星が墜ちるまで
ふわっとした世界観設定ですがお読みいただけると嬉しいです。
※ハッピーエンドではありません。結末にご注意ください。
明かりの消えない不夜城は、いつだって不気味に歪んでいた。
立ち並ぶ高層ビルの隙間を這い回る魔物と、それを狩る人間たち。現実の輪郭が曖昧なこの都市で、ステラは第9部隊の隊長として生きていた。……前世で画面越しに遊んでいた『ゲーム』の世界で。
ゲームの知識があるからこそ、彼女は誰よりも冷静に、死線を取り仕切ることができた。
「ステラ隊長」と部下に慕われ、上層部からも一目置かれる存在。だが、ステラだけが知っている残酷な事実があった。
この世界の『本編』に、ステラという名の隊長は存在しない。
魔物が空から雨のように降り注ぐ『流星事件』。物語が大きく動き出すその日、自分は命を落とす。最初から決まっていたシナリオ。変えられない結末。
(だから……これ以上、あの人を好きになってはいけない)
第3部隊を率いる男、アル。
金髪に近い色素の薄い髪は肩口で無造作に揺れ、その隙間から覗く青い瞳は、いつも気怠げで、けれど射抜くように鋭い。制服の襟元を緩め、隊長という重い肩書きを軽くいなす男。好物のホワイトチョコを指先で折る仕草すら、嫌になるほど洗練されていた。
「隊長らしくない」と噂される彼は、ただそこに立っているだけで周囲の視線を奪っていく。そして——ステラの心すらも。
作戦会議が終わった夜、二人は決まって本部の屋上に並んで立った。
ビルの群れから吹き上げる生ぬるい風の中、アルはポケットから小さな板チョコを取り出し、パキと音を立てて半分に折る。
「ほら、ステラ。ちゃんと糖分補給しなよ。真面目すぎる頭がパンクしちゃうぞ」
「また余りもの?」
「まさか。君にあげるために買ってきたんだよ」
アルは当たり前のように彼女の肩に腕を回し、自分のほうへぐっと引き寄せた。
密着する体温。彼の服から漂う香水と、甘いチョコレートの匂い。ステラの心臓が、痛いほど跳ね上がる。差し出されたホワイトチョコレートを口に含むと、まろやかな甘さが舌の上で溶けた。
「ステラは肩の力抜きなよ。俺が半分背負ってあげようか?」
アルの長くて細い指が、ステラの頭をポンポンと優しく叩く。触れ方ひとつ、髪を撫でる力加減ひとつまで、宝物を扱うように丁寧で——それが、ステラの胸を甘く締め付けた。
「……恋人じゃないんだから、こういうのやめて」
「じゃあ、付き合う?」
ふわりと柔らかく目を細め、首を傾げるアル。
「言い方が軽すぎるの」
「本気なんだけどなあ」
空を見上げながらぽつりと呟いたアルの声は、夜風にさらわれて消えそうなくらい軽かった。いつもの冗談。そうやって笑い飛ばせばいいはずなのに、ステラの胸の奥は甘く痺れたように痛んだ。
(本気なわけ、ないじゃない)
そう自分に言い聞かせて彼の手を払おうとした瞬間、アルの長い指先が、ステラの唇にそっと触れた。
「ば……っ」
息が止まる。
払おうとした手が、彼の制服の袖口を掴んだまま凍りついた。
「ひどいな、ステラ。俺に『バカ』なんて言おうとしただろ」
低く柔らかい声。アルの青い瞳が、逃げ場を塞ぐようにステラをまっすぐ見つめている。いつもの気怠げな色なんてどこにもない。そこにあったのは、今にも崩れそうなほど熱く、切ない色だった。
アルの指先が、ステラの柔らかい下唇を、愛おしむようにゆっくりとなぞる。
触れられている場所から、彼の体温がじんわりと熱を広げていく。ステラは必死にブレーキを踏み込もうとするのに、体中の細胞が「この手に抱きしめられたい」と悲鳴を上げていた。
(ダメ……これ以上、踏み込ませちゃダメなのに……)
「……チョコの欠片、ついてたよ」
くすりと笑うアルの瞳は、冗談めかした言葉とは裏腹に、熱く揺れていた。
指先の感触が、唇から体中へ甘い毒のように広がっていく。ステラは泣きそうになるのを誤魔化すように、慌てて顔を背けた。
「……美味しかった。今度おごるね」
「本当? 楽しみにしとく」
アルは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい微笑みを浮かべた。けれど、彼の瞳はステラの強張った横顔を逃さなかった。
「……ステラ。無理してない?」
軽い口調の奥にある、射抜くような優しさ。
流星事件の足音が、すぐそこまで迫っている。もうすぐ自分はいなくなる。アルの優しさに縋りついて、「抱きしめて」と泣き叫びたい衝動を、ステラは必死に押し殺した。
「なんでもないよ。ほら、もう戻ろう」
「ステラ、俺は——」
「あ、今日の報告書、まだ途中だった」
「……ステラ」
「チョコ、ごちそうさま」
踏み込んでこようとするアルの言葉を、ステラは笑顔で遮り続けた。
アルはいつも、どこか寂しそうに眉を下げ、それ以上は追及せずに引き下がる。
嫌われたくないから。消えていくとき、彼に余計な寂しさを残したくないから。
死ぬことを知っている秘密も、溢れ出しそうな恋心も、すべて隠し通す。
それが、自分にできる唯一の愛し方だと信じていた。
そして、その日はやってきた。
――
『流星事件』。
歪んだ空から、星の破片のように魔物が降り注ぎ、街は一瞬で地獄と化した。
ステラの第9部隊と、アルの第3部隊は最前線へ投入された。
