第十三話
リビング南一面に嵌め込まれた大きなウィンドは沈みゆく夕日に彩られ真っ赤に染まりだした。
信勝はそのリビング中央に立つと達也に見えるように黒い棒片を胸の辺りにかざし頂部を廻した。
小さくカチという音に続き「ウィーン」というインバーター上昇音に似た電子音が鳴り始める、その音は次第に「ブーン」という空気を切り裂く振動音に変化していった。
3秒後、発する音は一気に高音へ変化し、突如 信勝を包む一条の青色リングが浮かび上がった。
達也は思わず「ウワッ」と声を発し数歩後退した、当の信勝も初めての経験なのか光るリングの中で戸惑った様に達也を見る。
青白く光るリングは「キーン」と高音に変化し破裂する様に上下に広がると一瞬で直径2mほどの光る球形と化した、この変化は棒先を捻って僅か数秒間の出来事だ。
耳鳴りに似た高音を発しながら光る球形はシャボン玉の如く表面を怪しげな虹色に変化させていく。
(なんて綺麗なんだ…)達也はその色の移り変わりに誘われるよう足を進めた。
「達也君!来るんじゃない」球形内の信勝は叫んだ、その声に驚き達也は足を止めた。
「今止めるからその場を動かないで」そう言うと信勝は棒片の先を左に回す、「キュン」と音が響き虹色の球形はフッと消えた。
「フーッ、緊張したぁ ほらまだ足が震えてる」そう言いながら信勝はリビング中央からふらついた足取りでソファに崩れた。
「達也君今の見ただろ…どう凄くなかった」
「うん、凄いと言うより綺麗だったね…でもあの光る球形は何なの」
達也は平静を装いながらも膝が震えていることに気付き苦笑しながらソファに座った。
「正直ビックリしたよ、聞いてた話しとだいぶ違ってたからね、それにしても凄い…こんな小さな棒片なのに」信勝は言いながら手に握った棒片を改めて見詰めた。
棒片は直径1.5cm長さは15cm程度の黒色棒、表面には艶があり両端はR状に丸められキャップ側には金色のクリップが光っている、まるで太めの万年筆と見紛うばかりの造りだ。
達也もテーブルに置かれた一本を手に取ってみた、そしてキャップを摘まむ…刹那 回したい誘惑にかられるが堪え、顔を近づけ隅々を観察しだした。
「万年筆にしか見えないのに…信勝さんここを廻すと球体が現れるんですよね、あれは何なんです」
達也はキャップに指をかけて信勝を見た。
「達也君…そこを回すときはくれぐれも周囲に人がいないことを確かめてからだよ」信勝は達也の指の所作を危うげに見ながら棒片の機能説明をしだした。
「この万年筆状の棒片はバリヤ発生器と言ってね…名は僕が勝手に付けたんだけど、なんでも最上級世界は大気汚染が酷く、また紫外線や宇宙線の放射量も上級世界の10倍以上あるらしい、どうもそれらより身を守る“遮蔽バリア”みたいなものらしいんだ。
だからこれを持たず最上級世界へ行くと短期で皮膚癌になるみたい、まっ放射線量も問題だけどそれよりも大気の方が酷いらしくこのバリアにはN2・77% O2・23%を大気より正確に抽出する交換膜のような機能も備わっているらしい、それと球形内の温度を一定に保つ機能もね」
「へーっ、こんな小さな物にそれほどの機能が…だけどこの棒片は爺様が最上級世界から持って来たというなら既に70年以上は経っているはず、それがいまだに機能するなんて…一体どんなバッテリーが入っているのやら」
「そうだね…バリア機能一つとっても、またバッテリーをとっても原理や機能を解明し量産したら億万長者も夢じゃないんだ」と冗談めかし信勝は微笑んだ。
「ほんとそうかもしれないね」達也はそれに真顔で返した。
その真顔の返答が面白かったのか信勝は「達也君は純粋でいい、そんな量産なんて面倒なことしなくても銀行か造幣局に空間移動し札束をごっそり頂いてくれば明日には億万長者だよ」
言いながら今度は声を出して信勝は笑い出す、それに対しキョトンとした顔で「それもそうだね」と達也は頷いた。
