「君の代わりはいくらでもいる」と言われたので、王太子殿下のお仕事を全部お返ししました。今さら戻れと言われても、隣国の王弟殿下には私しかいないそうです
「君の代わりはいくらでもいる。勘違いするな」
婚約者である王太子アルフォンスの言葉に、エレノアは手にしていた書類から顔を上げた。
「……はい?」
「何度も言わせるな。君がいなくとも、私の仕事に支障はないということだ」
「……そうなのですか?」
エレノアは不思議そうに首を傾げた。
王宮の執務室。
机の上には、隣国アストレア王国との魔石購入契約書が置かれている。
エレノア・ベルフォード伯爵令嬢。
十八歳。
栗色の長い髪と澄んだ緑色の瞳を持つ彼女は、幼い頃から王太子妃となるための教育を受けてきた。
礼儀作法、語学、歴史、財政、外交。
王宮に出入りするようになってからは、アルフォンスの公務も手伝うようになった。
最初は簡単な書類の整理だった。
それがいつしか、会議の準備、各部署との調整、外交文書の確認へと広がっていった。
もちろん、すべて王太子の名のもとに行われている。
エレノアは、それでよいと思っていた。
将来の夫を支えることが、自分の役目だと考えていたからだ。
しかし。
「殿下。こちらの契約書には、少々問題がございます」
「またそれか!」
アルフォンスは露骨に顔をしかめた。
「君は本当に細かい女だな。私はこれほど有利な契約をまとめたというのに!」
「有利、でしょうか?」
「当然だ! 通常価格の半額で魔石を購入できるのだぞ!」
アルフォンスは得意げに胸を張った。
「しかも、大量購入だ! これほどの好条件を引き出した王太子が、過去にいただろうか!」
「……そうですね」
エレノアは契約書へ視線を落とした。
「ですが、第三条をご確認ください」
「第三条?」
「はい。購入した魔石を第三国へ転売することは禁止されております」
「それがどうした!」
「殿下は、購入した魔石を他国へ販売するおつもりだと伺いましたが……」
「そのとおりだ!」
アルフォンスは満足げに頷いた。
「半額で仕入れた魔石を、通常価格で売る。そうすれば、莫大な利益が得られるではないか!」
「……殿下」
「何だ?」
「それは、契約違反です」
「…………」
アルフォンスは目を瞬いた。
そして、盛大にため息をついた。
「エレノア。君は本当に商売というものを理解していないな」
「……はい?」
「安く買って高く売る! それが商売の基本だろう!」
「……それは、そうですが」
「ならば何が問題なのだ!」
「第三条に、転売してはならないと書かれております」
「細かいことを気にするな!」
アルフォンスは机を叩いた。
「そもそも、魔石は購入した時点で我が国のものだ! それをどう使おうと、我々の自由ではないか!」
「ですが、今回の魔石は、両国の友好関係に基づき、国内の産業振興を目的として特別価格で供給されるものです」
「……だから何だ!」
「国内で利用するのであれば問題ございません。ですが、第三国へ転売すれば、契約の目的そのものに反することになります」
「…………」
「それに、こちらの第八条には、違反した場合の賠償についても……」
「もういい!」
アルフォンスが声を荒らげた。
「君はいつもそうだ! 私が何かを成し遂げようとすると、必ず口を挟んでくる!」
「いえ、私は……」
「私の手柄が気に入らないのだろう!」
「……手柄?」
「そうだ! 自分の方が優秀だとでも思っているのか!」
エレノアは首を傾げた。
そんなことを考えたことは、一度もない。
ただ、契約書に問題があるから指摘しただけだ。
「殿下。私は、第三条と第八条の内容が……」
「しつこい!」
アルフォンスは勢いよく立ち上がった。
「いいか、エレノア! 君は自分の立場を勘違いしている!」
「……はい」
「王太子妃になる予定だからといって、何でも口を出してよいわけではない!」
「……はい」
「君がこれまで多少仕事を手伝ってきたことは認めよう。だが、君がいなくとも王宮は回る!」
「そうなのですね」
「そうだ!」
アルフォンスは満足げに頷いた。
「むしろ、君のような口うるさい女がいなくなれば、もっと仕事が円滑に進むだろう!」
「……なるほど」
エレノアは少し考えた。
そして、静かに書類を閉じた。
「では、今後は殿下の公務に口を出すことを控えさせていただきます」
「最初からそうしていればよかったのだ!」
「これまで私が担当していた業務につきましても、正式な担当者へお返しいたします」
「ああ、好きにしろ!」
「承知いたしました」
エレノアは立ち上がり、丁寧に一礼した。
「長い間、お世話になりました」
「……何?」
アルフォンスが顔を上げる。
しかし、エレノアはすでに扉へ向かっていた。
「おい、エレノア! どこへ行く!」
「文書管理室です。引き継ぎをしなければなりませんので」
「今すぐでなくてもよいだろう!」
「いえ。早い方がよろしいかと」
エレノアは穏やかに微笑んだ。
「殿下には、私の代わりがいくらでもいらっしゃるそうですから」
そう告げると、彼女は静かに執務室を後にした。
◇
エレノアには、一つだけ少し変わった才能があった。
一度読んだ文章を、ほぼ完全に記憶できるのである。
しかも、本人はそれを特別なことだと思っていなかった。
「読めば覚えられるのですから、便利ですよね」
それが彼女の口癖だった。
さらに困ったことに、エレノアは契約書や古い文献を読むことが大好きだった。
他の令嬢たちが宝石やドレスの話で盛り上がっているときも、彼女は古い条約集を眺めている。
新しい契約書を見せられれば、目を輝かせる。
そして、間違った数字や文言を見つけると、どうしても訂正したくなってしまう。
それが、アルフォンスには気に入らなかった。
もっとも、エレノア自身はそんなことに気づいていない。
「……さて」
文書管理室へ向かいながら、エレノアは小さく呟いた。
「これで、ようやく時間ができますね」
