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紅の令嬢と黒の執事 ― ヴァルディア事件録  作者: 南蛇井


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毒の出所 ―《観察者の推理》

夜明け前。

王都グラン・テアトルは、先ほどまでの喧騒が嘘のように沈んでいた。


観客も貴族も去り、残されたのは割れたグラスと冷めた香水の匂い。

照明は最低限――薄闇の中に、かすかに揺れる舞台袖のカーテン。


その静寂を切り裂くように、扉の軋む音が響いた。

黒い外套の裾が、絨毯をすべる。

アデリア・グラウスは、ひとり現場へと戻ってきた。


靴音を殺しながら、彼女は視線を巡らせる。

割れたグラスの破片、こぼれたワインの染み、舞台袖に落ちた白い手袋。

誰もいない劇場の中で、それらがまるで「まだ事件が終わっていない」と囁いているようだった。


「事件はいつも、“片付けられた後”にこそ本当の顔を見せる。」


低く、息のように漏れたモノローグ。

その声に応えるように、遠くで足音が止まる。


暗がりの中から、ノア・クロフォードが姿を現した。

黒い軍服の裾を整えながら、淡々とした目で彼女を見つめる。


「……部下は下げた。誰にも言わない。」


その短い言葉だけで、アデリアは理解した。

――彼は黙認したのだ。


ふたりの間に、言葉なき協定が結ばれる。

三年前の信頼とは違う。

今はただ、真実のためだけに手を組む“契約”。


アデリアは視線を落とし、ワインの跡を指先でなぞる。

冷たく乾いた感触。だが、その下に隠された何かが確かに息づいていた。


「……幕は、まだ下りていないわね。」


薄明の光が、舞台のカーテンを静かに照らす。

その瞬間、再び“観察者”が目を覚ました。



アデリアは静かに給仕台の前に立った。

整然と並べられた銀のトレイ、ナプキン、そして――その奥に、一本だけ場違いなボトル。


半分ほど減った深紅の液体が、淡い光を受けて鈍く輝く。

彼女は指先で栓の縁をなぞった。


「……一度、開けられている。」


囁くように呟き、さらに唇を歪める。

「けれど、注ぎ口は……綺麗すぎるわ。」


本来なら、注ぎ跡のワインが縁を染め、指の脂が残るはず。

だが、この瓶にはそれがない。まるで“意図的に拭われた”ように。


背後で、ページをめくる音。

ノアが淡々と報告書を確認しながら言った。


「このワインは《王立劇場提供品》。

銘柄も、管理番号も、保管庫の台帳に登録済みです。」


アデリアは一瞬、目を細めた。

「なら――外部から毒を持ち込む余地はない。」


グラスを見つめ、唇の端をわずかに吊り上げる。

「つまり、“瓶の中身”そのものが差し替えられたのね。」


ノアが短く息を呑む。

アデリアは、あの冷たいワインの香りをもう一度確かめるように鼻先で吸い込み、

囁くように言った。


「誰かが、“王立劇場”という信頼そのものを利用した。

 ――犯人は、この舞台の裏側にいる。」


その言葉が落ちた瞬間、

劇場の奥で、風が一枚の幕を揺らした。

まるで舞台の“次の幕”が、静かに上がる合図のように。

ノアが、報告書を閉じながら低く呟いた。

「給仕係は劇場所属。王都商業同盟の派遣人員だ。

 仕入れ元は――教会管理下の醸造倉庫、《セラ・ヴィナリス》。」


アデリアの指がぴたりと止まる。

その名を聞いた瞬間、唇の端がかすかに歪んだ。


「教会の倉庫? ……随分と“聖なるワイン”を使うのね。」


ノアは目線を落とし、声を潜める。

「今は《ルーメン聴聞局》が監査を行っているらしい。」


その一言で、劇場の空気がさらに冷えた。

沈黙が流れる。

アデリアは割れたグラスの破片を拾い上げ、

舞台の灯りにかざす。


光が透過し、赤い液の残滓が鈍く光った。

その奥に、彼女は見つける。

瓶と同じ、小さな刻印――《✝L》。


「……やっぱり。」

アデリアの瞳が、冷たい理性の光を宿す。


「偶然なんて、神の作る一番安っぽい嘘よ。」


彼女は破片をそっと掌に閉じる。

遠くで、聖歌隊の練習か、教会の鐘が微かに響いた。


ノアが問う。

「まさか、“聴聞局”が関わっていると?」


アデリアは答えず、ただ笑った。

その笑みは、美しく、そして危うかった。


「いいえ。ただ――“神の沈黙”ほど、胡散臭いものはないだけよ。」


彼女の視線は、舞台の向こう、

教会の尖塔を貫く夜空の闇へと向けられていた。


アデリアは舞台袖を静かに歩いた。

靴音が、冷えた床の上でかすかに響く。

彼女の指先が、赤黒く染み付いたワインの跡をなぞる。

その線は――グラスの位置からではなく、給仕台の端へ。

まるで、「瓶の底から」流れ出したような、不自然な痕跡。


アデリアの瞳が細められる。


「注いだのはエリナ。だが、毒を“仕込んだ”のは別人。

 ――瓶そのものを、差し替えたのよ。」


ノアが隣で膝を折り、痕跡を確認する。

「公演直前の搬入か……。観客が入る前の時間帯なら、

 舞台係と――教会の祝福係しか入れない。」


その言葉に、アデリアの唇がわずかに吊り上がった。


「“祝福”ね。神の名の下で毒を流し込むなんて――皮肉な話。」


舞台の天井から、崩れかけたステンドグラス越しに光が差す。

青と紅の光が、二人の足元に落ち、

まるで血と聖水を混ぜたような色を描いた。


ノアが低く息を吐く。

「つまり、犯人は――“祈りのふりをして”毒を仕込んだ。」


アデリアは頷き、淡く笑う。


「ええ。信仰という仮面ほど、罪を隠すのに都合のいいものはないわ。」


そして彼女の視線は、天井に描かれた聖母像へと向かう。

その瞳が、まるで嘲るように――光を反射していた。


アデリアの指先が、ワイン瓶の底をそっと撫でた。

そこに、わずかに貼られた封印紙。

白い紙には金糸で縫い取られた十字の紋章――《ルーメン聴聞局》の聖印。


「……見つけたわね。」

ノアの声が低く響く。

彼は一歩近づき、封印を確認すると、その瞳に一瞬だけ影が差した。


「……これ以上、触れない方がいい。」


アデリアは唇の端をわずかに上げる。

その微笑みには皮肉と確信が混じっていた。


「あなたがそう言う時は、いつも“真実が近い”のよ。」


ノアは短く息を吐き、苦笑した。

だが、その手は丁寧に――まるで壊れ物を扱うように――

封印紙を小袋へと収めていく。


その動作は、まるで“罪”そのものを封じ込める儀式のようだった。


アデリアは彼の背を見つめ、静かに思う。


「毒を仕込んだのは神の使い。

 なら、この国の信仰は――誰を救うためのものなのかしら。」


舞台の奥で、風が古い幕を揺らす。

聖母の瞳がわずかに光り、

まるで、彼女たちの探る“真実”を見下ろしているようだった。


――暗転。


【グラウス・ファイル 003】

《王立劇場毒殺事件 ― 使用毒物:黒睡蓮毒》

《出所:教会醸造倉庫〈セラ・ヴィナリス〉》



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