瓦礫と硝煙が舞う中、アルの斬撃が美しく閃き、ステラの魔法が重雷を打ち落とす。二人は背中を預け合い、完璧な連携で敵を薙ぎ払っていった。
「左、三匹来る!」
「助かる、ステラ!」
背中越しに感じるアルの体温。互いの癖も、間合いも知り尽くした立ち回り。
激戦の合間、アルが血を拭いながら軽口を叩く。
「怪我すんなよ? チョコ奢ってもらう約束、まだなんだから」
「……わかってるよ」
ステラは胸の奥で、静かに最後の息を吐いた。
知っていた。この先の曲がり角で、自分は死ぬ。
だからこれ以上、何も言い残さない。ただ彼の隣で、彼の背中を守り抜く。
その時、空間が歪み、巨大な異形の魔物が突如として現れた。
狙われたのは、体制を崩したアル。
(あ……今なんだ)
ステラは思考を挟まなかった。体が勝手に動いていた。
「アル——っ!!」
強引にアルの身体を押しのけ、自らがその巨腕の爪に貫かれた。
衝撃。内臓を灼くような激痛。視界が真っ白に染まり、口から大量の血が溢れ出す。
「ステラ……!?」
魔物を一閃で斬り伏せたアルが、血相を変えて駆け寄ってくる。いつもの気怠げな余裕なんて、欠片も残っていない。
「ステラ! おい、しっかりしろ! ステラ!!」
膝から崩れ落ちた彼女を、アルがなりふり構わず抱き寄せる。
ステラは震える指先で、彼の綺麗な制服の袖を掴んだ。力はもう入らない。けれど、声だけは穏やかに整えた。
「大丈夫……行って、アル……」
「馬鹿なこと言うな! 傷が深すぎる、今すぐ俺が背負って戻る——」
「あなたが残ったら、みんな死ぬよ」
ステラは血に染まった唇で、かすかに微笑んだ。
「私は……平気。ここにいる大きなやつは倒したから。追撃を、止めてきて」
アルの指が、彼女の血に濡れた髪を痛いほど強く引き寄せる。
二人の目が重なる。夜の屋上で交わした、あの甘い視線。
唇に残っていた、ホワイトチョコの感触。
「嫌だ……置いていけるわけないだろ!」
「……行って」
ステラは弱々しく手を伸ばし、彼の唇にそっと指を当てた。
いつか彼が、自分の唇に触れたのと同じように。
「行って、アル。……みんなを、守って」
アルは胸を打ち破られたような顔で目を閉じ、ステラの指の感触を確かめるように強く噛み締めた。やがて、血の涙を流さんばかりの瞳を開き、ゆっくりと頷く。
「……待ってろ。すぐ戻る。絶対に、死ぬな!」
疾走していくアルの背中。
ステラは崩れ落ちたまま、歪んだ空を見上げた。
痛みも、寒さも、遠のいていく。
まぶたの裏に残るのは、アルの背中と、肩に残った抱きしめられた感触、そして唇に触れた彼の指先。
(好きだったよ、アル)
言えなかった言葉を、心の中でだけ呟く。
ブレーキをかけ続けた恋心は、静かに、誰にも知られずに溶けて消えた。
それが自分の選んだ、最高に幸せな終わり方だった。
――
事件から数日後。雨の上がった中庭に、小さな慰霊碑が建てられていた。
アルは、その一番手前に立っていた。
いつもの軽薄な笑みは消え去り、その表情は氷のように冷たく硬い。
ポケットの中で、彼は小さな板チョコを取り出した。
指先が微かに震える。パキ、と重い音を立てて半分に折る。
半分を遺影の前にそっと置き、残りの半分を自分の口へ放り込んだ。
「……苦いな」
まろやかなはずのホワイトチョコレートが、喉を焼くほど苦かった。
目を閉じれば、あの日々のすべてが色鮮やかに蘇る。
血に濡れた彼女の髪の重さ。肩を抱いたときの華奢な感触。自分の唇に触れた、冷たくなっていく指先。「行って」と笑った、あまりにも静かな微笑み。
屋上で視線が重なったとき、彼女の胸が高鳴っていたこと。
「無理してる?」と聞いたとき、怯えたように泳いだ瞳。
「付き合う?」と冗談めかして言ったとき、赤くなった耳先。
(全部……気づいてたんだ)
彼女が自分との間に、分厚い透明な壁を作っていたこと。
踏み込もうとするたびに、上手にするりと逃げられていたこと。
(なんで俺は、あの時強引に抱きしめなかった?)
(嫌われるのを恐れて、なにも聞かずに笑って誤魔化したのは俺だ)
「いつでも言える」と思っていた。
戦いが終わったら、いつか彼女が壁を壊してくれると高をくくっていた。
だが、違ったのだ。ステラは最初から、いなくなる準備をしていたのだ。
ただの仲間としてじゃなく。同じ隊長としてじゃなく。
俺は、ステラを——一人の女として、狂おしいほど愛していたのに。
「……すぐ戻るって、言っただろ……バカ」
掠れた声が、無人の空に消えていく。
振り返る部下たちが、見たこともないほど深く沈むアルの背中に、かける言葉を失っていた。
夜。アルは一人、あの思い出の屋上に立っていた。
街のネオンは相変わらず明るく、空には星ひとつ見えない。
ポケットの中に手を入れる。
そこには、半分に折られたホワイトチョコレート。
渡す相手は、もうどこにもいない。
指の体温で溶けていく甘い塊を握りしめながら、アルは二度と届かない空を見つめ続けた。
彼女の香りと、唇に残された指先の感触だけが、永遠に解けない毒のように、彼の胸を刺し続けていた。
お読みいただきありがとうございました
8/9、ストーリー展開に変更はありませんが、会話の流れ、心情表現など大幅に加筆修正いたしました!




