王都グラン・テアトル(王立大劇場)
――王都グラン・テアトル。
白大理石の柱が月光を返し、金糸のカーテンが舞台照明を受けてゆらめく。
王国最大の劇場は今宵、社交界の夜会と呼ぶにふさわしい華やぎに満ちていた。
楽団による新作音楽劇《暁の聖女》。
王族や大貴族、各国の使節が列席し、取材用の魔導通信が静かに光を放っている。
拍手と談笑が交錯し、香の煙が薄く流れる――まるで祝祭そのものだ。
その喧騒から遠く離れた二階席の影。
アデリア・グラウスは、静かに外套の襟を整えた。
灰色の生地は、かつて彼女が身にまとった宝石の輝きとは正反対。
それでも姿勢は貴族のそれで、眼差しだけが鋭く、冷たく舞台を見下ろしている。
「人の歓声は、美しくも脆い。
その裏に何が隠されているのか――誰も見ようとしない。」
舞台では聖女が祈りを捧げる場面。
照明がゆっくりと落ち、弦の音が空気を震わせる。
観客たちの視線は一斉に舞台へ。だが、アデリアだけが動かない。
彼女の手の中、黒革の小冊子が微かに開かれていた。
そこに刻まれた文字――《グラウス・ファイル》。
「あの夜も、こんなふうに拍手が鳴っていた。
そして私は、断罪される役を“演じさせられた”。」
瞳の奥に、三年前の断罪の炎がよぎる。
舞台の聖女の声が遠のき、代わりにあの夜の群衆の罵声が甦った。
彼女の唇が、ほとんど無意識に動く。
――「幕が上がるのね、また。」
歓声の渦の中で、アデリアだけが沈黙していた。
まるで、この夜の悲劇をすでに知っているかのように。
舞台では、祝祭の合唱が高らかに響き渡る。
光のヴェールが役者たちを包み、聖女が天へ祈りを捧げる。
その姿は荘厳で、清らかで――そして、残酷なほどに美しかった。
「罪を赦し給え。神よ、この身を光に還したまえ。」
役者の声が天井に反響し、観客たちは恍惚とした表情で拍手を送る。
だが、その中でただ一人、アデリア・グラウスだけが動かなかった。
白い手が、ゆっくりと扇を閉じる。
深紅の唇がわずかに歪み、瞳が静かに伏せられる。
その瞬間、舞台の祈りの光は、三年前の“断罪の夜”と重なった。
貴族たちの視線、断罪を宣告した王の声、
そして、自らの潔白を叫ぶことすら許されなかったあの夜。
「あの夜も、こんなふうに拍手が鳴っていた。
そして私は、断罪される役を“演じさせられた”。」
扇の影に隠れた横顔に、微かな笑みが宿る。
それは嘲りでも悲しみでもない――
ただ、“再びこの幕が上がる”ことを、知っている者の微笑みだった。
舞台の光がさらに強くなり、聖女が天を仰ぐ。
その祈りの最中、アデリアの睫毛が震えた。
「神が赦すというなら、私も――もう一度だけ、裁いてあげる。」
観客席のどこにも届かない声。
けれどその言葉が、確かに“物語の始まり”を告げていた。
白大理石の回廊を渡るたび、靴音が柔らかく響いた。
王都グラン・テアトル――王国最大の劇場。
今宵は《アルトクラーヴ楽団》の初日公演《暁の聖女》。
王族、宰相府の高官、教会の司祭、そして商業同盟の代表までもが列席する、
まさに“王都の心臓”が脈打つ夜だった。
だが、その最奥。二階バルコニーの影に、ひとりだけ異質な存在がいた。
アデリア・グラウス。
かつては宰相家に連なる名門の令嬢。
社交界の花にして、王国の誰もが羨む“才色兼備の象徴”だった女。
――三年前までは。
その夜、彼女は断罪の舞台に立たされた。
陰謀によって仕組まれた“悪役令嬢”の座。
友に裏切られ、婚約者に切り捨てられ、群衆の前で“虚構の罪”を背負わされた。
その裁定の日を、王都は芝居のように語った。
《断罪の令嬢、沈黙す》。
名家《グラウス家》は没落し、彼女の爵位は剥奪。
だが、彼女は生き延びた。
表舞台から姿を消し、今はただの灰色の外套をまとった“観察者”。
――裏社会では、匿名の諜報員《灰の観測者》として知られている。
今夜、彼女がこの劇場に姿を見せた理由はただひとつ。
“誰か”が動く――その予感を掴んだからだ。
舞台の光が聖女を照らす。
その光の中で、貴族たちは杯を掲げ、笑い、神の名を口にする。
だが、アデリアの視線は彼らの笑みの裏を、
その指の震えと視線の交差を、冷たく計算していた。
「表では祝祭。
けれど、その幕の裏では……血の契約が交わされている。」
彼女の周囲には誰もいない。
だが、その灰色の瞳は、確かに世界を見通していた。
――“観察者”としての夜が、再び始まる。
黄金の燭台が照らす貴賓席――そこだけは、劇場の喧騒が届かぬ静寂の箱庭だった。
アデリアの視線が、ふとそこに吸い寄せられる。
豪奢な椅子に腰かけた男がひとり。銀糸の刺繍を施した燕尾服、指先には宰相家の紋章を刻んだ指輪。
――《宰相代理ルドルフ・ヴェルナー》。
三年前、断罪の舞台に彼女を立たせた張本人。
法の名を借りて、彼女の家を潰し、栄誉を奪い、沈黙を強いた男。
そして、その隣に座る白衣の男――教会聴聞局の高官、《シェル=ルーメン》。
聖職者の装いをしていながら、その眼差しはまるで刃のように冷たい。
舞台ではなく、客席のざわめきをじっと観察している。
まるで“別の芝居”の成り行きを確かめているかのように。
アデリアは扇を軽く閉じ、唇の端をわずかに歪めた。
「……覚えているわ。
あなたの声。あの夜、“罪人を裁け”と告げた響き。
今度は、どんな真実を焼くつもり?」
舞台では、聖女が“罪を贖うための祈り”を歌っていた。
光のヴェールが彼女の白衣を包み、拍手が波のように広がる。
しかし――その音の中に、アデリアの心は微動だにしない。
彼女の瞳は、舞台ではなく、あの二人の男を見据えていた。
仮面をかぶった支配者たち。
正義を語りながら、真実をねじ曲げてきた者たち。
「人は、舞台の上では正義を演じる。
けれど、罪を決めるのはいつも――観客席の側よ。」
彼女の扇が、静かに音を立てて開かれる。
その一瞬の仕草が、まるで宣戦布告の合図のように、
光と影の狭間に溶けていった。




