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日常は日常であり、当然は当然であるからして、不可解なものはあまりに不可解であるということ

作者: みさき

 ひどく鬱屈した朝であった。何か病気をしているわけでも、怪我をしているわけでもない。生活が困窮しているわけでも、命に関わる重大な問題に悩まされているわけでもない。ただ鬱屈しているのだ。不快といえばこのうえなく不快だが、そうでもないといえばそうである。直接的で具体的な何かがどうした話であるというよりは、この何とも説明しようのないくしゃくしゃとした気分そのものが私を虚しくさせているのであった。ある意味でこれは痛みなのだと思う。痛みのようなものをともなう傷が、私にはついているのだと。外傷ならまだ良かった。わかりやすくて良かった。どこでどう痛みに打ちひしがれて生きれば良いのか、すぐにわかるというものだった。


 心というものは、この世の中の何物より厄介である。

 昨晩の私は、確かに何事もなかったのだ。人生を楽しむことには少しばかり不器用な性分だが、わが身の不幸を嘆く出来事があるでもなし、またそもそも己を不幸と思うでもなし。やけに広いこの家で一人きりのさみしさを感じる頃なども、とうに過ぎ去っている。目が利かぬ暗闇でも不自由なく灯りがつけられるくらいには馴染んでいる。見慣れた部屋が視界に広がったときも、安心があったわけでもなければこれといって耽る思いも浮かばなかった。

 仕事帰りに飲み屋で二、三杯ほど引っかけたので、少し酒が入っていた。元来さほど強い性質(たち)でもない。それでも、帰路につく頃にはほとんど醒めきっていた。


 郵便受けを覗いたのがいけなかったのだろうか。手紙の束が、ちゃぶ台の上で無造作に散らかっている。昨晩、放り投げた記憶がある。台の前に座って、それをざくざくと手でかき分けた。実家からのものと妹夫婦からのものは、そのまま脇にどけた。仕事に関係したものはすぐさま封を切って、特別たいした事柄は何も書かれていないということを確認した。ふと、同窓会の誘いのはがきが来ていたことを思い出した。どこへしまったのだっけ。だが、探そうという気にならない。

 不要なものはごみ箱に捨てた。手紙が底をついた。

 ごろりと横になって、見つめるともなしに天井を見つめる。そういえば、この家に住みついてから長いというのに、私は天井についたシミの数を知らない。不意にそんなことを考えて、ひとつひとつシミの数を目で追っていった。ばかばかしいことだとは思う。だが、その時には既に虚無は私を支配していた。からっぽの気持ちが心を満たすとは、何とも云いえて妙な感覚であった。


 二十を数えたろうか。そこまで到達しなかっただろうか。私はいつしか、昨日の夕立について考えていた。帰り支度を終えて、これから会社を出ようというときに降り出した雨だ。どうせすぐにやむだろう。帰りを急ぐ理由だって、私にはない。大粒のしずくが激しく地面を打つ音と、その中を走りすぎていく人たちがかき鳴らす水の音をぼんやりと聞いていた。


 あぁ、そうだ。あのときも何やら鬱屈した気持ちになったのだ。何かもやもやとしたものが感じられて、心中は不安定に揺らぎ始めていた。それはきっと雨音のせいなのだ。人波のせいなのだ。耳に入る水の音がどんどんと私を虚しくさせて、私の目の前を通り過ぎていく人の流れもまたそれに拍車をかけた。耳障りで、目障りで、もやもやの正体はまったくもって判然としないというのに、心の平静が侵されていくことだけははっきりと理解できた。いやだ、いやだ。だが、何をすることもできない。

 雨脚が激しさを増した気がする。これは何だ、何なのだ。思えば思うだけ私の気持ちはかき乱されていった。早くなる鼓動は広がっていく動揺を証明したが、気を紛らわせるには良い調べであった。どくどくと加速する脈動に集中すれば良い。しかし、雨の音が邪魔をするようにかぶさって聞こえない。


 私はついに流れの中に身を沈めたのだった。掻き消えた雨音。見えなくなった人波。私は一瞬だけ冷静になった。それからあとは、ひたすら走り続けた。


 どこをどう走ったかはさだかでないが、たどり着いた場所は見覚えのある駅であった。無意識のことだったが、習慣が私をそこに運んだのだった。屋根のある場所で、初めて私は濡れきった体を自覚した。じっとりとまとわりつく衣類の不快さはわかりやすくて、寧ろ具合が良い。


 記憶の蔓をするすると引きずり出して、不思議な感覚に見舞われたことを思い出した。あの何物とも表現しがたい鬱々とした感が、さも初めからないもののようにして消失したのだった。そのときの心情とは、どことなく虚無感にも似ていたように思える。だが、私を縛りつけていた悪念とは違い、妨げのほかに能のない荷をすっかり降ろして楽になったという心持ちであった。


――そうだ、そうだ。あれはそう、きっと違った。


 振り返ると、雨はまだやんではいなかった。思った以上の長雨である。改札をくぐる気にならず、そこから空を見上げた。降り注ぐその勢力は衰えてきていた。


 天井のシミが、私の目に甦った。なんだか雨によく似ている。また、気持ちが軽くなった。


 あれは降ってきていたのではない。私が空に向かっていたのだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 純文学らしい文体がよいと思います。あるものから別のものへ移っていく心の動きをうまく表現できていると思います。このような心のあり方、覚えがあるなあと思いました。 [一言] 自分の心の動きを、…
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