彼女には、以前から気になっていた本があった。
王都の古書店に入荷したという、百年前の外交条約集。
ずっと読みたかったのだが、公務が忙しく、なかなか買いに行けなかった。
「……まだ売れていないとよいのですが」
その表情は、婚約者に叱責された直後とは思えないほど明るかった。
◇
「……本当に、すべてお返しになるのですか?」
文書管理官ベルトランは、目の前に積まれた書類を見つめていた。
「はい。殿下から、公務に口を出さないようにとご指示をいただきましたので」
「ですが、エレノア様……」
「引き継ぎ資料はこちらです」
エレノアは分厚い帳面を差し出した。
「各部署の担当者、現在進行中の案件、過去の契約との関連、注意事項をまとめてあります」
ベルトランは帳面を開いた。
そこには、驚くほど細かい情報が整然と記されていた。
「……これを、すべてお一人で?」
「ええ。楽しかったですよ」
「……楽しかった?」
「はい。昔の条約を読み比べると、当時の外交事情が見えてくるのです。特に七十年前の北方通商協定などは、なかなか興味深くて……」
「エレノア様」
「はい?」
「……いえ。何でもございません」
ベルトランは深く息を吐いた。
彼は知っていた。
王太子の公務が滞りなく進んでいたのは、エレノアのおかげだった。
各部署から届く報告書を整理し、優先順位をつけ、過去の決定との矛盾を確認する。
その仕事を、彼女はほとんど一人でこなしていた。
「本当に、よろしいのですか?」
「はい」
エレノアは穏やかに微笑んだ。
「殿下には、私の代わりがいくらでもいらっしゃるそうですから」
「…………」
ベルトランは何も言えなかった。
◇
三日後。
「どういうことだ!」
王太子アルフォンスの怒声が、執務室に響いた。
机の上には、山のような書類が積まれている。
「なぜ、こんなに書類が多い!」
「これまではエレノア様が事前に整理されておりましたので……」
「またエレノアか!」
アルフォンスは苛立たしげに書類を放り投げた。
「たかが書類の整理だろう! 誰でもできる仕事ではないか!」
「ですが、殿下……」
「人を増やせ!」
「すでに三名増員しております」
「ならば五名だ!」
「……承知いたしました」
侍従長は深々と頭を下げた。
しかし、問題は人手の不足だけではなかった。
「殿下。財務局から、港湾整備費の支出について確認が届いております」
「港湾整備費?」
「はい。先週、殿下が承認された予算でございます」
「それがどうした!」
「同じ事業について、商務局からも別の予算案が提出されておりまして……」
「ならば、どちらかを採用すればよいだろう!」
「ですが、すでに両方とも承認されております」
「……何?」
アルフォンスは書類を見た。
確かに、二つの予算案には自分の署名がある。
「なぜ、こんなことになった!」
「以前は、エレノア様が各部署の申請内容を照合し、重複があれば事前に確認されておりましたので……」
「…………」
「それから、先月の通商会議で決定した関税率についても、商務局と外交局で認識が異なっております」
「……それもか!」
「はい。エレノア様が残された引き継ぎ資料には関連する過去の協定が記載されておりますが、確認に時間がかかっておりまして……」
アルフォンスは頭を抱えた。
書類を整理するだけではない。
各部署の決定を照合し、矛盾を見つけ、問題が起こる前に調整する。
エレノアは、そんな仕事までしていたのだ。
しかし、彼はそれを認めたくなかった。
「……とにかく、早く処理しろ!」
「承知いたしました」
侍従長は、疲れ切った表情で頭を下げた。
その日の午後。
今度は魔石管理局から、緊急の報告が届いた。
「殿下! 先日購入した魔石について、問題が発生しております!」
「問題?」
「はい。殿下のご指示で第三国へ転売した魔石について、アストレア王国から正式な抗議が届きました!」
「何だと!」
「第三国の輸入記録から、我が国が購入した魔石の転売が確認されたそうです」
アルフォンスの眉が動いた。
「……輸入記録?」
「はい。契約書の第三条に、第三国への転売を禁じる条項がございます」
「…………」
彼の脳裏に、数日前のエレノアの言葉が蘇った。
『購入した魔石を第三国へ転売することは禁止されております』
「……あれか」
「殿下?」
「……いや、何でもない」
アルフォンスは咳払いした。
「ならば、売ってしまったものは仕方あるまい!」
「……は?」
「すでに売ったのだろう! 今さらどうしろというのだ!」
「ですが、契約違反でございます!」
「細かいことを気にするな!」
アルフォンスは机を叩いた。
「それより、利益は出たのだろう!」
「……それが」
「何だ!」
「アストレア王国から、違約金の請求が届いております」
「……違約金?」
「はい。契約書の第八条に定められた金額でございます」
差し出された書類を見た瞬間。
アルフォンスの顔から、血の気が引いた。
「……なっ」
そこには、魔石の転売で得た利益をはるかに上回る金額が記されていた。
「こ、こんな金額、払えるわけがないだろう!」
「ですが、契約書に……」
「なぜ誰も教えなかった!」
「……エレノア様が、何度もご説明されていたかと」
「…………」
アルフォンスは言葉を失った。
◇
その頃。
エレノアは王都の古書店にいた。
「……ああ、素晴らしいです」
彼女は古い本を胸に抱き、うっとりとした表情を浮かべていた。
百年前の外交条約集。
ようやく手に入れることができたのである。
「こんなに保存状態がよいなんて……」
頁を開くと、古い紙の香りが漂った。
「……第三章も残っていますね」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
そのときだった。
「……相変わらずですね」
背後から、柔らかな声が聞こえた。
振り返ると、銀色の髪をした青年が立っていた。
澄んだ青い瞳。
整った鼻筋。
