第十話
季節は12月に入り北陸から北日本にかけ雪が降り続いているせいで東京も今朝の寒さは氷点下近くまで下がっていた。
達也は厚手のコートを着込んで家を出た、日比谷線 南千住から上野で乗り換え8時前に東京駅に着いた、途中の電車内は鮨詰め状態で東海道新幹線の19番ホームに立ったときは全身が汗に蒸され厚手のコートは無用の長物と化していた。
ホームは強いビル風に晒されていたが この寒さが今の達也には丁度良く15号車乗り口付近で蒸された体の火照りを北風に晒していた。
汗が急速に引いていく、すると想いは二日後に迫ったラピュタ世界への進入に想いは馳せる。
今週の初め会社に2日間の休暇をとることを告げ、また妻には一泊の東北出張と偽りを入れてラピュタへの進入準備は整った。
進入移動元は以前と同様 羽田国内線ターミナルの駐車場と決めている。
後は進入するのみと意気込んではいるが…不安は未だ払拭出来てはいない、一旦あの世界に踏み込めば二度と戻れない そんな想いに決心は揺らぎ 昨夜から怯えに似た気鬱に苛まれていた。
父が失踪してから15年が経つ、向こうの時間なら30年にもなろうか…今父がこの世で生きているなら75歳、あのラピュタの世界なら90歳にもなる計算だ。
もう生きてはいないのかもしれない、また生きていたとしてもあの世界から強制的に連れ戻すことは年齢からしても困難だろう。
ミイラ取りがミイラになる…そうなれば妻や子に今後苦難の生涯を強いることになろう、そう考えると決心が揺らぐのをとめようもなかった。
その時「お早う御座います」と後方より想いを打ち破る程の大声が掛かった、振り向くと営業1課の糸井係長である、彼は薄手のコートに身を包み大きな鞄を抱え息を切らし喘いでいた。
「糸井君、朝早くからご苦労様です それにしてもそんなに息を切らして…走ってきたのか」
「はい、途中事故があってバスが遅れたものですからもう焦りましたよ」
「そうか、それは大変だったな」と肩を叩きながら達也は時計を見た。
「発車までまだ10分ほどあるが…ドアが開いているから乗ろうか」
そう言うと糸井の背中を押して15号車に乗り込んだ。
今日は名古屋市千種区の得意先で中古MRIの契約が有り商用での名古屋出張であった。
通常なら契約出張は部課長クラスに任せるのだが、他に以前達也が高度医療機器を納入した瑞穂区の大学病院で新型MRIの更新引き合いが有ると聞きつけ、今日その病院の管理部設備担当長と面会がとれたため急遽の出張となったのだ。
新幹線のぞみは10時前に名古屋に着いた、二人は地下鉄東山線に乗り替えると五つ目の今池駅で降り地上へ出た、達也は少し歩いて太陽を仰いだ…陽の光は東京より幾分強く気温は5度ほど暖かいと感じ 薄手のコートで充分だったかと肩に掛かる重いコートを恨めしく思った。
千種区での契約は無事終わり得意先を出た、糸井係長は相変わらず大きな鞄を重そうに両手で持ち、先を歩く達也に遅れまいと必死についてきていた。
今池の大通りに出ると交差点角のポール上の時計が12時32分を表示していた、達也はこのまま大学病院に向かうかそれとも飯にしようかと歩道の赤信号で足を止め考えた。
このまま大学病院へ行き 以前入った病院横の店で旨かった味噌煮込みうどんでも食べようかと考える、そのとき歩道信号が青に変わった、達也は地下鉄桜通線に繋がる歩道を渡り出した。
名古屋の車道は広い、渡り終える頃には信号は点滅に変わっていた、車道を渡り終えた達也は糸井のことに気付いた、あれっと思い後ろを振り返ると彼はまだ横断歩道の中間辺りでジタバタしている。
(まったく…なにやってんのか)
点滅が赤に変わったときようやく糸井は渡り終え、息を切らして重そうな鞄を道路際に置いた。
達也はやれやれと思い 改めて糸井の足下に置かれた大きな鞄に見入る。
「糸井君、今日は日帰りのはずなのに…その大きな鞄には一体何がはいているんだ」東京を出るときから不審に思っていた鞄の中身を聞いた。
「えーと…新型MRIのカタログとかマニュアルとか…そうそう1/20のモデル模型も入っています」
