第十四話
梅雨の季節に入っていた、朝から空はどんより曇り今にも雨が落ちてきそうである、達也は庭の紫陽花をしばし眺めてから車に乗り込んだ、時計はすでに8時を回っていたが約束の時間には何とか間に合うだろうとエンジンスタートボタンを押した。
道路は通勤時間帯にあたり昭和通りに出るとすぐに渋滞が連なった、達也は渋顔で少し考え裏道を走るかとハンドルを左に切る、その時 雨がフロントガラスを激しくたたきはじめた。
9時少し前 雨は小雨になり車は清澄通りへと入いった、しばらく進むと橋向こうの左手に信勝の屋敷が見えてくる、屋敷の構えはこの辺りにはそぐわない古風な造りに見えた。
車は清澄通りを左に折れ小径へと入り、50mも行くと右手に屋敷の庭が広がりを見せてきた。
やがて垣根の切れ間を見つけ屋敷の庭へと車を進入させる、このとき雨が再び勢いを増してきた。
達也はエンジンを切りフロントガラス越しに空を眺めた…雲の雰囲気から当分止みそうにないと思え玄関口まで思い切って突っ走るかとサイドガラス越しに母屋へ続く飛び石を確認する。
達也は後部座席に置いた鞄を手繰り寄せると脇に抱えフロントガラスを叩く雨の量を推し量った。
(まいったなぁ…土砂降りじゃないか)
達也は時計を見た、針は既に9時を回っている。
(しかたがない 濡れるしかないか)そう思いドアをそっと開けた、すると猛烈な勢いで雨が吹き込んできた、達也は鞄を頭上で支えると車から飛び出し猛烈ダッシュで庭石を蹴った。
濡れた敷石の滑りが靴裏に感じられも頓着せず疾走した、20mも走ると左奥に玄関口の軒先が見えてくる達也はその玄関口を目指しひた走った。
庇の下へ飛び込むと鞄を放り出し手を膝に当て乱れた息を整える、肩にはしどと露が落ちていた。
(フーッ 何てタイミング悪いんだ…今日は幸先からしてヤバイ)
達也は肩の露を振り払いながらふと気付いた(あっ空間移動を忘れていた…)
己が上級人類ということを未だしかとは認知出来ていない…こんな状態で上級世界へ行ってもいいのだろうか、そんな危うげな想いが不意に頭を過ぎる。
もっと上級世界が自在に知覚できるのを待ってから進入すべきでは…。
上級世界が知覚できるようになったのはほんの一ヶ月前、ラピュタ世界の奥に朧に浮かび上がった明るい世界、それが時とともに鮮明化し知覚出来るようになり、ラピュタ世界と上級世界を任意に切替える術が会得できた。
しかし反面 己の想いに変化も生まれた、一つは社会に対してである 会社も取引先でも以前のように心が沸き立つ思いは消えていた、また何をしても何を見ても興味は涌いてこない…。
テレビや新聞を見てもつまらなく部屋に閉じこもる日々が次第に多くなり会社でも社員等との会話は減少していった。
二つ目は妻と子に対する感情である、ある日 妻の寝顔を見ていたとき…以前であれば愛しいと思えた感情は今や何処を探しても見つからなかった、それよりこの生き物は何なんだと思えた瞬間 驚愕に胸を締付けられ震えた。
俺は変わってしまった そんな想いが自身を苦しめた、今からでも現世の民に戻ろうか…そんな逡巡で眠れぬ日も続いた、しかしその逡巡も日を追うごとに薄れていきその感慨さえ消失していった。
上級世界が完全に知覚出来るようになって一週間が過ぎたころ達也の部屋に志津江が入ってきた、その顔は無表情に部屋内を見渡し 机の灰皿に目をとめると達也に声も掛けず机の灰皿を黙って持って行った、それは達也が煙草を吸おうと口に咥えた時である。
達也は訝しんだ、志津江が怒っている?…彼女の癇に障ることを俺は何かしたのか。
しかしいくら考えても思い当たらず達也はもう彼女に聞くしかないと台所へ向かった。
「あら!あなたどこにいらしたの、探してたのよ」と志津江は振り返って笑顔で聞いてきた。
何処にって…君は僕の手元から灰皿を取り上げるように持って行ったじゃないと言おうとした瞬間、達也は気付いた あの時 志津江に俺は見えていなかったんだと…。
