証言操作 ― 「語られた嘘」
翌朝、王立劇場の控室には冷たい朝靄が漂っていた。
壁際に整列した十数名の劇場スタッフたちの表情は、眠気ではなく“恐れ”に曇っている。
長机の向こう、ノア・クロフォードが書類を整え、低く指示を出した。
「順番に話してもらいます。見たことを、そのまま。」
ひとりの若い給仕が震える声で口を開く。
「ワインを運んだのは……黒髪の女給でした。」
次の者が続く。
「確かに見ました。白いエプロンに、黒い髪をひとつに束ねていたと。」
三人目も、同じように。
「顔は……よく覚えていませんが、間違いありません。」
部屋の空気が、異様なほど均一だった。
語られる声の高さも、抑揚も、間の取り方さえも――まるで同じ脚本を読んでいるように。
アデリアは壁際の椅子に腰掛け、静かにその様子を見ていた。
指先でカップを回しながら、ひとりひとりの呼吸と視線の揺れを観察する。
(語尾が同じ……目線も。誰かが“正解”を教えたのね。)
彼女の唇がわずかに歪む。
そこにあるのは恐怖でも困惑でもない――職業的な違和感、そして冷たい興味。
ノアが淡々と次の名前を呼ぶたびに、
「黒髪の女給」「白いエプロン」「顔は覚えていない」
――まったく同じ三行が、機械のように繰り返された。
アデリアはそっと瞼を閉じる。
(これは“記憶”じゃない。“暗記”だわ。)
彼女の心の奥で、久しく封じていた刑事としての勘が、
ゆっくりと目を覚まし始めていた。
アデリアは黙って椅子に腰を下ろし、
テーブル越しに並ぶ給仕たちを順に見つめていた。
彼らの瞳は怯えている――だが、どこか整然としている。
誰かが“恐怖の使い方”まで教えたかのように。
ひとりが証言を始めると、
隣の者がわずかに頷き、次の者がそのリズムに合わせる。
――まるで呼吸まで揃えているようだった。
アデリアの視線が、ひとつ、またひとつと流れていく。
手の動き、足の角度、そして“沈黙の順序”。
彼女の中で、かつての刑事としての技術が静かに蘇っていた。
(視線誘導……発言のタイミング……無意識の確認動作。
――訓練されてる。)
彼女の心が、冷たく確信を刻む。
「本当に“見た”なら、人は思い出そうとするはず。
でも、彼らは“間違えないように話している”。
――これは、訓練された証言。」
その瞬間、アデリアの目が一人の男に止まる。
部屋の隅、壁際に控えていた聴聞局付きの補佐官。
彼は、証言者が話し始めるたびに――必ず一度、指先で胸の十字をなぞっていた。
(なるほどね。祈りの形で“確認”を取っているのか。)
アデリアは小さく息を吐く。
その瞳に、皮肉な笑みが宿る。
「神の名を借りて、嘘を教えるなんて……。
この国の信仰も器用になったものね。」
ノアは黙々と手帳をめくっていた。
羽根ペンの音だけが、静まり返った控室に響く。
アデリアが横目で彼を見ると、彼はページの上から視線を上げる。
その瞳には、冷ややかな光と、わずかな迷いが同居していた。
「――何か、気づいたんですね。」
アデリアはため息をつき、椅子の背にもたれる。
「証言が揃いすぎてる。“黒髪の女給”なんて、最初からいないのに。」
ノアの手が止まる。
「……確認したんですか?」
「ええ。劇場の雇用記録を見たわ。黒髪の給仕なんて、一人もいない。」
短い沈黙。
ノアはゆっくりと手帳を閉じ、机の上に置いた。
薄暗い部屋の中で、金具の留め具が“カチリ”と鳴る。
「……やはり、《クロノス》が動いている。」
その名を口にした瞬間、空気が変わった。
給仕たちが小さく身じろぎし、誰かが聖印を握りしめる。
アデリアの眉がわずかに上がる。
「宰相府直属の……情報統制部隊、ね。
事件の“真実”じゃなく、“物語”を作る人たち。」
ノアは答えなかった。
ただ、窓の外――まだ霧の残る王都の街並みを見つめている。
「彼らが動く時、真実は“封印”される。」
その言葉は、祈りのように静かで、
