容疑者の証言
―王立警邏庁・地下尋問室―
石の壁が湿気を含み、冷気が肌を刺す。
狭い空間の中、唯一の明かりは壁際に立てられた一本の蝋燭。
その炎が揺らめくたび、影が三人の顔を不規則に照らしていた。
尋問官席に座るのはノア・クロフォード。
冷徹な瞳の奥に、わずかな疲労の色。
彼の前に座らされているのは、両手を縛られた少女――エリナ・ファルサス。
震える肩、噛みしめた唇。
彼女の瞳には涙が溜まり、滴がぽたりと床石を濡らした。
そして、そのやり取りを黙って見守る影がひとつ。
黒い外套を羽織ったアデリア・グラウスが、観察席の暗がりに腰を下ろしていた。
彼女の背後には、白衣に聖印をつけた教会の立会人が立っている。
その表情には、感情というものが一切ない。
王立警邏庁――地下尋問室。
石壁に囲まれたその空間は、まるで罪を閉じ込めるために造られた牢のようだった。
湿った空気と蝋燭の煙が混じり合い、息をするたび喉が痛む。
拘束台の前に座らされているのは、まだ二十にも満たない少女。
淡い金髪が涙で張り付き、震える肩が細く揺れている。
エリナ・ファルサス。
――毒殺された貴族、ルネ・ファルサスの実の妹。
あの夜、給仕係としてワインを運んでいた少女だった。
尋問官席に立つノア・クロフォードが、記録用の羽ペンを止めることなく低く問いかける。
その声は冷ややかで、しかしどこか痛みを隠していた。
ノア:「……エリナ・ファルサス。
君は事件当夜、貴族席へワインを運んでいた。間違いないか?」
エリナは震える唇で答える。
「……はい……でも、違うんです……違うんです。兄を殺すつもりなんて、なかったんです……!」
嗚咽が途切れ途切れに響く。
その音が狭い室内に反響し、まるで彼女自身を責め立てているかのようだった。
ノア:「では――誰がワインを準備した?」
エリナ:「教会の方々です。私は……ただ、指示された通りに……」
彼女の涙はあまりにも自然で、偽りとは思えなかった。
だがその隣、観察席の暗がりにいたアデリア・グラウスだけは、静かに目を細めていた。
蝋燭の明かりが、彼女の瞳の奥に淡い金を宿す。
彼女の耳は、泣き声の“音”ではなく――呼吸の“間”を聞いていた。
(……おかしい。嘘をつく人間は、一瞬呼吸を止める。
でもこの子は止めない。
まるで、自分の意思で言葉を選んでいないみたいに……)
アデリアの視線が、エリナの首筋に流れる。
薄い肌の下、うっすらと金色の紋様が光を帯びていた。
それは“聖印”――教会の祝福を受けた者だけが刻まれる印。
アデリアは息を詰める。
(……なるほど。懺悔の契約魔法。“真実を封じる祈り”が刻まれているのね。)
ノアが静かに羽ペンを止めた。
彼もまた、少女の首元の光に気づいたのだろう。
だが、何も言わない。ただ視線を落とし、記録に“沈黙”を書き加える。
蝋燭の火が揺れる。
少女の涙が床に落ちる。
そして、アデリアの胸の奥でひとつの確信が生まれた。
(この子は嘘をついていない――
けれど、“真実を話すこともできない”。)
モノローグ:
「涙の裏にある沈黙は、誰かの命令で作られたもの。
そして神の印は、今日もひとつ、真実の口を塞ぐ。」
尋問室の空気は、まるで凍りついていた。
ノアの声と、エリナのすすり泣きだけがその静寂を破っている。
アデリアは、ノアの背後――闇に沈む観察席から、少女をじっと見つめていた。
わずかな呼吸、まばたき、瞳孔の揺れ。
