第一話
逃げ水が熱く焼けた坂の中程でうごめいている、初夏とはいえ昼過ぎのこの時間は優に32度は超えていようと思った。
達也は逃げ水を見つめながらふと足を止める、一瞬そのうごめきに自然さが無いと思えたからだ。
(またか…)
達也は舗道横の薄汚れた電柱に片手を付きガーゼのハンカチで目に滲みる汗を拭い再び逃げ水を凝視した。
(やっぱりだ…)
達也は最近ある幻視に悩まされていた、この幻視は子供の頃から時折現れていた、しかし最近は週一程度とその症状は増してきている。
子供の頃は真夏に見る逃げ水が幻視の引き金になっていたが 30を過ぎたあたりより季節に関係なくこの幻視は頻繁に現れるようになってきた、それでもこの症状は昔から経験していることから自身では特に気にもとめず今日まで来たのだが…。
先週のことである、青田教授と二人で呑んでいるときこの幻視について初めて人に話した。
青田教授は初めのうちは和やかに笑いながら聞いていたが、話しが進むにつれ真剣な表情に変わり、酔い醒め仕草に目を擦って達也を凝視してきた。
「達也君 その症状は子供の頃からと言ったよね、その時ひょっとして頭痛とか吐き気は伴わなかったかね」
「うーん、子供の頃からだから これが自然と思ってましたから 特に体がどうとかはないんですよ」
「そうか子供の頃からだともう三十年以上もその症状は続いているのか…三十年ねぇ、それで体に変調はきたさないんだ。
まっ、問題は無いと思うが一度精密検査は受けておいた方がいいかもな、どう 来週にでもうちの病院においでよ目と脳を検査してみるから」
「えっ、目と脳ですか その検査痛くないのですか」
「まぁ直接触れるわけじゃなく ちょっとスキャンするだけだから痛くも痒くもないよ、しかし検査の結果 脳に少しでも異常が見つかったらすぐ手術するからね、覚悟はしておくことだな」
「もー教授ったら、脅かさないで下さいよぅ」
「何だ、君 手術が怖いのか」
「そりゃ怖いですよ、教授 脳の手術って危険が伴うって言いますけど どうなんです」
「うん、腫瘍の部位によってはね」
「えっ、腫瘍…僕の脳に腫瘍でも有るんですか」
「何とも言えないが、視神経かあるいは視覚を司る後頭葉又は側頭葉付近に腫瘍が出来るとその圧迫で幻視が起こるんだ、しかしまぁ30年も前からと聞いたからたぶん問題は無いと思うが…。
もし腫瘍だったら今頃こんな風に呑んではいられないさ」
「てっ、言うことは今頃は死んでるって事ですか…」
「うん、腫瘍が30年もそのままって事は…ちょっと無いからね」
「しかし希って事もあるから検査だけはしておこうよ」
「分かりました教授 ちょっと安心しました、手術って聞いたときはびっくりしましたけど…なんだか酔いが醒めちゃったな、さっ教授今夜はどんどん呑みましょよ きょうは僕のおごりですから」
「ふん、おごりって言ったって きみぃ場末の居酒屋じゃないか」
「はいはい、検査の結果が良かったら銀座にでも招待しますよ」
「そーかい、悪いね」
「しかし僕より教授の方が心配ですよ、医者の不養生って言うか片肺が無いんでしょ、それなのにさっきから立て続けにタバコに火を点けて」
「ふん、大きなお世話だ 君に言われんでも自分の体は熟知しとるよ」
「もー教授ったら、自分のこと言われるととすぐに怒るんだから」
そんな会話があってから一週間が過ぎた。
坂を上りきると深い緑が広がり、微風が山側に流れていた。
達也は背を伸ばす様に振り返ると今上ってきた坂道を見下ろした。
(下から見るのと違い、上から見下ろすとたいした坂じゃないんだ、しかしこんな坂で息切れするとは…やっぱり運転手は帰すんじゃなかったか)
達也は煙草をくわえ火を点けてしばし佇む、息切れは次第に収まり風になぶられた首筋の汗が少しずつ乾いていくのがわかる。
道の前方は森で塞がれたT字路となり、直角路側は車の往来の激しさが見て取れた。
達也は本来その直角路側より車で大学病院に直接乗り付ける予定をしていた、しかし直前に運転手に下道へ進路を変えさせ、用があると言い坂下で車を降り いぶかる運転手を帰した。
会社の者に何故か病院に行くことは知られたくなかった。
普段なら仕事でちょくちょくこの病院に来ることは周知だったが…この日は何故か抵抗感があった。
煙草の吸い殻を携帯灰皿に入れ再び歩き出す、路両側の生け垣の下に卯木の若葉が風に揺らいでいた。
この界隈は明治の初めは華やかだったと人づてに聞いたことがあった、しかし今の寂れ感の対比に時代の変遷を想った。
T字路に出た途端一気に喧騒が耳に飛び込んだ、大型ダンプが猛スピードで目の前を通り過ぎたのだ。