それ以降家でも会社でも同様なことが続いた、今そこにいたはずの達也が消えてしまうらしい。
その消える瞬間は誰も認知していなかった、しかし会議途中に消えたり現れたりするのだから見えていないはずはない…現世人には認知出来ないほど不可思議な消え方なのだろうか。
その内完全に消えてしまう、そんな想いに怯え 駆け込むように信勝にうち明けた。
「そんなことで悩んでいるんだ、とは言う俺も昔は真剣に悩んだがねフフフッ。
まっ、それは上級世界を認知したあたりに起こる障害みたいなもので 2週間もすれば現世定着や上級世界定着の感覚が掴めるようになり、自分の実存が自由に操れるようになってくるよ。
だから気に病むことはないから」とあっさり応えて笑った。
案の定信勝が言った通りその感覚は2週間を待たずに掴めるようになり、現世定着の感覚時は以前と同様に仕事も面白く志津江も愛しいと思えた。
しかし一方信勝は現世定着ばかりに拘ると上級世界に行った際 強烈な吐き気をもよおすから今のうちに両方が自在に使いこなせるよう絶えず切替の訓練をしておいた方がいいと言っていた。
達也には信勝の言う意味は分からなかったが信勝の体験談というからにはそれに従い以降は訓練にあけくれたつもりだ。
達也はふと我に返り走ってきた庭の小径を振り返った、敷石の両側は日本庭園の体裁を成してはいたが今は荒れるに任せ植木も草も伸び放題に乱れ雨に打たれて項垂れていた。
主人を亡くした庭…そんな哀れさを感じながら肩口の露を払いチャイムを押した、そして視線はチャイムに続く上方へと流れ玄関口を覆う庇に目がとまった。
庇は古風にも杉皮が掛けられそれらを受ける桁や梁は贅を尽くした造りであった、以前2度ほどこの屋敷に訪れたが夜だったため気が付かなかったが これほど立派な屋敷とは思わなかった。
達也は暫く屋敷の廻りの造作に魅入っていた、その時玄関の引き戸が開き信勝が顔を見せた。
「おお来たか待ってたよ、さぁ入って車は庭に停めてきたよね」そう言うと広い玄関から屋敷奥へ達也を案内した。
長い廊下を歩き居間に通された、高価な緞通が敷かれた30畳ほどの落ち着いた部屋である。
「信勝さん、こんなでかい屋敷に一人暮らしは勿体ないね」達也は案内されたソファに座ると部屋を見回しながら口を開いた。
「んん、俺には広すぎるし手入れが大変なんだ、お袋はもういないし身寄りも一人もおらずで荒れるに任せているよ。
それに相続税がばかにならん、それでしかたく売りに出したんだが…建物は築70年と古く価値はしれたもの、それでも土地は安く見積もっても4億円くらいにはなると言ってたな、しかし税金を払ったら幾ら残るんだろう」
「ほーっ、4億…それは凄いや、税を払っても相当残るんじゃないかな。
でもこれほど立派な屋敷や庭園を壊して更地にするなんて…何かもったいないね、誰か屋敷や庭園を生かして購入してくれる人はいないのかなぁ」
「達也君、今時こんな古びた屋敷や草むす庭を修繕して住もうなんて奇特な御仁は東京にはいないよ、それよりこの広さならマンションになるのが道理、投資効果を考えれば至極当然のことさ」
「そうだよね…でも惜しいなぁ、それで信勝さん税引き後の金は何かに使う予定はあるの?」
「うん、初めは別れた妻と子にくれてやるつもりだったんだが…最近妻の消息を調べたら昨年他の男と再婚しててね…結婚相手は資産家らしく金には不自由していないとさ、せっかくやるというのにいらないとは…さてさてよほど俺は愛想を尽かされていたんだね…。
まっ、上級世界に永住することになったら現世の金など無用の長物よ、こうなったら俺の財産は全部君に進呈するさ」信勝はあっさり言ってコーヒーを啜り始めた。
「それは有り難い、それだけあれば我社の資金繰りは解消するよ」
達也もあっさりと応えた、正直 上級世界探訪を控えた今の二人にとって金への執着は薄かった。