「まっ、冗談はこれくらいとしてこの本は何なんだ」言いながら信勝は頁をパラパラとめくった。
「どうも日記らしい…」頁内には所々に挿絵が描かれ矢印を引いて注釈らしき文章が書かれてあった。
「んん、読めないなぁ一体どこの文字なんだ」信勝は頁を開いたまま本を達也に渡した。
「日記みたいだね…しかし文字は見たことないな」達也は首を傾げながら頁をめくっていく。
暫くめくっていく途中 達也の手が止まった「あっ」と声を発し目を大きく見開いた。
「どうした」信勝がその目を覗き込む。
「ここを見て…」言いながら達也は本をひっくり返しその頁を信勝に見せた。
「あっ、それってこの棒片じゃない!」
手書きで描かれた挿絵は信勝がいじっている棒片そのものであった、その挿絵には棒片周囲に矢印が引かれ注釈も入っていた、またその絵の下には棒片の断面らしき挿絵も載っており同様に矢印と注釈が書かれてあった。
「信勝さん、棒片の機能が分かっていれば注釈から文字が多少なりとも解読できるかもしれない、日記風に描かれたものならまさか暗号なんか使ってないはず」
「んん、達也君いいとこに気が付いた、これはひょっとすると解読できるかも知れないよ…全部で4冊か、これらが解読できれば祖父等がなぜ現世に落ちたかが分かるかも、これはいい」
信勝は昂奮顔で他の本を手に取り頁をめくりだした。
それから2時間余り、2人はああでもないこうでもないと議論を繰り返しながらも さすが彼らである2冊分のおおよそを解読してしまった。
解読の手掛かりは注釈に連なった単語を系統的に集めたとき三つの子音が語根ではないかと着目、それに母音や接頭辞、接尾辞、接中辞が付いて語彙へと派生し形態論的には屈折語であるアラビア語に近い言語であることが分かった。
「達也君、工学は君の専門だから残りの解読は君に任せるよ、それとこのアイホンみたいな板片の機能も調べてみて、残りを解読すればひょっとして使用法が分かるかも知れないからさ」
「さてと…腹が減ってきたけど、何か旨いものでも作ろうか」
「いえ、今日は外食してくるとは妻に言ってませんから…そろそろ帰らなくちゃ」そう言いながら時計を見た、時間は7時を回っていた。
「何だ奥さんのことが気になるのか、そんな事じゃ上級世界なんぞいつまで経っても知覚できないかも知れんな、ところで上級世界は多少なりとも見えてきたのかい」
「まだ朧の域を出てませんが…最近目を凝らすとラピュタ世界の端に若干陰が混入する様にも見えるんです、たぶんあの陰が上級世界と感じているんですが…」
「んんもう少し時間がかかりそうだな、まっ僕とこうして頻繁に付き合うようになれば半年は係らないと思うが、因みに僕が上級世界を知覚したのは君がラピュタ世界という混血種集合世界を知覚して1年ほど経った頃だから…」
「そうですか…あと半年ねぇ、でっ信勝さん何度もラピュタ世界を訪れたと言ってましたが…あの衣装を着て行かれたんですか」達也は少しニヤついて聞いてみた。
「フフフッ、あの衣装ねぇ…やはり達也君もあの衣装には笑えますか、僕も最初は恥ずかしくてね妻や子には内緒で作ったんです、今はもう何年もクローゼットの奥で眠ってますが一度見てみます」
「いえ…いいです、僕も作りましたがまだ作ってからはラピュタには行ってないんです、正直着て行くには勇気がいりますよね」言いながらも笑いを噛み殺す達也である。
「達也君、あの程度で笑っちゃいけない、上級世界はもっと笑えるから」
「ええっ、あれ以上に笑える服って…やだなぁチンドンヤ屋じゃあるまいし、信勝さんもう作られたんですか」
「作りましたよ、恥ずかしながら 今度来たとき見せますよ…笑わんで下さい、3着も作ったから1着あげますよ、それも一番恥ずかしいやつを クククッ」
「いらないですよぉ、自分で作りますから…」