告白のように重かった。
ノアは報告書の束を机に置き、指先で軽く叩いた。
その音は、まるで封印を叩き割るかのように鋭く響く。
「――前夜、事件直後に《クロノス》から指令が下りていました。」
アデリアが静かに顔を上げる。
「どんな指令?」
ノアは淡々と読み上げた。
「“劇場関係者への聞き取り内容を統一せよ。異論を出す者は《聴聞局》が引き取る”。」
控室の空気が、一瞬で冷えた。
その言葉の裏にある意味を、アデリアは痛いほど知っている。
「……つまり、証言は“教会”と“宰相府”の合作ね。」
彼女は唇の端をわずかに歪めた。
「真実を語ることが、罰になるのね。」
ノアは何も言わず、ただ報告書の端を指でなぞる。
その仕草に、ためらいと疲労が滲んでいた。
やがて、彼は低く答える。
「この国では、“沈黙”こそが忠誠の証です。」
アデリアは静かに目を細める。
窓の外、鐘楼の影が伸び、王都の朝がゆっくりと色を失っていく。
その光景がまるで、真実が覆い隠されていく瞬間のように見えた。
「沈黙に従う者が英雄で、語る者が罪人になる――。
……それが、あなたの守る国の形なのね。」
ノアは答えなかった。
ただ、その沈黙が何より雄弁に、彼の立場を物語っていた。
木製のテーブルの上に、紙の音が静かに重なる。
アデリアが手際よく並べたのは、給仕リストの写し。
インクの滲みまで読み取るように、指先でひとつずつ名前を追う。
「――ここね。」
彼女は小さく呟き、赤いペンでひとつの欄を囲む。
「“欠員”になっている時間帯がある。けれど勤務報告には“全員出席”と記されている。」
ノアは隣で書類をめくりながら、低く返す。
「補佐官の行動記録を確認しました。彼は事件の三時間前、《聴聞局》から“祝福証”を受け取っています。」
アデリアが目を細める。
「――つまり、“黒髪の女給”は実在しない。作られた証人、というわけね。」
ノアが静かに頷く。
「虚構を一人、現場に置く。それが“真実を消す”最も簡単な方法です。」
一瞬の沈黙。
二人の視線が、重なった。
書類の上に流れる緊張が、目に見えるほど張り詰める。
言葉はいらなかった。
互いの沈黙の中に、理解があった。
――敵はまだ、この部屋の外にいる。
アデリアは手帳を閉じ、ノアの方を見やる。
「あなたの命令には逆らうけれど、推理なら並べてみせるわ。」
ノアの口元が、かすかに緩んだ。
「……それで十分です、アデリア。」
薄明の光が差し込み、書類の上に二人の影を落とす。
再び動き出した“相棒”の時間が、静かに刻まれ始めていた。
夜の帳が下りた王立劇場。
片付けられたはずの現場には、まだ消えない気配が残っていた。
ノアの部下が報告書を手に戻る。
「――補佐官、行方不明です。
聴聞局の記録にも、昨夜以降の動きはありません。」
ノアは小さく息を吐き、報告書を閉じた。
「予想通り、ですか。」
アデリアは窓辺に立ち、遠くの尖塔を見上げる。
街の灯が霞んで見えるほど、夜気は冷たい。
「証言者たちはどうなったの?」
「全員、同じことを言っていました。」
ノアの声が少しだけ掠れる。
「“同じ夢を見た”と。――そして、何も思い出せないと。」
アデリアは静かに目を閉じた。
風がカーテンを揺らす音だけが、部屋に満ちる。
「嘘は、最初に教えられた瞬間よりも、
信じ続けた時間の方が人を狂わせる。」
その呟きに、ノアが応じるように低く言った。
「教会が人の“記憶”にまで手を伸ばしたとしたら――」
アデリアは微笑む。だがその目は笑っていない。
「この国の真実は、もう“神の書き換え”の中にあるのよ。」
一瞬の沈黙。
遠くで鐘の音が響く――まるで、何かを悼むように。
ノアが最後の記録を手帳に書き込む。
《グラウス・ファイル004:証言操作事件 ― 状況:記憶改竄の可能性》
ページが閉じられる音が、闇の中に沈む。
――そして、幕が落ちる。