息を整えながらコートの袖口で汗を拭き、かすれ声で答えると再び重そうに鞄を持ち上げた。
「MRIモデル…そんなものまで持ってきたのか、いやはや相手は素人じゃあるまいし…」達也は呆れ顔で溜息を漏らしながら歩き出す。
「私もそう思ったのですが課長が持ってけって言うもんですから…」糸井は荷の重さに絶えかねるのかふくれっ面で歩き出した。
「よし分かった飯にしよう 旨いものを食べさせるから機嫌を直せ」そう言うと交差点付近に香ばしい匂いを漂わせている鰻屋の汚れた暖簾を払い上げ糸井を押し込んだ。
地下鉄桜通線で桜山へ行き大学病院の入口をくぐった、約束の時間まで10分ほどあったが受付で応接の案内を請う。
応接間に通されると顧客4人の担当者は既に待ち構えていた、早速糸井は鞄から新型MRIモデルを取り出し応接机に置いた。
達也は構造や機能説明を一通り済ませると価格提示に入る、価格を聞いた顧客側はこちらの提示額に疑問を持ったのか4人は訝しげに小声で何やら話し始めた。
暫しの間を置き設備担当長が「この価格で御社は採算が合うの?」と疑問符で聞いてきた。
達也は「はい、新型と言えど新古品になりますからこの価格になります」と躊躇うこと無く応えた。
「ほーっ、もうこの型に新古品が出ているのですか…」と顧客担当者は驚いた様子。
「この型で新古品在庫を持ち整備を終えているのはうちくらいのもので、もうこれは新品と言っても差し支えないほど傷一つ御座いません」と達也は胸を張った。
「いまこの型で更新導入を考慮中なんだ、4時から指定業者とこの型の最終値決めが有りそのサービスや保証また提示価格次第で君の所に決めるかもしれん、せっかく来て貰ったが明日もう一度出直してくれませんか」との病院設備担当長の話で終わった。
3時半に大学病院を出た、明日10時に再度お伺いしますとは言ったが…今日の予定は価格を提示し その感触を探る程度のつもりであった、ゆえに一泊して最終交渉にまで及ぶとは思ってもみなかったのだ。
「うまくいけば瓢箪から駒だが…しかし一泊するとは思ってもみなかったからなぁ、明日はたしか売上会議が10時から予定されてたはず、んーまいったな」
達也は明後日にはラピュタ世界へ行く予定をしていた、今日の交渉で以降の日程がずれることを懸念したのだ。
「仕方が無い、明日の売上会議は午後に変更しよう」
そう糸井に言いながら達也は路上に立ち止まって会社に電話を入れた。
電話連絡を終えると再び歩き出す。
「糸井君、私はもう一日名古屋に留まるから君はここで帰って下さいな」そう言いながら糸井を振り返った。
糸井は相変わらず重い鞄を引きずるように苦渋に満ちた顔で付いてきていた。
彼は切れ切れに「こんな事もあろうかと…着替えを持ってきましたから…明日も御供させて下さい」
と返してきた。
達也はその応えを正直うっとうしいと思った、会話が聞き上手でも話し上手でもなく ただ元気なだけなこの若者と明日も同行するは気が滅入った。
あのラピュタの世界に行ってから達也は自分が変わってしまったことに気付いている、例えば社の者や友人らと語らっても以前とは違い全く面白味を感じず、また彼らの想いや考え方が聞く前から手に取るように分かった…その稚拙さにただ呆れ 気が滅入ってしまうのだ。
特にこの糸井という男、きょう半日程度の付き合いだが医療機器の知識は殆ど無く大学病院での交渉中は無言で通し とても営業に向いているとは思えなかった…また来るときの新幹線の中で5分ほど会話をしたがその後は話す気さえ起きず 彼の一方的なゲームソフトやブログの話しを延々と聞かされ ただうっとうしいと感じただけだった。
しかし達也はそんな想いが顔に出ぬよう「後は私一人で何とかなるから今日は帰って下さいな」と極力融和な表情で彼を諭し帰したのだ。
達也は渋々帰る糸井を見送ったあと病院前の交差点脇にあった喫茶店に入った、店員にコーヒーを注文し携帯サイトで近場のビジネスホテルを探し始めた。
ホテルはすぐに見つかり歩いて10分圏内に3ヶ所も有り、最も近いホテルは大学病院の裏手にあった。