どれも、嘘を見抜くために彼女がかつて叩き込まれた“観察の技”が捉えている。
蝋燭の炎がひとつ、揺らめいた。
その瞬間、アデリアの瞳が鋭く細められる。
(……呼吸が、止まらない。)
人は嘘をつくとき、ほんの一瞬――呼吸を止める。
脳が“虚偽”を構築する間、体が無意識に緊張を走らせるからだ。
だが、エリナは違った。
彼女の呼吸は滑らかに続き、まるで誰かに操られているように一定のリズムを刻んでいた。
泣きながら、怯えながら――その声だけは、機械のように整っている。
ノア:「君の証言は一貫している。だが、なぜワインを渡した?」
エリナ:「……祝福を受けたものだから、です。教会の……指示で……」
アデリアは目を伏せる。
呼吸、声の高さ、まばたき――どれも“恐怖”とは噛み合っていない。
それは自発的な言葉ではなく、外から与えられた台詞。
モノローグ:
「彼女は嘘をついていない。
――けれど、自分の意思で話してもいない。」
薄暗い蝋燭の光が、エリナの首元を照らした。
そこに浮かぶ淡い金の紋様――懺悔の聖印。
アデリアの思考が瞬時に走る。
(“懺悔契約魔法”……教会が信徒に課す沈黙の呪い。
懺悔の内容を外部に漏らせば、魂が罰を受ける――
だから“神の代理意識”が、本人の発話を制御する。)
ノアは気づかないふりで記録を取り続ける。
彼の視線が一瞬、アデリアへ流れた。
その一瞬の沈黙が、二人の間に“理解”を走らせる。
――この少女は、神に“操られている”。
アデリアの唇がわずかに動く。
「罪を語れない信徒……。なるほど、これが“赦しの形”なのね。」
蝋燭がふっと消える。
闇が広がる中、少女の声だけが機械的に続いていた。
「……兄を、愛していました。
だから、神にすべてを委ねました……。」
その言葉が、誰の意志によるものなのか――
もはや、彼女自身にも分からなかった。
ノアは尋問記録盤の表面を指先でなぞった。
青い魔導符号が淡く瞬き――一瞬、ノイズのように乱れる。
ノア:「……おかしいな。魔力の波形が歪んでいる。」
彼の瞳が細くなる。
符号の揺れは、人為的な干渉――
しかも、尋問室の中で発生している。
ノア:「この反応……“封語陣”だな。」
その名を聞いた瞬間、アデリアの指先が止まった。
蝋燭の光が彼女の横顔を照らし、冷たい金の瞳に影を落とす。
アデリア:「尋問の前に、“懺悔の祈り”を強制されたのね。」
ノアは頷き、符号盤を閉じた。
その音が、石壁に鈍く反響する。
ノア:「聴聞局のやり口だ。信徒に封語を仕込めば、どんな尋問も“神の名の下”で黙秘にできる。」
アデリア:「それでいて、“虚偽”は語らせない。……罪の形を選べないまま、真実だけが封じられる。」
アデリアは静かに席を立つ。
ヒールの音が、冷たい床を一歩ずつ打つ。
その視線の先――立会人の聖職者。
白衣の裾から覗く、聴聞局の聖印。
彼は、アデリアの視線を感じた瞬間、無意識に胸元の聖印を握りしめた。
アデリアは微笑む。
その笑みには、冷ややかな知性と怒りが同居していた。
アデリア:「なるほど。真実を語らせる儀式じゃなく、
“語らせないため”の儀式ね。」
蝋燭の炎が、ひときわ強く揺らぐ。
白衣の男は一瞬だけ唇を震わせ――そして、目を逸らした。
ノアは記録盤を閉じたまま、低く呟く。
ノア:「……これで、“証言”は使えないな。」
アデリア:「いいえ。使えるわ。
――“沈黙の理由”そのものが、証拠になる。」
二人の視線が交錯する。
尋問室の空気が張り詰め、闇の奥で誰かの祈りが微かに響いた。