「そう言わんと貰っておきなさい、それとこのゴミは持って帰ってね」そう言うと信勝はセンターテーブル横に置いてある段ボール箱に棒片一本と板片一個、それと本4冊を戻して蓋を閉じた。
達也が立ち上がって段ボールを抱えると「今度はいつ来れるの」と信勝が聞いてきた。
「えーと今週は木曜に大学病院に納品がありますから…その日に寄りますか」
「あの新型MRIって君んとこが契約したんだってね、やるじゃない でも納品に社長が付いてくるなんて変わった会社だね」
「ええ、零細企業ですから…なんてね、出ることが好きなだけなんですがフフフッ」
「おやおや従業員はたまったもんじゃないねクククッ」
「さて帰ります、今度の木曜の夕方に信勝さんの研究室を訪ねますからよろしく」
そう言うと達也は南千住のコインパーキングに停めた車を想い起こし思念を絞った。
「じゃぁ」そう言うと達也はリビングから一瞬で消えた。
季節は春に入っていた、3月は期末の駆け込み受注と決算に追われ信勝にはとうとう会えずじまいだった、そのかわり先期の売上・収益は過去最高を記録し今期の資金繰りは多少なりとも改善出来そうである。
予想を上回る売上げは営業マンの努力もあったがネットでの査定や買い取りが各中小病院に普及してきた成果とも言えようか、ソフト更新の時は採算性を憂いたが取り越し苦労だったと今は言えた。
達也は会社が次第に強くなっていくことに嬉しさを覚える…しかし一方信勝の言う「上級世界を知ったら今やっていることが馬鹿馬鹿しくなるぞ」とその言葉が思い出された。
その言葉通り今年の2月信勝は大学病院を辞めた、理由は「つまらない」の一言であった。
去年までは仕事がつまらないと思っても中国吉林省での調査資金のため働かざるをえなかった…。
しかし中国吉林省での主目的である棒片は手に入いり、また祖父の日記から何故この現世に落ちたかの理由が分かって調査は無意味となった、彼の今の心は上級世界一色に染められているのだ。
彼は達也に会うたび上級世界は見えてきたかと聞く、そのたび「君一人で行けばいいじゃない」と達也は突き放すが…彼は一人で上級世界に行くのは心細いと応えた。
達也は今の会社経営にもやり甲斐は有り、妻や子も愛しい…出来ればこのまま現世で人生を終わってもいいとさえ思っている。
しかし心の奥ではそれを否定するもう一人の自分がいることも否めない。
今や現世に於いて信勝以外の誰と話しても面白くなかった、妻や子も例外では無い。
機器契約に一喜一憂し また資金繰りに悩む日々…その内会社もよくなるはずと努力はしているが 薄利改善の手立ても無く疲れたと感じるは日は少なくなかった。
あの封印した室温超伝導特願や棒片・板片を分解して得た超小型核融合ジェネレータ技術、また元素交換イオン膜や放射線バリアの技術は1国の経済さえ左右する未来技術…それを世に出せば資金繰りや薄利などとは一切無縁となるものを…。
(俺は一体何やってんだ…)
世に埋もれ家族との小さな幸せを甘受する生活で満足なのか…持てる能力を隠してつまらぬ現世の人々と生きていくことに何の意味があるんだ。
それよりも世界の経済を牛耳るほどの実業家として生きた方がどれほど面白かろう…。
期初めの4月、暇なせいも手伝ってか仕事の合間にそんな取り留めないことをボーッと考える達也であった。
4月の終わり信勝の母親が他界した、脳梗塞だったと葬儀の時に聞いた。
5月、彼は名古屋のマンションを引き払い実家の深川へ帰ってきた、彼は深川に戻ったのを機に達也への連絡はほぼ毎日様に頻度は上がり達也の家には10日毎に訪れるようになった。
正直達也は鬱陶しいと思うも毎日ブラブラ暇を持てあます信勝…就職先を見つけようかと聞くも、金は有るんだとそっぽを向いた。