「さぁコーヒーを飲んだらすぐに行くぞ、衣装は持ってきたかい」
「うん、ショッカー定番の服だけどね」達也は言いながら笑った。
「ショッカーか…フフッうまいこと言うね、じゃぁ俺もショッカー衣装に着替えてくるか、そうだなぁ君はここで着替えてよ」そう言うと信勝はコーヒーを一気に飲み「キェーィ」とショッカーの奇声を発し笑いながら部屋から出て行った。
達也は鞄から衣装を取り出した、上下揃いの銀衣装である。
当初信勝が3着の内奇抜な1着を達也に着るようすすめたが…見た瞬間に辞退した。
それ以降は上級世界を数度覗いて歳相応の落ち着いた衣装をスケッチし、例の上野のコスチューム専門店で作ってもらった、それでも現世の人々が見たら奇抜に映るに違いないが。
着てから鏡に全身を映してみた、その姿は横から斜めと何度見ても無様な姿である。
鏡にポーズを取りながら気恥ずかしい思いに暮れているとき信勝が部屋に戻ってきた。
信勝は達也の衣装を見るなり、「おっ!それいいな…君センスいいよ、俺のと交換しないか」と羨望声で言う。
達也はその声に振り返り信勝の衣装に一瞥をくれると思わず吹いた。
「君ぃ笑うことはなかろう…しかし俺ってセンスないのかなぁ」と言いながら信勝は鏡に全身を映した。
「クッ我ながら笑える、なぁ達也君このまま二人で町内を一周してみないか」
「いやですよ、警察に通報されますよ」達也は笑いながら達也の横に並んで立った、鏡には情けない出立ちの二人が映っていた。
「この姿はショッカーじゃないな、頬被りしたらモジモジ君だろうが」
二人は思わず顔を見合わせると床に尻餅ついて笑い転げた。
林の中にボッと二人の陰が浮かび上がった、辺りには人影は無く公園の外れのような場所である。
達也は転位した途端 強烈な目眩に襲われた、視界は定まらず天地さえも分からない無重力感覚。
思わず地に這い驚愕と苦しさでのたうち回る、そして辺り構わず吐瀉して転げた。
その光景に信勝はオロオロして回復にあたろうと手を伸ばすが達也は狂ったように罵声を吐きながらその手を撥ね除けた。
その感情は信勝には分かった、信勝もこの上級世界に転位した瞬間 達也よりさらに強烈な目眩に襲われ死ぬかと思った経験がある、そののたうち回る中どれほど現世に戻ろうかと思っただろう、しかしその苦しみは上級世界への試練と思い信勝は耐えたのだ。
信勝は見詰めるしかなかった、その苦しみは己で回復させるしかない。
自分の経験から最低30分はのたうち回るだろうと覚悟を決め達也の上に乗り体を押さえつけ「すぐに良くなるから」と囁き続けながら周囲を窺った。
遠くに人陰らしものは見えるが林に遮られ向こうからは二人は見えていないと思われ胸を撫で下ろした、信勝も7年ぶりか目眩と吐き気はあったが我慢できる程度で 時折発する達也の呻きに手を添えて抑えた、やがて20分も経ったころ達也の挙動に強さは無くなり呻きも治まっていった。
「重いなぁ、いつまで乗ってんだよ」と達也の少し怒りが混じった声が漏れた、信勝は慌ててその背から降り達也の顔を覗き込んだ。
「フーッこんなに苦しいのなら先に教えてよ、もぅ…来るんじゃなかった」いぜん怒った口調である。
「俺言っただろ吐き気をもよおすって、でもその苦しさの凄さを教えたら君は行かないって言うだろ、だから軽く言ってみた…ごめん」
「もういいよ!楽になってきたから…」達也は言いながら体を起こし地にあぐらを組んだ、顔はまだ真っ青で口は吐瀉物で汚れていた。
「水でも飲むかい…」信勝は達也の機嫌を取ろうと腰のポーチからペットボトルを取りだした。
「うん」達也は手を伸ばすとボトルを受取り まず口の周りを洗い ほんの一口だけ水を飲んだ。
暫く無言の気まずい時間が流れる。
「フーッようやく楽になってきた、さっきはごめん 余りの気持ち悪さに我を忘れ怒ってしまった、なにも信勝さんが悪いわけじゃないのに…」
「いいんだ、おれもはっきり言わなかったのが悪かった、どう もう歩けるかい」
