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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

荒波を超えて

すごいどうでも良いですけど本当に25DDが初霜か時雨にならないかなぁ………

~北海道・東北戦争海戦録~


2016年某月某日

帝国重工長崎造船所

勇壮な行進曲(軍艦マーチ)が響く中、一昔前なら巡洋艦と言っても差し支えのない駆逐艦が船台を降りると海面へ躍り出た。その巨体を持つ駆逐艦は25CM、またの名を5000t型(Ⅱ)汎用巡洋艦と言い、北海道を取り戻すまで戦い抜いた駆逐艦の名を冠す船だ。そしてその光景をとある老人が眺めていた。

95になる男の名は竹原守。先代初霜であの戦争を戦った最後の1人だ。

「初霜か………懐かしいな」

彼はそう呟くと初霜乗員であるひ孫の竹原翔大尉達に自分の思いでを語り始める。初霜で過ごしたあの激闘の半年を……………


~~~~~~回想~~~~~~

昭和19年7月

対米開戦こそ回避したが、ソ連は盛岡以北を完全に占領。更には迎撃に向かった神重徳少将率いる新世代の重巡洋艦の嚆矢と言われた最上型重巡はソ連海軍の最新鋭巡洋艦に蹴散らされ、志摩中将の戦艦比叡、扶桑と妙高型重巡4隻も本土上陸阻止作戦の際に5隻のスターリングラード級巡洋戦艦と重巡7隻の撃ち合い末に、2隻を撃沈し、3隻を大破させるも2倍もの敵の前に志摩少将もろとも比叡は集中砲火の末に冷たい津軽海峡の底へ身を沈め、扶桑も1日中燃え続け、後を追った。

何とか中破で逃れた那智以外の妙高型が全て散ったのである。それ以外にも米空母を真似た空母ウラル、バイカルとの決戦、佐渡島沖海戦では容赦ない空襲によって我が空母赤城は蒼龍と共に南雲長官や神参謀ごと撃沈され、護衛の巡洋戦艦石鎚と重巡古鷹及び加古、軽巡那珂とその指揮下にあった第3水雷戦隊の駆逐艦子日や巻雲、秋雲に脱出する住民を乗せた輸送船も撃沈されてしまう前代未聞の大敗北を味わった。


私は第二水雷戦隊所属の初霜に配属され、第二水雷戦隊が大きな被害を被る能登半島沖海戦を経験するのであった。

昭和19年8月1日明け方

能登半島から数十㌔

朝焼けに染まる日本海で軽巡洋艦神通を旗艦とした第2水雷戦隊はこの日、定期的に出現するソ連潜水艦に備えて対潜哨戒任務に就いていた。

その中に私が乗艦する1700t型駆逐艦の初霜も含まれていた。

駆逐艦初霜艦橋

そこでは見張員や航海士たちはそれぞれの任務に就いていた。

『ソナー反応あり!』

伝声管を通じてソナー手の瀬田兵曹長が言うとすぐに艦長である西野猛夫少佐が「対潜戦闘用意!」と叫び「何としても輸送船団を死守しろ!」と続き、主砲から無電で『第1砲塔、射撃用意完了!』と報告をあげる。

すると水中から推進音が聞こえて来たとソナー員から報告が入り、艦長はすぐに面舵を命じ、初霜は回避運動へ入った。

と、同時にソナーは激しい波飛沫によって探知困難に陥った。

『こちらソナー。現在、海面上の飛沫によって探知困難です』とソナーが言うと間髪入れずに雪風の方から物凄い轟音が聞こえてきたのである。

「雪風被弾!」当時、兵学校を出たばかりで少尉だった私、竹原守は砲術員として見張りに就いていた。水柱が崩れ去った後に私が見たのは漂流する2000tの駆逐艦であった。

「ソナー?敵はどこだ?」

水雷長がそう言うと『2時の方角です!』とソナー手が言う。

すると艦長は「主砲対潜弾用意!」と言った次の瞬間だった駆逐艦荒潮に水柱が上がり、船体前部を破損した同艦は航行不能に陥る。だがソナー及びレーダーがそれぞれ、敵潜水艦を捉え、「見つけたぞ!……………主砲、撃ち方始めぇ!」と艦長が命じた次の瞬間、荒潮の救難中だった清霜に魚雷2発が命中。

清霜は一瞬にして全ての乗員を道連れに沈み、荒潮もそれに続いて沈んでいく。これが現実とは言え、僚艦を沈めた敵潜水艦に怒りがこみ上げてきた。

その数秒後、今度は敵潜水艦が潜んでいるとおぼしき海面の上に水柱が立ち上がる。

すると敵は水柱が崩れてからすぐに浮上し、こちらへ10㌢級単装砲を向けてきたので艦長は主砲に徹甲弾装填を命じた。

すると敵はこちらへ発砲開始。艦長はすぐに主砲の射撃命令を下し、4門の12.7㌢砲は一気に手負いの敵潜水艦へ追い討ちを仕掛ける。

すると砲弾が命中して艦橋が吹き飛ばされた敵潜水艦は大人しくなったかと思えば抵抗を続けてくる。恐らく政治将校の命令だから抵抗するのであろう。

私はあわれみを感じつつも砲撃継続命令を下す。そしてその命令によって2隻の友軍駆逐艦を沈め、1隻を大破に追いやった敵潜を海中へと葬りさった。

だが沈み逝く敵潜から浮かんできた兵士の私物である”家族との写真”を拾い上げた私は敵艦の乗員も自分と同じ兵士である以前に人間であることに気付かされた。そして伊崎少将は雪風を霞の護衛及び舞風の曳航で戦線離脱させるように命じた。


だが更なる試練が第2水雷戦隊に襲い掛かろうとしていた。

午前9時ごろ

「2時の方角に航空機とおぼしき反応あり!友軍識別装置への応答はありません!恐らく敵空母の攻撃隊です!」

電測員がそう言うと艦長は「主砲三式弾装填!…………対空戦闘用意!」と命じる。

すると艦内放送用の無線機に向けて砲術長が『対空戦闘用意!これは訓練に非ず!繰り返すこれは訓練に非ず!』と叫ぶ。