彫刻のように美しい顔立ち。
誰もが思わず振り返るほどの、美貌の持ち主だった。
「……リオネル殿下?」
「お久しぶりです、エレノア嬢」
青年は穏やかに微笑んだ。
リオネル・アストレア。
隣国アストレア王国の王弟である。
その美貌から、社交界では『氷の王弟』と呼ばれていた。
もっとも、その呼び名は容姿だけが理由ではない。
外交の場では常に冷静沈着。
滅多に感情を表に出さず、相手が誰であろうと態度を変えない。
そのため、他国の外交官からも一目置かれる存在だった。
国内外から婚約の申し込みが絶えないというのに、これまで一度も婚約したことがない。
浮いた話も、一切聞こえてこない。
それゆえ、令嬢たちの間では様々な噂が囁かれていた。
しかし、エレノアはそんなことを気にしたことがなかった。
「殿下も、古い条約集がお好きなのですか?」
「……え?」
「こちらです。百年前の北方通商協定が収録されているのですよ」
エレノアは嬉しそうに本を差し出した。
リオネルは一瞬、目を瞬いた。
それから、ふっと笑った。
「ええ。あなたがそんなに嬉しそうにしている理由が、少し分かった気がします」
「本当ですか!」
エレノアの表情が明るくなった。
リオネルは、その笑顔をしばらく見つめていた。
そして、懐かしそうに目を細めた。
「……昔も、そうでしたね」
「……昔?」
「覚えていませんか? 王宮の図書館で、初めてお会いしたときのことを」
「……ああ!」
エレノアは顔を輝かせた。
「もちろん覚えております!」
あれは、今から十年ほど前のことだった。
当時、リオネルは十歳。
エレノアは八歳だった。
外交使節として王宮を訪れたリオネルは、図書館で一人の少女と出会った。
それが、エレノアだった。
『殿下。その本、お好きなのですか?』
『……え?』
『古代王国の歴史です。面白いですよね』
『君も読んだことがあるの?』
『はい! でも、第三章に間違いがあるんです』
『……間違い?』
『ええ。あの戦争が終わったのは、百二十三年前ではなく、百二十四年前なんですよ』
『……どうして分かるの?』
『別の本に書いてありました!』
そう言って、少女は嬉しそうに話し始めた。
リオネルは、最初こそ驚いた。
しかし、いつしか夢中になって聞いていた。
それまで、彼に近づく者たちは皆、容姿や地位ばかりを褒め称えていた。
けれど、エレノアは違った。
彼が誰なのかよりも、どんな本を読んでいるのかを気にしていた。
それが、リオネルには新鮮だった。
それから外交使節として訪れるたびに、彼は図書館でエレノアを探すようになった。
何度か一緒に本を読み、様々な話をした。
そして、ある日。
『エレノア。君は将来、何になりたいの?』
『私ですか?』
『うん』
『……図書館で働きたいです!』
『図書館?』
『はい! 毎日、本を読めるでしょう?』
『……ふふっ。君らしいね』
リオネルは、今でもその笑顔を覚えている。
そして、いつしか彼女に惹かれていた。
けれど、エレノアにはすでに婚約者がいた。
王太子アルフォンス。
幼い頃から決められていた婚約だった。
だから、リオネルは何も言わなかった。
ただ、彼女の幸せを願っていた。
そして、他の女性との婚約話が持ち上がっても、どうしても気が進まなかった。
その理由を、本人が一番よく分かっていた。
「……懐かしいですね」
エレノアが微笑んだ。
「殿下とは、よく図書館でお話ししましたね」
「ええ」
「私、あの時間がとても楽しかったんです」
「……そうですか」
リオネルの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「私もです」
その言葉には、十年分の想いが込められていた。
しかし、エレノアは気づかなかった。
「ところで殿下。こちらの条約集なのですが……」
「……ふふっ」
リオネルは小さく笑った。
「ええ。ぜひ聞かせてください」
◇
古書店を出た後、リオネルはエレノアを近くの喫茶店へ誘った。
窓際の席に座ると、エレノアは嬉しそうに買ったばかりの本を取り出した。
「こちらの第四章なのですが、以前読んだ写本とは少し違っているのです」
「そうなのですか?」
「はい。おそらく、後世に書き写された際に……」
エレノアは楽しそうに話し始めた。
リオネルは、そんな彼女を微笑ましく見つめていた。
しばらくして。
「……ところで、エレノア嬢」
「はい?」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「今後は、どうなさるおつもりですか?」
「……今後、ですか?」
「ええ。公務から退かれたと伺いましたので」
エレノアは少し考えた。
「……そうですね。しばらくは本を読んで過ごそうかと」
「ふふっ。あなたらしいですね」
「ですが、ずっとそうしているわけにもまいりませんし……」
エレノアは小さく笑った。
「何か、自分にできることを探そうと思っております」
「……なるほど」
リオネルは静かに頷いた。
「でしたら、我が国で働いてみませんか?」
「……え?」
「実は、以前からあなたの知識を高く評価していたのです」
「……私の、ですか?」
「ええ。三年前の通商会議を覚えていらっしゃいますか?」
「……三年前?」
「北方の関税を巡って、両国の意見が対立したときのことです」
「ああ……!」
エレノアは頷いた。
「あのときは、五十年前の協定に記載された例外条項が問題になりましたね」
「ええ。双方とも、その条項が現在も有効なのか判断できずにいました」
「ですが、三十二年前の補足協定で、有効期間が延長されておりましたので……」
「そうです」
リオネルは微笑んだ。
「あなたがその補足協定を指摘してくださったおかげで、交渉を進めることができました」
「……そうでしたね」
「実は、あのときから我が国の外交局では、あなたの知識が高く評価されているのです」
「……そんな」
エレノアは驚いたように目を瞬いた。
