言うため仕方なく登校し試験だけは受けた、それが全て満点の結果で我ながら不思議に感じたものである。
前方に駿河台の交差点付近が夏の陽光に浮き上がって見える、その下…路面付近に怪しげな影が漂っている、陰は今や等身大ほどの大きさに浮かんで見えた。
多分…数週間もすれば全視野があのうごめきに占領されるであろう。
そう感じた刹那、吐き気にも似た戦慄が背中を一瞬通り抜けた(あぁぁ俺は狂ってしまうのか)
うごめく影はあたかも見知らぬ異国の雑踏を切り取って映しているようにも見えた。
以前は見るに堪えないモノクロの粗い画素であった影が、最近は一部に色が付き画素もいくぶん細やかに感じられるようになっていた。
またうごめく影を見ようとする心、それに蓋をして現実の世界だけを見ようとする心の奇妙な逡巡・葛藤に、以前は目眩さえ感じたが最近は拙劣なりとも視覚チェンジが意識的に可能になっても来ていた。
しかし陰の支配がこの視覚チェンジさえ圧倒するようになれば早晩狂ってしまう怯えに苛まれてもいたのだ。
達也は立ち止まり遠方にうごめく陰を意識的に視野から消してみた、すると陰は消え軽い目眩と共に一気に街の喧騒が耳に飛び込んで来た。
達也はホッとするとともに このチェンジ感覚をもっと錬磨すれば狂わずこれからも生きていけるかもしれないと淡い期待を抱き目を強く擦って再び歩き始めた。