すると甲板各所の25㍉機銃や単装12.7㌢砲(第2砲塔)の代わりに装備された戊式40㍉4連装機関砲へ機銃要員が走る。

神通(旗艦)より発光信号!"各艦、輪形陣を崩し、之の字運動(ジグザグ航行)へ移れ!との事です!」そう見張りの兵曹長が言うと艦長は「初霜了解と打電!機関科には煙幕の用意をと伝えろ!」と言い、乗員たちは「了解!」と続く。


数分後、まず神通に主砲として新たに装備された長10㌢砲が火を噴き、続いて同じ砲を持つ秋月型駆逐艦3隻が火を噴く。

続いて響、初霜、若葉、時雨の装備する装填角度の自由化に伴う対空能力向上型である12.7㌢連装砲、通称"12.7㌢F砲"が火を噴く。そして上空では多数の三式弾(花火)が炸裂する。


そしてしばらくすると多数の機銃が火を噴き、濃密な対空弾幕(アイスキャンディー)を形成し敵を迎え撃つ。

絡め取られて墜落する機があれ

ば、それを越え、雷撃高度へ降りるものもあった。 そして我が初霜に向けて魚雷が放たれると艦長は急に面舵一杯を命じ、何とかそれをかわす。

そしてその攻撃機は上昇しようとするが、次の瞬間、我が艦の40㍉及び25㍉機銃が燃料タンクを貫いたのか、火を噴きながら艦の数十㍍手前に墜落した。

だが、秋月型駆逐艦新月は既に3本の魚雷で沈み、後に聞いた話だと旗艦神通も機銃掃射で艦長の本島了一大佐と伊崎俊二司令が負傷。更に幕僚1名が死亡し、2名重体、3名が軽い怪我を負い、艦橋員5名が負傷し、指揮能力を喪失したと言う。

そして時雨、若葉、響でもそれぞれ戦死者が発生。特に酷いのは響で、同艦は第2砲塔被弾に伴い、同砲塔及び第3砲塔弾薬庫へ注水、更には予備魚雷を破棄し、故に大きく戦闘能力が低下したのである。

正午過ぎてもインターバルをおきつつも5度に渡る空襲の末、最終的に神通、若葉が大破し、響が大破に限り無く近い中破の被害を負い、新月及び宵月、荒潮、清霜が沈没、奇跡的に我が初霜と時雨は無傷であった。

数日後、初霜が舞鶴へ戻ると湾内では傷付いた僚艦たちの周囲を工厰の船が動き回っていた。

そして、舞鶴港に降りると私は鎮守府本部に呼ばれた。

それは西田正雄中将座乗の第3艦隊旗艦の戦艦長門への転勤命令であった……………

そして横須賀へ転属する予定の初霜に乗り同地へ向かった。


10月22日

沖縄沖に西村祥治中将率いる戦艦大和以下同型艦武蔵、信濃、尾張で構成された第1戦隊と高雄型重巡洋艦4隻、第1水雷戦隊の旗艦である軽巡阿賀野と最新鋭駆逐艦島風、陽炎型駆逐艦陽炎、不知火、黒潮、浜風、谷風に朝潮型の霞、満潮からなる西村艦隊が呉を出撃。

佐世保からは山口多聞中将の旗艦で新生一航戦の旗艦、空母琉球を始め加賀、二航戦の飛龍に翔鶴、五航戦の瑞鶴、大鳳とその護衛の四航戦の旗艦、航空戦艦日向と伊勢が軽巡五十鈴と秋月型駆逐艦7隻と共に出撃し、横須賀からは旗艦を戦艦長門に置き、陸奥、姉妹艦の敵討ちに向かう金剛、霧島、榛名、山城の6隻の護衛の為に利根型重巡2隻に、新生第二水雷戦隊の旗艦である軽巡矢矧、駆逐艦は初霜を筆頭に、雷、電、舞風、時雨、五月雨、吹雪が出撃した。

10月23日

台南基地所属の天山(627空)が比島沖でソ連艦隊を捕捉。同機は空母モスクワ搭載のYak-3戦闘機に撃墜されるもその情報は西村連合艦隊司令長官にもたらされた。

無論、私、竹原守の乗る西田艦隊旗艦の長門にも伝わる。

すぐに3艦隊はそれぞれの作戦に備えた行動を開始する。

そして24日深夜、バルチック艦隊はついには台南沖へ襲来。

まずは一式陸攻による航空攻撃を敢行したが、8割未帰還の壊滅的打撃を被るも駆逐艦1隻撃沈の成果にとどまった。これを聞いた私に西田司令は山口艦隊の航空攻撃に合わせて第1、2水雷戦隊が敵艦隊の懐へ斬り込み、本隊は西村艦隊と合流して砲撃を開始。海空総攻撃を行うと伝えてきたのである。

24日明け方

大和に乗艦の西村祥治中将率いる第1艦隊とソビエッキー・ソユーズ乗艦のゴルシコフ少将率いるバルチック艦隊が遂に接敵、暁に染まる東シナ海で多数の鋼の巨龍がとらえあった。かくて3時間の砲戦の末、ソビエッキー・ソユーズ、尾張が炎上の末沈み、信濃、ソビエツカ・ルシア、ソビエツカ・ベラルシア及びウクライナが大破、旗艦大和と武蔵が大破に限り無く近い中破の被害を被ったのである。全ての高雄型重巡が大破の被害を被り、駆逐艦3隻が沈み、5隻と水雷戦隊旗艦阿賀野が大破する被害を被ったが、敵巡洋艦7隻は全て撃沈、駆逐艦3隻撃沈と3隻を大破させる被害を与えたのである。

一方、別動隊の2隻のスターリングラード級巡洋艦以下15隻のバルチック艦隊の別動隊は戦艦長門以下西田艦隊に捕捉されて壊滅的打撃を被り、山口少将の策略の前に空母機動部隊も翔鶴撃沈以外の成果をあげる事無く破れ去った。

だが、こちらも戦艦陸奥、金剛が大破し、榛名、霧島、長門が中破もしくは小破する被害を蒙り、駆逐艦5隻も大破するなど相応の被害を蒙った。

その数週間後、帝国陸軍は5個師団が壊滅的な打撃を蒙りつつも何とかソ連軍を撃滅することに成功し、停戦条約が米、ワシントンで締結された。

私は終戦後、帝国海軍が国防海軍に名を変えた後も勤務を続け、1954年には練習艦となった初霜の艦長を勤めた。そして1978年、海軍作戦本部長を勤めあげ退役した。そして私の思い出の艦、初霜は1971年に特務艦の任を解かれたが、江田島海軍兵学校付属の海軍精神を紹介する施設の一つとして永久保存が決定したのである。