「私は、ただ以前読んだ条文を思い出しただけなのですが……」
「それができる方は、そう多くありませんよ」
リオネルは穏やかに微笑んだ。
「我が国には、古い条約や協定を専門に扱う部署があります。あなたの知識は、そこで大いに役立つでしょう」
「……ですが、私はまだ……」
「ええ。分かっています」
リオネルは静かに頷いた。
「あなたには、まだ王太子殿下との婚約があります。今すぐどうこうという話ではありません」
「…………」
「ただ、将来の選択肢の一つとして、覚えておいていただければ」
エレノアは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
「いえ」
「そのように言っていただけるなんて、思ってもみませんでした」
リオネルは、少しだけ目を細めた。
「私は、あなたの才能を高く評価しています」
「……はい」
「ですが、それ以上に」
彼は言葉を止めた。
エレノアが不思議そうに首を傾げる。
「……殿下?」
「……いえ。何でもありません」
リオネルは小さく笑った。
「まずは、あなた自身が何をしたいのか、ゆっくり考えてください」
エレノアは、静かに頷いた。
◇
その日の夜。
アストレア王国の滞在公館。
「……女性への贈り物、ですか?」
側近のセドリックは、思わず聞き返した。
「そうだ」
リオネルは真剣な表情で頷いた。
「女性に贈るなら、やはり花だろうか」
「……殿下が、そのようなことをお尋ねになるとは」
「何か問題が?」
「いえ! 滅相もございません!」
セドリックは慌てて首を振った。
絶世の美貌を持ちながら、これまで一度も婚約したことのない王弟。
女性からの誘いは数えきれないほどあった。
しかし、リオネル自身が誰かに贈り物をしたいと言い出したのは、初めてだった。
「相手の女性は、どのような方で?」
「……書物を好む」
「では、珍しい本などはいかがでしょう」
「……なるほど」
リオネルは真剣に考え込んだ。
「王立図書館の蔵書目録を取り寄せよう」
「……殿下?」
「古い外交文書の写本もよいかもしれない」
「……一冊でよろしいのでは?」
「しかし、彼女は古い条約集を好むのだ」
「……そうでございますか」
セドリックは、しばらく主人を見つめていた。
そして、ふと思い当たったように口を開いた。
「……殿下」
「何だ?」
「もしかして、その女性というのは……エレノア・ベルフォード様でしょうか?」
「…………」
リオネルは黙り込んだ。
セドリックは、深く息を吐いた。
「……やはり」
「……何がだ?」
「殿下が、これまで国内外からの縁談をすべてお断りになっていた理由が、ようやく分かりました」
「……セドリック」
「十年でございますか」
「…………」
「ずいぶん長い片思いでございましたね」
リオネルは、静かに視線を逸らした。
その耳が、わずかに赤くなっていた。
セドリックは天井を仰いだ。
どうやら、王弟殿下の初恋は、なかなか前途多難らしい。
◇
数日後。
王宮では、アルフォンスが再び頭を抱えていた。
「なぜだ! なぜエレノアが来ない!」
「エレノア様は、すでに公務から退いておられますので……」
「呼べと言っただろう!」
「使者はお送りしました。しかし……」
「しかし、何だ!」
「現在はご自身の時間を大切にしたいとのことで、お断りになられました」
「なっ……!」
アルフォンスは椅子から立ち上がった。
「私の頼みを断るだと!?」
「……はい」
「婚約者のくせに!」
そのとき。
執務室の扉が開いた。
「アルフォンス」
国王だった。
「父上!」
「魔石契約の件について、報告を受けた」
「……!」
「エレノア嬢は、署名前に問題を指摘していたそうだな」
「それは……」
「なぜ確認しなかった」
「……些細なことだと思いまして」
国王は目を閉じた。
「些細なことか」
「…………」
「国家間の契約に違反し、莫大な違約金を請求されたことが、些細なことだと?」
アルフォンスは俯いた。
「……申し訳ありません」
「謝罪すべき相手は、私だけではない」
「……はい」
「アストレア王国との信頼関係を損なったことも重大だ。違約金を支払えば、それですべて済む問題ではない」
「…………」
「今後、魔石の供給条件が見直される可能性もある。国内の産業にも影響が出るだろう」
アルフォンスは、何も言えなかった。
「それから、エレノア嬢を公務から退かせたそうだな」
「……はい」
「代わりはいくらでもいると言ったとか」
「…………」
「ならば、なぜ今になって彼女を呼び戻そうとしている」
アルフォンスは答えられなかった。
国王は深くため息をついた。
「お前は、彼女が何をしていたのか、何も理解していなかったのだな」
「……父上」
「本日をもって、お前の外交に関する決裁権を停止する」
「なっ……!」
「今回の契約違反については、関係各局と協力して後始末に当たれ。ただし、すべての決定には宰相の承認を必要とする」
「……父上!」
「それから、しばらく公務の一部を離れ、契約と外交の基礎から学び直しなさい」
「……!」
「これは命令だ」
アルフォンスは、その場に立ち尽くした。
王太子という立場は変わらない。
しかし、自分の判断で進められる仕事は大幅に減り、失敗の後始末と勉強に追われることになった。
かつて、エレノアが当たり前のように処理していた仕事。
その一つ一つが、どれほど重要だったのか。
アルフォンスは、ようやく思い知らされ始めていた。
◇
翌日。
エレノアは、王宮へ呼び出されていた。
アルフォンスから、どうしても話があるという。
彼女は少し考えた末、応じることにした。
場所は、かつて何度も訪れた王宮の応接室。
アルフォンスは、落ち着かない様子で椅子に座っていた。
「……久しぶりだな、エレノア」
「ご無沙汰しております、殿下」
「その……最近はどうしている」
「おかげさまで、穏やかに過ごしております」
「そうか」