達也は感傷から現実に引き戻された感覚に軽い目眩を覚え無様な形に身構えたことを苦笑した。
森に沿って歩くと大学病院に繋がる横断歩道を見つけた。
達也はいつ変わるとも知れない歩道信号を待ちながらこれからの検査を想う。
(もし脳に腫瘍でも有り、それも手術摘出不能な部位で有ったなら…)
達也は教授に会った翌日ネットで幻視の事を詳しく調べた。
幻視・幻覚は麻薬などの服用、あるいは精神病や心的外傷後ストレス障害などといった特殊な状況でのみ起きるわけではなく 正常人であっても夜間の高速道路をずっと走っている時など刺激の少ない いわば感覚遮断に近い状態が継続した場合に発生することがある。
アイソレーションタンクのように徹底して感覚を遮断することでも幻覚が見られるとあったが 自分の場合はこのような特殊環境で起こるわけなく日常 自然に現れる。
また脳の器質疾患であるナルコレプシー、脳血管障害、脳炎、脳外傷、脳腫瘍、ある種のてんかん、痴呆なども考えられる。
一般的には幻覚剤、覚醒剤、大麻などの薬物乱用が最も多いとされるが 自分には全く身に覚えはなく行き着くところは脳腫瘍の可能性が最も自分の症状に合っていると思えた。
(中古医療機器販売の会社を立ち上げ5年、ようやく軌道に乗り利益も少しずつ確保できるまでになった今、これからのいうときにどうして…)
車のブレーキ音で達也は我に返った、前を見ると信号は青に変わっていた。
達也は暗い気持ちで前に歩み出た。
森の緑は青々と茂り自然は何もなかった様に日常を演出している、達也は頭を思い切り振り暗い想いを吹っ切る様に森境に繋がる大学病院の門をくぐった。
「社長、青田様から電話が入っておりますが」
達也はようやく来たかと暗い気持ちで受話器をとった。
検査から四日目、毎日暗い気持ちでこの検査結果を待っていたのだ。
息子は8歳、妻はとても会社を切り盛りできる性格ではなく達也は検査如何によっては会社をたたむことさえ考えていた。
「達也君、心配してたろぅ安心しな何もなかったよ」
「本当ですか、脳も目もですか」
「うん、きれいなもんだよ だけど面白いことが分かったんだ」
「えっ 何でしょう」
「君の脳、ちょっと変なんだ なんと容積が2100ccも有って脳のヒダが常人の倍以上も有るんだ、これはちょっとどころかそうとう異常だよね」
「それって病気なんですか」
「いや 病気じゃない、何というか前例が無いんだ 私もいろいろ調べたんだが内外のどんな学術書にも例が無くてね、どうだろう君の脳しばらく俺に預ける気はないかね」
「いやですよ預けるだなんて…物じゃあるまいし、病気じゃなかったらもう二度と検査なんかお断りですよ、僕の脳が大きかろうと皺が多かろうとほっといてください」
「まっ、そうだわな しかし研究の余地は有るんだがなぁ、しょうがないあきらめるか しかし銀座の件は忘れてないよな」
「はいはい覚えてますよ、どうです今夜にでも 今日は健康を祝して乾杯したい気分なんです」
「よっしゃわかった、夕方にでも電話をくれ しかしおしいなぁ君の脳」
その言葉で唐突に電話は切れた。
(頭が大きい…ふん ほっとけ、そう言えば学生時代 帽子のサイズが合わなくて困った事があったが、やっぱり俺の頭は異常に大きかったんだ、しかし病気じゃないのなら安心 やっぱり診て貰ってよかった。
あっ待てよ、幻視のことはどうなるんだ、何にも解決してないじゃないの、はーっやれやれ教授も早とちりなんだから、今夜にでも詳しく聞いてみるか)
八重洲を抜け車は銀座方向に向かう。
夕暮れどきの街の華やぎが今日はなぜか華やかに映り嬉しく感じる。
正直、達也は検査の日から昨日までの三日間は仕事も手に付かなかった。
それは検査中の出来事にあった。
検査の医師二人が目を丸くし深刻顔でモニターを指さし ひそひそ話をする光景を見てしまったのだ。
達也は帰りしなそれとなくその若い医師に「やっぱり何かが見つかったようですね」と聞いたら、曖昧顔で「検査結果は後日青田教授からお知らせがありますから」と慇懃に返された。
この日、達也は家までどうやって帰ってきたのかは覚えてはいない。
あの二人の医師の深刻顔がどうしても頭から離れなかったのだ。
妻が玄関に佇む達也の顔を見て「あなた…顔が真っ青よ、何か会社であったの」
その言葉しか覚えていない。
シティーバンク前で車を降り、運転手には「今日はもういいから帰って下さい」と言い車を降りた。
夕暮れに沈む辻を横切ってなじみの料亭に入る。
部屋に案内されたとき、教授はもう胡座をかいて所在なげに熱燗をやっていた。
「きみー遅いじゃないの、三十分も遅刻だぞ ちっとも来ないからしびれきらして始めてるよ」