それは“救い”ではなく、“隠蔽”の祈りだった。
アデリアは深く息を吸い、
ノアの問いかけを止めるように、指先を軽く上げた。
アデリア:「……少し、“静かに”してみましょうか。」
ノアが頷く。
尋問室を包むのは、蝋燭の燃える微かな音と、
エリナの荒い呼吸だけになった。
アデリアは、あえて沈黙の間を作る。
追い詰めず、促さず――ただ「隙間」を与える。
暗示の支配は、常に“間”のない言葉の流れに依存する。
だからこそ、沈黙は唯一の反撃だった。
やがて、エリナの瞳が揺らぐ。
焦点がぼやけ、唇が震え始める。
エリナ:「……せい、いんの……下……」
彼女の声は、まるで夢の中から掘り起こされるように。
「……黒い……花が……」
その瞬間、尋問室の空気が裂けた。
エリナの喉から、押し殺した悲鳴が漏れる。
彼女の首筋に刻まれた聖印が、灼けるように赤く輝いた。
ノア:「ッ、神罰反応――封語が逆流してる!」
ノアが素早く記録盤を投げ捨て、
掌で魔導式を描く。
“魔封鎖陣・第七環”。
床に青い円環が展開し、エリナの周囲を包み込む。
光が火花のように散り、呪詛の暴走を押さえ込む。
アデリアは冷静にその光景を見つめていた。
だが、その手はわずかに震えている。
アデリア:「……やっぱり、彼女の証言には“封印”がある。
――『黒い花』。それが、封語の核ね。」
ノアは歯を食いしばりながら、封鎖陣の強度を上げる。
ノア:「……“黒い花”だと? 聴聞局の印の下に?」
アデリア:「神の名で隠された“毒”の印。
――つまり、彼女はただの証人じゃない。“運び手”だったのよ。」
エリナの意識は次第に遠のき、
光の中で彼女の唇が微かに動いた。
エリナ:「……兄さま……ごめんなさい……」
その声は、魔力の奔流にかき消された。
蝋燭の炎が音を立てて弾け、
石壁に映る影が、一瞬だけ――“黒い花弁”のように揺れた。
尋問室の空気が、
まるで凍りついたように静まり返っていた。
魔封鎖陣の光が消えたあとには、
ただ、白く息を切らす少女の姿だけが残る。
医療官たちが駆けつけ、
淡い治癒の光を彼女の胸に当てる。
医療官:「意識は……混濁状態です。反応はあるが、言語機能が……」
ノア:「封語が中枢にまで入り込んでいる。下手に解呪すれば、魂が焼ける。」
その傍らで、
聴聞局の立会人が淡々と書板に筆を走らせた。
立会人:「懺悔は守られた。魂は無垢です。」
その一言に、アデリアの手が震えた。
次の瞬間――机を叩きつけるような音が響いた。
アデリア:「“魂の無垢”で命を奪うなんて……!」
「あなたたちは、神の皮を被った処刑人ね。」
蝋燭の炎が、その怒りに応えるように揺れる。
だが、立会人はただ一礼し、冷たく言葉を返した。
立会人:「信仰の秩序に異を唱える権限は、貴女にはない。」
沈黙。
その沈黙の中で、ノアがゆっくりと記録帳を閉じた。
ノア:「……これで、“真犯人が存在しない事件”が完成した。」
その声には、怒りでも諦めでもない、
ただ、深い疲労が滲んでいた。
アデリアは視線を落とす。
ベッドに横たわるエリナの唇が、微かに動いた気がした。
――祈りの言葉。
けれど、その祈りが誰に届くのか、もう誰にもわからない。
モノローグ:
「神の沈黙は、罪を隠すための幕。
――そして、エリナはその幕の中で、まだ祈り続けている。」
蝋燭の火が、最後の一つ、音もなく消える。
闇が尋問室を満たし、沈黙だけが残った。
――暗転。