短い沈黙。
アルフォンスは視線を逸らした。
「……公務のことだが」
「はい」
「少々、問題が起きている」
「存じております」
「ならば話が早い。君にも戻ってきてもらいたい」
エレノアは静かに彼を見つめた。
「……戻る、とは?」
「以前のように、私の仕事を手伝ってほしいということだ」
「…………」
「もちろん、今回の件については、私も少し言い過ぎたと思っている」
少し。
その言葉に、エレノアは小さな違和感を覚えた。
「君の能力は認めている。だから、これまでどおり私を支えてくれればいい」
「……殿下」
「何だ?」
「申し訳ありませんが、お断りいたします」
「……何?」
アルフォンスは目を瞬いた。
「……今、何と言った?」
「公務への復帰は、お断りいたします」
「なっ……!」
アルフォンスが勢いよく立ち上がった。
「エレノア! 私の命令に逆らうつもりか!」
「殿下。私はすでに公務から退いております」
「何だと!」
「それに、今回の契約については、署名前に何度もご説明したはずです」
「黙れ!」
アルフォンスは机を叩いた。
「私に恥をかかせるつもりか!」
「……そのようなつもりはございません」
「もうよい!」
アルフォンスは顔を真っ赤にした。
「お前のような女、こちらから婚約を破棄してやる!」
「…………」
エレノアは、しばらく黙っていた。
幼い頃から、いつかこの人と夫婦になるのだと思っていた。
王太子妃になるために学び、彼の仕事を支えてきた。
それが、自分の役目なのだと信じていた。
けれど、不思議と悲しみはなかった。
ただ、もう自分の言葉が届くことはないのだと、少しだけ寂しく思った。
「……よろしいのですか?」
「当然だ!」
「承知いたしました」
エレノアは深く一礼した。
「では、父を通じて正式な手続きを進めさせていただきます」
「……は?」
アルフォンスは固まった。
「……待て」
「はい?」
「……なぜ、そんなにあっさりと……」
「殿下が、婚約を破棄するとおっしゃいましたので」
「…………」
「私も、これ以上殿下をお支えすることは難しいと感じておりました」
エレノアは静かに微笑んだ。
「ですから、そのお申し出をお受けいたします」
「……エレノア!」
アルフォンスが声を上げた。
しかし、エレノアはすでに立ち上がっていた。
「これまで、ありがとうございました」
そして、丁寧に一礼する。
「失礼いたします」
そのまま、応接室を後にした。
今度は、振り返らなかった。
◇
その日の夕方。
ベルフォード伯爵邸。
「……婚約破棄、だと?」
父であるベルフォード伯爵は、娘の報告に目を見開いた。
「はい。殿下から、そのようにお申し出がありました」
「……まったく、あの王太子は……」
伯爵は深くため息をついた。
「エレノア。お前はどうしたい?」
「……私、ですか?」
「ああ」
父は、まっすぐに娘を見つめた。
「王太子の言葉ではない。お前自身の気持ちを聞いている」
エレノアは、しばらく黙っていた。
これまで、誰かに自分の希望を尋ねられることは、ほとんどなかった。
王太子妃になること。
アルフォンスを支えること。
それが当然だと思っていた。
けれど。
「……お父様」
「何だ?」
「私は、婚約を解消したいと思っております」
伯爵は静かに頷いた。
「……そうか」
「はい」
「分かった」
父は、娘の頭を優しく撫でた。
「では、正式な手続きを進めよう」
「……ありがとうございます」
エレノアは、小さく微笑んだ。
◇
数日後。
国王は、ベルフォード伯爵を王宮へ招いた。
王太子アルフォンスの婚約破棄宣言について、正式に協議するためだった。
国王は、すでに一連の経緯を把握していた。
魔石契約の失敗。
エレノアへの暴言。
公務からの排除。
そして、婚約破棄の宣言。
「……まことに申し訳ない」
国王は、ベルフォード伯爵へ深く頭を下げた。
「息子の未熟さが招いたことだ」
「陛下……」
「エレノア嬢には、これまで多大な貢献をしてもらった。それにもかかわらず、このような結果になってしまった」
伯爵は静かに頷いた。
「娘も、長年殿下をお支えしてまいりました」
「ああ。承知している」
「ですが、今回の件で、娘自身が婚約解消を望んでおります」
「……そうか」
国王は目を閉じた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「分かった。婚約解消を認めよう」
こうして、エレノアとアルフォンスの婚約は、正式に解消されることとなった。
◇
数日後。
エレノアのもとへ、リオネルから贈り物が届いた。
「……まあ!」
箱を開いた瞬間、彼女は目を輝かせた。
中に入っていたのは、古い外交条約の写本だった。
しかも、百年以上前に作成された貴重なもの。
「……素晴らしいです!」
エレノアは思わず声を上げた。
「こんな貴重なものを……!」
同封された手紙には、丁寧な文字でこう記されていた。
『先日は楽しい時間をありがとうございました。あなたが興味を持たれていた時代の資料を見つけましたので、お贈りします。気に入っていただければ幸いです。リオネル』
エレノアは、何度も手紙を読み返した。
「……嬉しい」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
これまで、宝石やドレスを贈られたことはあった。
しかし、自分の好きなものを考えて選んでもらったことは、ほとんどなかった。
「……お礼をしなければ」
エレノアは机に向かった。
そして、丁寧に返事を書き始めた。
◇
数日後。
「……殿下」
セドリックが、恐る恐る声をかけた。
「何だ?」
「先ほどから、同じ手紙を何度もお読みになっておりますが……」
「……そうか?」
「はい。すでに七回目です」
「…………」
リオネルは静かに手紙を畳んだ。
その耳が、わずかに赤くなっていた。
手紙の差出人は、エレノア。
贈り物への礼状だった。