「うん、だいぶ良くなった」そう言うとよろけながらも達也は腰を上げ尻に付いた土を払った。
二人はそっと立ち上がると顔を見合わせる、二人ともようやく緊張した面持ちに微笑んだ。
「いい場所に移動できたようだ、さてどうしよう、ここに隠れていてもしかたないから街に出てみようか、たしかこの前来たときあのモニュメントの向こうに街へ続く道があったはず」
そう言いながら信勝は周囲を窺いながら歩き始めた、達也もその後に付いて歩き始める。
これが上級世界か…達也は周囲を注意深く観察しながら歩いた、途中吐き気が何度も来たが堪え深呼吸をしてみた(おや 現世と何も変わりはないじゃない、陽の光も草木さえも)
暫く進むと左手に公園のような広場が開けてきた、そこでは人々が思い思いの方向に歩いていた。
二人はそれらに融け込むように歩き出す、芝は踝まであり柔らかく暖かかった、前方からランニング中なのか一人の男がこちらに向かって走ってくる、そして微笑みながら軽く会釈して通り過ぎた。
達也は男が通り過ぎる際 爽やかな風を感じた、現実に今 上級世界にいるんだと実感しまた上級世界人に認知された、そんな嬉しさを満面に信勝を見た。
信勝も同様に感じたのかニヤっと笑い 通り過ぎた男の後ろ姿を目で追った。
「この世界の人間は人が良さそうだね」達也は嬉しそうに信勝に囁いた。
「達也君、たった一人見て全てそうだとは言い切れないよ、現世だって善人も悪人もいるだろ、この世界だって同様さ…でも現世よりは善人は圧倒的に多いと前回は感じたけどね。
まっ、この上級世界は現世より文明は数百年も進み戦争も地域紛争もこの百年は無く人種差別も貧困もない、そんな完全なる共産主義世界なんだから人も自然と良くはなるのだろう。
昔、マルクスやエンゲルが夢見た貨幣のないユートピア世界、矛盾からの共産主義移行の原理の通り彼ら上級世界の人々は数百年かけて実践してきたんだ、そんな世界に悪人がはびこる陰は薄いのかもしれんがね」信勝はしたり顔で達也を見た。
「ユートピアか…そんな世界が本当に実現できるんだ、現世では封建社会から数段階の社会変遷を飛び越え独裁による共産主義社会の実現を果たしたロシアも中国も結局は失敗におわったよね…。
やはり矛盾淘汰による究極世界への変遷そして定着には数百年を必要とするんだ…」達也はその感慨に独りごちた。
「達也君あれが街に続く道だよ」信勝は指をさした、見ると舗装された道路が霞の彼方へと続いていた。
「変だね…空間移動できるのになぜ道路が必要なんだろう」達也は率直な感想を口にした。
「達也君、荷はどうするの まさか1tonの荷を担いで空間移動は出来ないだろ、後で見せるが飛翔機は有るが遠方輸送に限られ近場は荷下ろし容易な地上輸送機を現世と同様に運用しているんだ」
そんなものかと達也は思った、高度に文明や科学が進んでいるのなら荷の瞬間移動装置ぐらい有ってもよさそうなものをと、それでもこれから見聞きするであろう凄い科学技術へと心は馳せた。
達也は促されて道路際へと進んだ、信勝は道路際まで来ると道路の彼方に向かって思念を絞り始める。
(あの辺りにしようか…)信勝は声を発せず思念で移動先の映像を達也に送った。
(この場所って前にも来たことがあるの)と信勝に聞いた。
(うん、以前君に言ったと思うが上級世界に行く方法など教えてくれた爺様が住む街なんだ、この爺様ちょっとボケてるのか警戒心がなくていろいろ教えてくれたんだが…しかしあれから7年以上も経ってるということはこちらでは30年近くにもなる…もう生きてないかもしれんがね)
(30年前か…もし生きていたとしても完全に呆けてるだろ、でも消息を訪ねる形で近親者に接近出来るかもしれないね…)
(そう、手蔓無く行くより少しでも手掛かりがあった方が接近し易いよね…じゃぁ行くとするか)
二人は思念を絞った、その刹那二人の陰は道路際より消えていた。