確かに深川の300坪の閑静な地に豪邸を構え母親が残した財産は相当額に昇るらしい、また彼自身も20年勤めた病院の退職金やマンションを売った金、それに預金を合わせれば億を越える金は持っていると言っていた、そんな彼に「つまらぬ」という医療仕事を斡旋するもいらぬ話しで有ろうか。
5月終わりの日曜の午後、達也の部屋をノックする音…続けてドアの開いた。
「あなた…また信勝さんがみえてますよ」妻の志津江が明らかに迷惑顔に佇んでいた。
「又来たのか…まいったなぁ」達也は言いながらリビングに向かった。
「達也君久しぶり、お邪魔してますよ」そう言いながら信勝は無遠慮に茶を啜っていた。
「何が久し振りなもんですか、先週来たばかりじゃない」達也は露骨に嫌みを言ったつもりだが…いつもの如く彼には馬耳東風である。
志津江がリビングから出て行ったのを見届けると信勝は達也の横に座った。
「おい、準備が整ったと言うにいつまで待てばいいんだ、先日も言った通りほんの2・3日行くだけなんだから悩むことはなかろう」
「そうは言ってもこちらは君のようにブラブラしてるわけじゃないんだ、家や会社を三日も空けるってのはそんな簡単にはいかないよ」
「何言ってるの、期初めは暇だから4月か5月に行こうって年末君から言い出したことじゃない…じゃぁいつなら行けるの」
この台詞は今月に入ってもう3度目である。
去年の年末までは確かに上級世界に一度は訪れたいと信勝には言った、動機は父親を探したい それと上級世界の科学水準をこの目で見たいからである…しかし上級世界の時の流れは現世の4倍と知って動機は薄れた、もう父親が上級世界で生きているわけはないからだ。
現世の15年は上級世界では60年にもなり、60歳で失踪した父は120歳になろう、生きているとは到底思えない、それと信勝が以前言った上級世界から帰ったとき妻や子が路傍の石の如く見えたという率直な感想である。
上級世界より帰ると愛する志津江が犬猫と同類に見えるなど達也には我慢ならないこと、しかし反面上級世界や最上級世界の高度に進んだ文明や科学技術を目の当たりにしたいという願望は諦めたわけではない。
「信勝さん、何度も聞くようだけど2・3日ならあの世界に感化されるようなことは本当に無いんだね」
「君は何度聞いたら納得するの、感化が始まるのは僕の経験から7・8日、向こうでの時間なら1ヶ月以上経ってからと何度も言ってるじゃない、僕が保証するよ」
「じゃぁ君を信用して行ってもいいが…信勝さんが先日自分は現地に残るかもしれな言っていた事、あれはどうなの」
「いや、今回僕も2・3日行くだけさ、だって向こうに永住するなら現世の後始末をしなくちゃならんだろ、それに君を確実に奥さんの元に返さなくちゃ、今回の僕の目的は向こうで暮らすには何がいるかの調査なんだ、現世の金なんぞ持って行ってもどうにもならんし…例えば貴金属に変えて持って行った方がよいとか、まっ無理と分かれば永住は諦め現世で面白おかしく暮らすけどね」
「よし分かった、行こう そしてちゃんと向こうで暮らせるか信勝さんは調査して下さい、私は向こうの科学技術を見て回るから」
「よし これで決まったね、フーッ行くと決めてから半年近くも係るなんて…本当に君は優柔不断なんだから、でっいつ行こう」
「んん、今週は無理だから…来週のそうだな 火水木なら何とか都合を付けるよ」
「分かった、じゃぁ火曜の9時に深川まで来てよ、車は僕の家に停めておけばいいだろう、例の衣装は忘れないようにね、それと最上級世界には行かないけどバリア発生器は持って行こうか」
「ハーッ3日間か、上級世界だと12日間…んん会社と妻にはどんな口実で切り抜けるかだな、また会社には旅行で妻には出張と言うか、なんか悪いことしてるみたいで気が重い」
「クククッ俺には分からん悩みだな、おっともう帰るわ…奥さんどうやら御冠のようだから、じゃあ火曜にね」そう言うと信勝は達也の肩を叩いて立ち上がった。