『素晴らしい写本をありがとうございました。特に第四章の条文は、以前から確認したかったものでした。殿下のお心遣いに、心から感謝しております』
リオネルは、小さく微笑んだ。
「……喜んでいただけたようだ」
「そのようでございますね」
「……そうか」
セドリックは、しばらく主人を見つめていた。
そして、意を決して尋ねた。
「殿下。失礼ながら……エレノア様に、想いをお伝えになるおつもりは?」
「…………」
リオネルは黙り込んだ。
「……それは」
「はい」
「……まだ、早いのではないだろうか」
セドリックは頭を抱えた。
どうやら、外交では一流の王弟殿下も、恋愛だけは初心者らしい。
◇
それからしばらくして。
ベルフォード伯爵家へ、一通の書状が届いた。
差出人は、アストレア王国の外交局。
エレノアを、外交顧問として正式に招聘したいという内容だった。
「……私を、ですか?」
エレノアは目を瞬いた。
「そうだ」
父であるベルフォード伯爵は、静かに頷いた。
「三年前の通商会議での働きも含め、お前の知識を高く評価していたそうだ」
「……そうなのですね」
「古い条約や協定を専門に扱う部署で、外交文書の確認や助言をしてほしいとのことだ」
「……なるほど」
エレノアは書状に目を落とした。
そこには、担当する業務や待遇について、丁寧に記されていた。
「もちろん、無理に引き受ける必要はない」
伯爵は、娘を見つめた。
「お前自身が、どうしたいかだ」
エレノアは、しばらく考えた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……お父様」
「何だ?」
「私、行ってみたいです」
「……そうか」
「はい」
エレノアは、手にしていた書状へ視線を落とした。
「自分の知識が、どこまで役に立つのか試してみたいのです」
伯爵は、嬉しそうに微笑んだ。
「分かった。では、返事を出そう」
「ありがとうございます」
エレノアは、深く頭を下げた。
◇
アストレア王国の王宮。
リオネルは、外交局から届いた報告書を読んでいた。
「……エレノア嬢が、招聘を受けてくださったそうです」
セドリックの言葉に、リオネルは顔を上げた。
「……本当か?」
「はい。正式な返答が届いております」
「……そうか」
リオネルは、静かに微笑んだ。
その表情を見て、セドリックは小さくため息をついた。
「……殿下」
「何だ?」
「それほど嬉しいのであれば、もっと素直に喜ばれてはいかがでしょう」
「……十分、喜んでいるつもりだが」
「……左様でございますか」
セドリックは、そっと視線を逸らした。
どうやら、王弟殿下の恋は、まだまだ前途多難らしい。
◇
それから数週間後。
エレノアは、アストレア王国へと渡っていた。
外交顧問として迎えられた彼女は、王宮の執務室で新しい仕事に取り組んでいる。
「エレノア様。こちらの協定案ですが……」
「ええ。確認いたしますね」
差し出された書類に目を通す。
「第三条については、五年前の協定と関連があります。こちらも確認した方がよろしいかと」
「なるほど! ありがとうございます!」
若い官僚が嬉しそうに頭を下げた。
エレノアは微笑んだ。
以前と同じように仕事をしている。
けれど、ここでは自分の名前で意見を求められる。
そして、自分の仕事に対して感謝の言葉が返ってくる。
「……エレノア嬢」
聞き慣れた声に振り返ると、リオネルが立っていた。
「殿下。どうなさいました?」
「仕事は順調ですか?」
「はい。皆様に助けていただいております」
「それはよかった」
リオネルは微笑んだ。
「ところで、今日はもう仕事を終えてもよい時間では?」
「え?」
エレノアが時計を見ると、確かに終業の時間を過ぎていた。
「……あら」
「また夢中になっていたのでしょう」
「申し訳ありません」
「謝ることではありませんよ」
リオネルは楽しそうに笑った。
「ただ、あなたには仕事以外の時間も楽しんでいただきたいのです」
「仕事以外の時間……」
「ええ」
彼は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「もしよろしければ、今夜は私と食事をご一緒していただけませんか」
エレノアは目を瞬いた。
「……私と、ですか?」
「はい」
「外交についてのご相談でしょうか?」
「……いいえ」
リオネルは首を横に振った。
「仕事の話は、今夜はなしです」
「では……」
「あなたと、ゆっくり話がしたいのです」
エレノアは少し考えた。
そして、ふと気づいた。
リオネルは、いつも自分の話を楽しそうに聞いてくれる。
古い条約の話も。
難しい契約書の話も。
誰も興味を持たなかったような話でさえ。
彼は、一度も退屈そうな顔をしなかった。
「……殿下」
「はい?」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「……どうして、私なのですか?」
リオネルは目を瞬いた。
そして、少しだけ困ったように笑った。
「……ようやく、聞いてくださいましたね」
「え?」
「私は、あなたが好きなのです」
「…………」
エレノアは固まった。
リオネルは、まっすぐに彼女を見つめていた。
「初めてお会いしたときから、あなたは他の方とは違いました」
「……それは、契約書の間違いを指摘したからでしょうか」
「ふふっ。そうですね。それもあります」
リオネルは小さく笑った。
「ですが、それだけではありません」
彼は静かに言葉を続けた。
「あなたは、誰かの地位や容姿ではなく、その人自身を見ようとする方です」
「…………」
「そして、どんなに小さなことにも真剣に向き合う。好きなものを語るときには、子供のように目を輝かせる」
エレノアの頬が、少しずつ赤くなっていった。
「私は、そんなあなたが愛おしいのです」
「……殿下」
「もし、あなたがよろしければ」
リオネルは、そっと手を差し出した。
