ノアとの再会
――王都劇場の外。
夜の帳が下り、月光が石畳を冷たく照らしていた。
王国紋章を掲げた漆黒の馬車が音もなく停まり、扉が開く。
そこから降り立ったのは、規律で固められた兵たち――王都警備隊。
黒い軍服に金糸の縁取り。靴音が一糸乱れずに並び、
その中心を、ひとりの男が進む。
《宰相府直属調査官》――ノア・クロフォード。
淡い金髪に、夜の光を閉じ込めたような灰青の瞳。
胸元に輝くのは、冷たい銀の徽章。
無駄のない所作で現場を見渡し、低く指示を飛ばす。
「――遺体は搬出前に記録を。痕跡の採取は第三班に任せろ。
報告は、十五分以内だ。」
その声音には、感情の欠片すらない。
命令ではなく、決定事項として響く冷徹さ。
劇場の中では、ワインの匂いと焦げた照明の臭気がまだ漂っている。
観客はすでに退去し、残るのは崩れた舞台と赤い染み。
沈黙だけが支配するその空間に、――微かな足音が混じった。
ノアが顔を上げる。
暗がりの向こうから、一人の女が歩み出る。
黒の外套に、深紅のブローチ。
整った横顔、冷ややかに光る翠の瞳。
――アデリア・グラウス。
三年ぶりに見るその姿は、かつての令嬢ではなかった。
貴族の誇りを捨て、静かに闇を歩く者の眼をしている。
そして、ふたりの視線が交わる。
その一瞬で、空気が変わった。
過去も、沈黙も、すべてが言葉にできないまま、
ただ――目が語る。
“また、この場所で会うとはな。”
“ええ、皮肉ね。あなたの現場で。”
沈黙の中で、わずかに口角が揺れた。
懐かしさなど、どこにもない。
ただ、凍てついた絆の残滓だけがそこにあった。
――沈黙が、劇場を包んでいた。
割れたグラス、冷えたワイン、そしてまだ消えぬ香水の匂い。
その中で、ふたりの呼吸だけが確かに響く。
過去が――甦る。
あの“断罪の夜”。
群衆の前で悪役令嬢として吊るし上げられた彼女を、
ただ沈黙の中で見つめていた男の姿。
護衛でありながら、何も言わなかった。
それが、アデリアの記憶に焼きついた“裏切り”だった。
アデリアはゆっくりと口を開く。
「現場保存を。……全員、退席させて。」
ノアの視線がわずかに動く。
「また勝手に現場を荒らすおつもりですか、令嬢?」
声は静か。
だが、その冷たさは刃のように鋭い。
互いの口元には、笑み。
けれど、その奥では――怒りと、信頼の残骸がせめぎ合っていた。
アデリアは皮肉に微笑む。
「あなた、まだ“令嬢”と呼ぶのね。」
ノアの瞳が淡く光る。
「他に、呼び方を知らないもので。」
一瞬、沈黙。
割れたグラスの破片が、二人の間で光を弾く。
皮肉と冷笑の裏に、
かつて“相棒”だった頃の空気が、わずかに滲む。
――それは、火花のように短く、
だが確かに再び、運命の歯車が噛み合う音がした。
ノアは、淡々とした筆致で手帳を走らせていた。
ペンの音だけが、静まり返った劇場の空気を裂く。
「――本件は、宰相府の指示により“事故死”として処理される。」
その言葉は、まるで判決のように冷たく響いた。
アデリアの唇が、わずかに歪む。
「毒殺を“事故”と呼ぶのが、今の宰相府の流儀?」
ノアは顔を上げずに答える。
「言葉の選び方は、政治の問題です。」
抑揚のない声。
だが、ほんの一瞬、ペン先が止まった。
アデリアはその微細な揺らぎを逃さない。
――彼もまた、命令に縛られている。
この場で真実を語れない、鎖の中の人間。
アデリアは冷ややかに息を吐いた。
「命令に従うのね。……あの時と同じ。」
その言葉に、ノアの瞳がかすかに揺れる。