予約を早速入れた、幸い空室が有りチェックインは3時と聞いて電話を切った、コーヒーを一口啜り喫茶店の壁に掛かった古時計を見る。
(まだ4時前か…早いな、これから栄まで出て錦三にでも呑みに行くか)
しかし思ってはみたものの栄まで行き一人で呑む気にはなれなかった、うっとうしくとも糸井を残すべきだったかと思ったがすぐに否定した(彼と呑んでもなぁ…やはり呑むのはやめよう、今日は大人しく早めに寝るとするか)そう思いながらコーヒーカップを口元に持って行った。
その時強い視線を感じ口元へ運ぶコーヒーカップが直前で止まった 達也はカップを持ったまま視線を感じた方を窺った。
すると視線先の人物は慌てたように新聞に視線を落とした。
あの男 確かに俺をみていたはず…達也はそう思いその人物を注視した、男の年齢は達也より若干年上に見え白衣を着ている、たぶん大学病院の関係者であろう。
達也はその男の顔を見ていておやっと思う、どこかで見た顔なのだ…。
幸い男の視線は紙面を見詰めているため遠慮無く観察が出来た、兄に似ている…しかし何度みてもどこで会ったかは思い出せなかった。
首を傾げながら再びコーヒーを啜る、カップを口から離したときまたもや視線を感じた。
達也は視線を上げて今度は遠慮無くその男の目を見詰めた、今度は視線が合った。
その刹那 胸がキュッと痛み…思わずあぁぁと声が漏れてしまった、向こうも同様なのか驚愕顔に目が大きく開かれ新聞を手から落とした。
暫く双方とも驚き顔で見つめ合う、この感情はどう表現したらいいのだろう、それはまるで異国の辺境で偶然通りすがりに親友に会う…そんな奇妙な感覚なのだ。
しかし双方見知らぬ仲なのは確かである…互いに見つめ合い絶えきれずに視線を落とした。
一体これはどうしたことか…余りにも懐かしい想いに心が震え次第に涙さえ溢れてきた。
涙が止めどもなくテーブルに落ちた、それに気付いて慌てて目頭をハンカチでおさえる、押さえた刹那その男をもう一度みた、男も同様に白衣の袖口で目を必死に押さえていた。
達也はそれを見て何かが弾けた、もう堪らず訳も分からずに男のテーブルに駆け寄り 声も掛けず対面する椅子に腰を掛けた。
腰を掛けると相手が涙を拭い終わるのを待って声をかけた。
「あのう…」そう言ってから声が続かない、何を言っていいのか分からなかった。
相手も同様で有ろう、しきりに何か言いたげにもどかしい視線で達也の顔を見詰めるばかりである。
しかし暫く見つめ合うと双方同時に笑みが零れた、暫しの見つめ合いで互いに全てを理解した…そんな奇妙な感覚だった。
達也は自然と手が動き男の頬を伝う涙を拭いた、男はその手を掴み達也を見詰めた。
声でなく心の会話とでも言うのか、あのラピュタで人々が口を開かず会話していた…それよりさらに数段高等な伝心感覚に互いの意識は脳に染み渡っていったのだ。
それから5分余り二人は声も出さず見つめ合った、そして最後に了解し手を握り合う。
この光景を他人が見たらどう映るだろう、気が付いたように達也は周囲を窺った 幸い二人を注視する客はいない、我に返れば感激の余り気色の悪い光景を演じたと顔が赤らみ二人は声を殺して笑い合った。
達也は男に促されるように携帯を取り出すと志津江に電話を入れた。
今日は名古屋で一泊すると伝え、続けてホテルに宿泊キャンセルの連絡を入れた。
二人は椅子から立ち上がりると男は会計で「チケット2枚切って下さい」と店員に言った。
店を出ると西に向かって暫く歩いた、異常と思えるほど心は浮き立っている。
今の感情をどう表現したらいいのだろう…異国の戦場で一人怯え戦っている所へ心強い同胞が加勢に現れた…そんな感じなのだ。
また男も同様であろう、感激を表現しているのかしきりに肩をぶつけてきた。
暫く歩いたところで人通りが切れた、男は辺りを窺うと右手に一人通るのがやっとという路地へ進入していく。
達也はその男の後を何の躊躇も無くついていった、路地を10mほど歩くと男が振り返り達也に目配せを送る。
達也がそれに笑顔で頷き男の手を握った、その瞬間 細い路地から二人の陰はふっと霞み、青白い光跡をほんの僅かに残し霧のように消えた。