「これからは、仕事のためではなく、私自身のために、あなたと時間を過ごしたい」
エレノアは、その手を見つめた。
これまで、誰かに必要とされることが、自分の価値だと思っていた。
王太子の婚約者として。
公務を支える者として。
役に立つことが、自分の存在理由だと思っていた。
けれど。
目の前の青年は、違う。
仕事をしていない自分でもよいと言ってくれる。
古い本を読んで喜ぶ自分を、楽しそうに見つめてくれる。
そして、自分自身を好きだと言ってくれる。
「……私も」
エレノアは、小さく呟いた。
「殿下と一緒にいる時間が、とても好きです」
リオネルの表情が、わずかに変わった。
「……本当ですか?」
「はい」
エレノアは微笑んだ。
「殿下は、私の話をいつも楽しそうに聞いてくださいます。それが、とても嬉しくて……」
少しだけ、頬を染める。
「……もっと、殿下とお話ししたいと思っています」
リオネルは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、心から嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
エレノアは、差し出された手をそっと取った。
その瞬間。
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
これが、恋というものなのだろうか。
まだ、よく分からない。
けれど。
この人と一緒にいたい。
そう思う気持ちだけは、確かだった。
◇
その日の夜。
王宮の廊下を歩くリオネルは、珍しく上機嫌だった。
「……殿下」
セドリックが声をかける。
「何だ?」
「……本日は、何かよいことでも?」
「……そう見えるか?」
「はい。非常に」
リオネルは少しだけ考えた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ああ」
セドリックは目を瞬いた。
「……まさか」
「エレノア嬢が、私と一緒にいる時間を好きだと言ってくれた」
「……!」
セドリックは思わず足を止めた。
「……殿下!」
「何だ?」
「それは、おめでとうございます!」
「……ありがとう」
リオネルは少し照れたように笑った。
その姿を見て、セドリックは深く息を吐いた。
外交では決して隙を見せない王弟殿下。
その殿下が、たった一人の令嬢の言葉に、これほど嬉しそうな顔をするとは。
「……ところで、殿下」
「何だ?」
「次は、婚約のお申し込みでしょうか?」
「…………」
リオネルは足を止めた。
「……まだ、早いのではないだろうか」
「…………」
セドリックは天井を仰いだ。
どうやら、王弟殿下の恋は、まだまだ前途多難らしい。
◇
数ヶ月後。
アストレア王国の王都では、一つの噂が広まっていた。
これまで誰とも婚約せず、浮いた話一つなかった『氷の王弟』が、ある令嬢に夢中になっているという。
しかも、その相手は隣国から招かれた外交顧問。
古い条約集を読むことが大好きな、少し変わった令嬢らしい。
王弟は、彼女のために珍しい書物を集め、仕事が終われば迎えに行く。
そして、二人で王都の古書店を巡る姿が、何度も目撃されていた。
社交界の令嬢たちは、驚きを隠せなかった。
けれど、当のエレノアは。
「……殿下。こちらの条約なのですが」
「ええ」
「百年前の協定と、少し違うところがありまして……」
「……そうですね」
「ご存じでしたか!」
嬉しそうに目を輝かせていた。
リオネルは、そんな彼女を愛おしそうに見つめる。
「……エレノア」
「はい?」
「今日は、少しお付き合いいただきたい場所があるのです」
「……場所、ですか?」
「ええ。仕事の話は、ひとまずここまでにしましょう」
「……あら」
エレノアは時計を見た。
いつの間にか、終業の時間を過ぎている。
「申し訳ありません。また夢中になってしまいました」
「ふふっ。構いませんよ」
リオネルは微笑んだ。
「それでは、参りましょうか」
「はい!」
エレノアは嬉しそうに本を閉じた。
◇
リオネルに案内されたのは、王宮の奥にある大きな建物だった。
高い天井。
壁一面に並ぶ書棚。
天窓から差し込む柔らかな光が、整然と並んだ無数の書物を照らしている。
「……まあ!」
エレノアは思わず声を上げた。
「ここは……!」
「王立図書館です」
リオネルは微笑んだ。
「以前から、あなたをお連れしたいと思っていたのです」
「……素晴らしいです!」
エレノアは目を輝かせた。
古い歴史書。
外交文書。
何百年も前の条約集。
どれも、彼女が一度は読んでみたいと思っていたものばかりだった。
「……殿下! あちらの書棚には、建国当時の記録があるのですか?」
「ええ」
「では、こちらは?」
「歴代の外交協定をまとめたものです」
「……まあ!」
エレノアは嬉しそうに書棚を見渡した。
「こんなにたくさんの本が……!」
その姿を、リオネルは静かに見つめていた。
十年前。
初めて出会った王宮の図書館でも、彼女は同じように目を輝かせていた。
あの頃から、何も変わっていない。
本が好きで。
知らないことを知るのが楽しくて。
誰よりも嬉しそうに、古い文献を眺めている。
「……エレノア」
「はい?」
彼女が振り返った。
リオネルは、少しだけ緊張した面持ちで口を開いた。
「昔、あなたが私に話してくださった夢を、覚えていますか?」
「……夢、ですか?」
「ええ。図書館で働きたいと」
「……ああ!」
エレノアは微笑んだ。
「もちろん覚えております。毎日、本を読めると思っていたのです」
「ふふっ。そうでしたね」
リオネルは小さく笑った。
「実は、あのときから、ずっと考えていたことがあります」
「……何でしょう?」
リオネルは、静かに彼女を見つめた。
「あなたと、もう一度あのような時間を過ごしたいと」
「…………」
「一緒に本を読み、あなたの好きな話を聞いて、何でもないことで笑い合う。そんな日々を、ずっと願っていました」
