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「シャピリア・レイモンフダル嬢。貴様との婚約を、本日をもって破棄する!」
公爵令息アシュザトン・リドリーの声が、王都で最も格式高い公爵邸の広間に響き渡る。声には微塵の迷いも愛を囁いた名残もなかった。
広間に集められたのは公爵家の親族数名と、シャピリアの父であるレイモンフダル男爵。そして、この一方的な宣告を受けている、当のシャピリアだけ。息をふうと吐く。
シャピリア・レイモンフダルは、レイモンフダル男爵家の一人娘。由緒はあるが、地方の貧乏男爵家。
対するアシュザトンは、国政にも影響力を持つリドリー公爵家の嫡男。この双方の婚約は、地方の男爵令嬢にしては望外の栄誉と誰もが言ったものだ。言うが易し。
しかし、言われたシャピリアの心は驚くほど平穏だった。おまけに「やっとか」という安堵すら覚えたものだったけれど。ここはしっかりもう一度、言質を取っておかないと。
「はい。理由をお聞かせいただけますか、アシュザトン様」
静かに尋ねた。感情を押し殺したわけではない。本当に、淡々とした事実として受け止めていたのだ。シャピリアの態度に男は不満そうに鼻を鳴らす。なにがしたいのかわからない態度。
「当然だろう。貴様は令嬢としての教養も社交術も身につけていない。何より、貴様には公爵夫人としての品位が欠けている。その証拠に、貴様は……パンを焼くなどという下賤な真似にばかり熱中しているではないか!」
シャピリアの父、レイモンフダル男爵は顔を真っ青にした。だが、シャピリアはまっすぐに目を見た。そんなことは理由にならないのに。
「パンではなくお菓子です。パン職人ではありません。また、熱中しているのは当家の領地の特産品であるカカオ豆を加工し、新しい菓子の製法を確立すること。領地の収入源を確保するための、れっきとした仕事です」
「くだらんくだらん!そんなものが公爵家に入って何になる!リドリー公爵家の顔に泥を塗る行為だ。貴様には、もっと優雅な趣味があるはずだ。刺繍や音楽に親しみ、社交界で公爵家の名誉を高めるのが責務だというのに」
「私の知る限り、社交界では優雅なだけの令嬢よりも領地に利益をもたらす才覚ある令嬢の方が、評価される時代になったかと存じます。それに、公爵家の皆様もチョコパイは美味しそうに、それはもう美味しそうに、おかわりまでして召し上がってくださっていましたよ?」
シャピリアの言葉に公爵家の親族がわずかに動揺したのが、見て取れた。自らが焼くチョコパイは、領地を視察に来たアシュザトンの母である公爵夫人が気に入り、王都の公爵邸にもたびたび届けさせていたのだ。
それなのに、下賤とは。やらせていることが矛盾している。しかし、アシュザトンは矛盾を振り払うように、感情的にテーブルを叩く。
「浅ましい言い訳をするな!とにかく、貴様のような菓子作りに熱中する貧乏男爵令嬢は公爵家には、不釣り合いだ!私が愛するのは伯爵令嬢のシンサリアだ。彼女こそ隣に立つにふさわしい、完璧な令嬢だ」
シンサリア・ヴェルヌイ伯爵令嬢。社交界で今最も注目されている美貌と才気を持つ令嬢だとかで。シャピリアも噂には聞いていた、一応。
「そうですか……承知いたしました」
シャピリアは深々と頭を下げた。父は止めようと口を開いたが、それを視線で制した。
「長きにわたり、お騒がせいたしました。アシュザトン様とリドリー公爵家のさらなるご繁栄をお祈りしております」
一切の未練を見せず、その場を辞した。王都から領地へ帰る馬車の中で、父は何度も謝り続けた。
「すまない、シャピリア。父さんの力が足りなかったばかりに……公爵家からあのような屈辱を受けるとは」
「お父様、おやめください。屈辱とは思っていません」
故郷のレイモンフダル領が近づくにつれて、心が軽くなるのを感じていた。
「アシュザトン様との結婚は公爵夫人の責務に追われ、領地のカカオの研究も、新しい菓子の開発も全てを諦めなければならない未来でした。その未来の方が、よほど地獄のように思えましたからね」
「だが、結婚を望む声は社交界でも大きかったのだぞ。男爵家のお前が公爵夫人になれば」
「そのために、私自身を犠牲にするつもりはありません。愛するカカオ畑と新しいチョコパイの可能性を捨てるくらいなら、一生独身で結構です」
微笑んだ笑みには偽りがなかった。レイモンフダル領へ戻るとシャピリアは早速、領地のカカオ加工場と自室に設けた小さな厨房に籠る。
領地のカカオの品質向上と、より繊細な口どけを持つ新しいチョコレート菓子の開発。それが全て。
婚約破棄から一週間が経ち、シャピリアはカカオの新しい発酵方法を試すため、馬車で隣町の大きな市場に向かう。帰り道、夕暮れが迫る森の入り口で馬車は急停止した。息が苦しい。
「シャピリア様、道端に人が倒れています!」
御者の声で馬車を降りた。倒れていたのは一人の男だ。身なりは清潔だが上質な生地の服は泥まみれで、所々破れている。貴族か、それに近い身分の者だろう。しかし、顔色は青白く飢餓状態にあるかのように頬がこけている。
「ひどい痩せ方……お腹が空きすぎて倒れたのね」
直感した。
「急いで馬車に運び入れて。すぐに温かいものを食べさせないと」
半ば強引に意識のない男を馬車に乗せ、領地にあるレイモンフダル男爵邸へと連れ帰った。男爵邸の客間で男は温かいスープを無意識に数口飲んだ後、ようやく目を覚ました。
「ここ、ここは……」
男は起き上がり、混乱した様子で周囲を見渡した。シャピリアは傍に控えていたのですぐさま答えられる。
「ここはレイモンフダル男爵家です。貴方は森の入り口で倒れていました。ひどく飢えていたようですので」
告げたら男は、自分の服と手のひらを見てため息をついた。顔は意識を失っていた時よりも幾分か、血色が良くなっている。
「えっと……感謝します。私は……ペイジー・シュヴァルツェンベルクと申します」
ペイジーと名乗った男の名前を聞いて、シャピリアは驚いた。