だが、すぐに感情の色を消し去り、静かに言い返した。
「違います。今は、私が命令する側だ。」
アデリアは微笑んだ――まるで、痛みを嘲るように。
「なら……この国も随分、堕ちたわね。」
二人の間に沈黙が落ちる。
割れたグラスの破片が、まるで宰相府の誇りの断片のように光を反射していた。
その光景を見つめながら、アデリアの心にひとつの確信が宿る。
――この事件の“死”は、単なる事故ではない。
そして、彼女が再び“舞台”に立つ時が来たのだ。
ノアは調査記録を閉じ、部下に目配せをした。
「撤収だ。これ以上は、上が決める。」
冷たく、機械のような声。
だがアデリアは、その言葉の端に――“ためらい”を感じ取っていた。
彼女はゆっくりと歩み寄り、壊れたグラスの前で立ち止まる。
そして、まるで何気ない雑談のように言った。
「偶然ね。私、少し暇をしていたの。
事件の整理くらいなら……手伝えるわ。」
ノアは眉をわずかに上げた。
「……協力、ですか。」
アデリアは微笑む。その笑みは挑発的で、どこか懐かしい。
「“偶然を装って”現場に居合わせた元令嬢と、
“命令に縛られた”調査官。――悪くない組み合わせでしょう?」
短い沈黙。
劇場の外では、夜の鐘が遠く響いている。
やがてノアの口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
皮肉と、懐かしさと、諦めが入り混じった――“昔の相棒”の顔。
「……舞台の幕は、もう上がっている。
あなたの勝手な台本に、私が付き合う義理はない。」
アデリアは、視線を逸らさずに応える。
「いいえ。これは、あなたの物語でもあるはずよ。」
沈黙。
ふたりの間に、三年という歳月が張り詰めた糸のように漂う。
――憎しみでも、信頼でもない。
けれど、そのどちらにも戻れるかもしれない“距離”。
ノアが小さく息を吐き、視線をそらす。
「……勝手にしろ。だが、巻き込まれても知らないぞ。」
アデリアは軽く笑う。
「もう、とっくに巻き込まれてるでしょう?」
その瞬間――
冷えた劇場の空気の中に、微かな“過去の温度”が蘇る。
再び、二人の物語が動き出した。
劇場の灯が、ひとつ、またひとつと落ちていく。
観客も貴族も去り、残されたのは、崩れた椅子と割れたグラス、そして――二人だけ。
ノアは静かに手帳を閉じた。
革の表紙が鳴る乾いた音が、やけに大きく響く。
「……次にあなたを現場で見かけたら、正式に逮捕します。」
声は淡々としていた。
だが、その奥にかすかな熱――三年前には見せなかった“感情”が潜んでいた。
アデリアは微笑む。
「その時は、あなたの手で捕まえてね。」
言葉は軽やか。
けれど、瞳は真っ直ぐだった。
皮肉でも挑発でもない――ほんの少し、懐かしさを滲ませる目。
二人の間を、冷たい夜風が通り抜ける。
互いに背を向けたまま、足音だけが響く。
だが、去り際にノアが立ち止まった。
背中越しに、低く、言葉を落とす。
「――あの夜、私は何もできなかった。
今度こそ、真実を見逃さない。」
アデリアの足が一瞬止まる。
けれど振り返らない。
ただ、舞台の闇に向かって小さく呟いた。
「それで十分よ。……相棒。」
静寂。
カーテンの向こう、誰もいない舞台で、
ひとりの女が古びた手帳を開く。
【グラウス・ファイル 002】
《宰相府直属調査官 ノア・クロフォード》
――筆跡が、ゆっくりと滲んでいく。
まるで、新しい“事件”の幕が、静かに上がったことを告げるように。