エレノアの胸が、小さく高鳴った。
「……殿下」
「ですが、あなたには婚約者がいました。だから、その願いは胸の内にしまっておくつもりだったのです」
リオネルは、少しだけ微笑んだ。
「けれど、今は違います」
そして、彼女の前に片膝をついた。
「……え?」
エレノアは目を見開いた。
リオネルは、小さな箱を取り出した。
中には、青い宝石をあしらった指輪が収められている。
「エレノア・ベルフォード嬢」
「……は、はい!」
「私は、あなたを愛しています」
その声は、静かだった。
けれど、少しだけ震えていた。
「あなたの知識も、才能も、もちろん素晴らしいと思っています。ですが、私が愛しているのは、それだけではありません」
「…………」
「本を読んで嬉しそうに笑うあなたも、仕事に夢中になって時間を忘れるあなたも、困ったときに首を傾げるあなたも」
リオネルは、まっすぐに彼女を見つめた。
「私には、あなたしかいないのです」
エレノアの瞳が、大きく揺れた。
かつて、自分の代わりはいくらでもいると言われた。
それが、どれほど寂しい言葉だったのか。
今になって、ようやく分かった気がした。
目の前の青年は、違う。
自分の仕事ができる誰かを求めているのではない。
自分自身を、選んでくれている。
「……エレノア」
リオネルは、優しく微笑んだ。
「私と、結婚していただけませんか?」
「…………」
エレノアは、しばらく言葉を失っていた。
そして。
「……殿下」
「はい」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……もちろんです」
リオネルの表情に、わずかな緊張が走った。
エレノアは、真剣な顔で尋ねた。
「結婚した後も、こちらの図書館を利用してよろしいのでしょうか?」
「…………」
リオネルは目を瞬いた。
そして、思わず笑ってしまった。
「……もちろんです」
「本当ですか!」
「ええ。毎日でも」
「……まあ!」
エレノアの表情が、ぱっと明るくなった。
けれど、すぐに何かを思い出したように頬を染めた。
「……あっ」
「……エレノア?」
「申し訳ありません。大切なお返事をする前に、本のことばかり……」
「ふふっ。構いませんよ」
リオネルは優しく微笑んだ。
「それも、あなたらしいところですから」
エレノアは、しばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
小さな声だった。
けれど、今度は迷わなかった。
「私でよろしければ、喜んで」
リオネルの表情が、驚きに変わった。
「……本当ですか?」
「はい」
エレノアは微笑んだ。
「私も、殿下と一緒にいたいです」
そして、少しだけ恥ずかしそうに続けた。
「本を読んでいるときも、お仕事をしているときも。それから……何もしていないときも」
リオネルは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、心から嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
彼は、そっとエレノアの左手を取った。
その指に、青い宝石の指輪をはめる。
エレノアは、指輪を見つめた。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
リオネルが立ち上がる。
「……エレノア」
「はい?」
「これからも、よろしくお願いします」
「……はい!」
エレノアは、満面の笑みを浮かべた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします!」
◇
その日の夜。
アストレア王国の王宮。
「……殿下!」
セドリックが、珍しく大きな声を上げた。
「本当でございますか!?」
「ああ」
リオネルは、穏やかに微笑んだ。
「エレノアが、求婚を受け入れてくれた」
「……おお!」
セドリックは、思わず天を仰いだ。
「……ようやく!」
「……ようやく?」
「いえ! 何でもございません!」
セドリックは慌てて姿勢を正した。
「心より、お祝い申し上げます!」
「ありがとう」
リオネルは、嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見て、セドリックは深く息を吐いた。
外交では決して隙を見せない『氷の王弟』。
そんな殿下が、たった一人の令嬢のことで、これほど幸せそうな顔をする。
十年もの間、胸に秘めていた想い。
ようやく、その恋が実ったのだ。
「……ところで、殿下」
「何だ?」
「婚礼の準備は、いかがいたしましょう?」
「……そうだな」
リオネルは少し考えた。
「まずは、エレノアの希望を聞こう」
「承知いたしました」
「彼女の好きなものを、できる限り取り入れたい」
「……はい」
「そうだ。婚礼の記念に、珍しい書物を贈るのはどうだろう」
「…………」
セドリックは、ゆっくりと目を閉じた。
「……殿下」
「何だ?」
「どうか、婚礼衣装のこともお忘れなきようお願いいたします」
「……ああ、そうだったな」
リオネルは、少し照れたように笑った。
セドリックは、深くため息をついた。
どうやら、王弟殿下の恋が実っても、苦労はまだまだ続きそうだった。
――おしまい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
契約書を読むことが大好きなエレノアと、十年間ずっと彼女を想い続けていたリオネルのお話でした。
少し変わった二人ですが、これからも古い本に囲まれながら、幸せな日々を過ごしていくのだと思います。
少しでも「面白かった」「エレノアが幸せになってよかった」と思っていただけましたら、評価や感想をいただけると、とても励みになります。
お読みいただき、本当にありがとうございました!