「ごめんなさい、出しなに来客がありまして遅くなりました、仲居さん揃いましたからもう料理を出して下さいな」
達也は言いながら教授と対座に座り差し出されたおしぼりで手を拭った。
「早速用意を致します」と仲居が引っ込んだのを機に達也は身を乗り出し教授を見詰めた。
「教授、幻視のこと…まだ聞いていないんですが」
「おっと そうだったな…
すまん、その件はあれからいろいろ調べてみたが内的要因に依るものとしか…腫瘍でも有ればともかく人の心の中はいくら脳の専門医といえど見透かせんものよ」
「教授、そんな無責任な」
「そう言われると思ってな、ほら ここに紹介状を持ってきたよ」
青田教授はおもむろにスーツの内ポケットから一通の封筒を取り出した。
「東都大医学部の早坂教授・・君も一度は聞いたことが有ると思うが」
教授は言いながら封筒を達也の目の前に置いた。
「あの先生ですか…仕事がら名前だけは聞いたことがあります、何でも狷介孤高に過ぎ学部内や学会でそうとう嫌われ者だとか、あまりいい話は聞こえてきませんが」
達也は封筒を取り上げ裏返した、封筒の口はしっかり糊付けされていた。
「早坂教授はたしか君の父上と大学は同期のはず、天才肌というか昔から雑魚の魚と混じりせずという御人で儂も学会で数度お会いしたが正直言えば好かん。
しかし彼は君の父上だけは尊敬しとってな、何でも学生時代はいくら頑張っても君の父上の足下にも及ばんかったらしい、また大学院もその後の医学会でも君の父上は常にトップで彼は二番手、そんな経緯が彼を頑なにしたのか…まっ ぶっきらぼうで暗い性格の御仁よ。
じゃから好かんのかもしれんがの…ハハハッ」教授は酒が廻り始めたのか快活に笑った。
「教授、そんな先生は願い下げですよぅ、天才でなくてもいいですから他にはいないのですか」
「まっ、そう言うな 今日本では脳医学の最高権威と言われる程の先生じゃ、儂なんぞ逆立ちしてもあの御仁の足下にも及びはせん、だから君の脳の迷宮もきっと解いてくれるだろう」
酒を口に運ぶ教授の顔は笑っていたが目は笑ってはいなかった。
3日が過ぎた、東都大の早坂教授の診察予約は明日に迫っていた。
達也は朝から落ち着かなかった、診察の結果がもし最悪だったら そう考えるとまたもや仕事が手につかないのだ。
「社長、中古医療機器査定システムの更新の件でソフト会社から打合せの日取りを聞いてきたのですが…社長の御都合が宜しいのはいつでしょうか」販売3課の田所課長が聞いてきた。
達也の会社ではMR・MRI 超音波診断装置 内視鏡 X線機器 CTスキャナー 患者監視装置 生物顕微鏡 眼底カメラ SSP 分包機など、買取り価格をネットで無料査定するシステムを3年前より導入していた。
今回は無料査定のみに留まらず医療設備の撤去、面倒な手続き、買取証明書等の発行などトータルにサポートする事業方針を打ち出したためネットソフトの更新を急いでいたのだ。
「そうか すっかり忘れていたな、明後日の14時にしてくれるか、相手の都合を聞いておいて下さいな」達也は言ってから また金が係るな…と思った、しかし同業他社との差別化には必須、投資回収のフローが一瞬頭を過ぎった。
昼、達也は経理部長の太田と打合せを兼ねて昼食に出た、ビルを出た瞬間ムッとする熱気が全身を包む。
「くーっ、何と言う暑さだ まだ7月の終わりというに…8月になったらどんな暑さになるんだろう」
達也は独り言の様に言い舗道の前方を見た。
今日の逃げ水は揺らぎがいつもより大きかった、達也は無意識に目を懲らす すると逃げ水の下に黒い影がうごめくのが見える、それは人らしき影で三つの像が重なったり広がったり…達也らが近づくと今度は四つの像に増えた、まるで街頭を行き来する通行人の足下だけをピンボケのモノクロ8mmカメラで写した様に映像は荒かった。
逃げ水は路上に躍るシリンドリカルレンズに似ていた、見えもしない人の足元を蜃気楼の様に歪曲して映し出している、達也は何気なく隣を歩く太田部長に「今日は逃げ水がよく見えるが…太田君にはどんな風に見えているのかな」と聞いてみた。
太田部長はエッという顔で達也を凝視した。
「逃げ水って…真夏のアスファルトの路上なんかに見えるアレですよね、今どこかに見えるのですか」そう言うと太田はキョロキョロと周囲を見渡した。
「どこに見えるって…ほら前方に見えるじゃないの」
「前方、私には何も見えませんが…」
(やはりそうか あれは逃げ水なんかじゃないんだ)
「いや、消えてしまったな」達也は何も無かった様に歩き出した、太田は首を傾げながらその後に続いた。