~~~~~回想終了~~~~~

30分の話を終えた竹原守は静かに総員乗艦命令を下し、16名の女性隊員を含む160名近い乗員がタラップをかけ登り汎用巡洋艦初霜へと乗り込んだのである。


そして誇りと長い伝統を持つ軍艦旗(旭日旗)を掲げ、初霜は晴れて国防と言う長く厳しく、そして誉れ高く祝福された航海に出たのである。

最初の任務は原子力戦艦扶桑と共に米ハワイで実施される環太平洋合同軍事演習へ参加し、日米豪とマレーシア、シンガポール、ブルネイ及び英国の間で締結されている太平洋防衛条約加盟国軍と共に軍拡や他国とのトラブルの回数が著しいとある隣国に対する権勢の意味があった。


そしてその日、横須賀では戦艦信濃のヘリ甲板の旗竿から軍艦旗が降下され、72年に渡る長い航海(国防の任)を終えたのである。


だが、信濃はこの後、国防海軍の歴史を伝える博物館として横浜海軍第6港跡地に展示される事が決まっており、新たな道を歩もうとしていたのである。

25CM・汎用巡洋艦初霜

152m×17m、満載排水量7524t(米㌧、推測)、乗員142名

62口径12.7㎝砲(Mk-45Mod-4J)1基、324㎜短魚雷発射機2基

16連装垂直発射管1基(対空・対潜誘導弾搭載)、20㎜対空砲1基

SH-60J/K対潜ヘリシーホーク2機(必要時にはAH-64攻撃ヘリ1機搭載可)

統合電機推進、最高速力32kt、経済速力15kt、4580海里/17kt

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