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紅の令嬢と黒の執事 ― ヴァルディア事件録  作者: 南蛇井


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3/22

容疑者登場 ― 《告発と違和感》

控え室は、まるで別の世界になっていた。

ついさっきまで拍手と笑い声で満たされていた劇場が、いまは息を潜めた牢獄のようだ。

揺れる蝋燭の明かりが壁に長い影を落とし、誰もがその影に怯えている。


「事件直前、ワインを注いだのは――エリナ様でした!」

給仕の一人が震える声で叫んだ瞬間、空気が一気に張り詰めた。


ざわめきが、火花のように弾ける。

「なんてことだ、侯爵家の娘が……!」

「兄を殺した? 婚約破棄の恨みだろう!」

「やはりグラウス家の呪いは本当だったんだ……!」


噂が噂を呼び、真実など誰も求めていない。

人々はただ、自分たちが安心できる“物語”を欲しているだけ。


アデリア・グラウスは、壁際に立ったままその様子を見ていた。

顔色ひとつ変えず、瞳だけが冷たく光っている。

視線は騒ぐ貴族たちを順に追い、まるで舞台を観察する観客のようだ。


――彼女は、知っていた。

怒声と涙と罵倒が交錯する中にこそ、真実が隠れることを。


「群衆は“物語”を欲しがる。

 犯人、動機、涙――それさえ揃えば、真実などどうでもいい。」


その心の声は、氷の刃のように静かだった。

誰かが創り上げた筋書きに、観客たちは満足して酔っている。

だがアデリアは――その台本を、これから書き換えるつもりだった。



舞台裏の扉が、きぃ、と軋む音を立てて開いた。

そこに現れたのは――白いドレスの裾を、汚れた床に引きずる少女。


エリナ・ファルサス。

侯爵家の令嬢。

そして、いまや“毒殺の容疑者”。


その姿は、あまりに痛々しかった。

手袋の先が赤く染まり、まるで罪を示す印のように見える。

泣き腫らした瞳は潤んでいるのに、不思議と感情の焦点を失っていた。

涙も声も、どこか空虚――まるで自分がこの場にいないかのように。


「……エリナ様。」

誰かが名を呼んだ。


彼女は顔を上げ、宰相代理と、祈りを捧げる司祭と、そして――

壁際から見つめるアデリアを、順に見た。


司祭の声が、穏やかに、けれど残酷に響く。

「罪を認めるなら、神は赦しを与えたまう。

 悔い改めるのです、エリナ・ファルサス。」


少女の唇が、わずかに震えた。

かすれた息のような声が、静まり返った控え室に落ちる。


「……私じゃ、ありません。」


あまりに小さな声で、誰も反応しない。

まるで、その一言が“存在しなかった”かのように空気が流れていく。


宰相代理が冷たく告げた。

「証言がある。毒を注いだのは君だ。――弁明は?」


その言葉に、エリナは一歩後ずさる。

だが、逃げるでもなく、泣くでもなく、ただ立ち尽くした。

恐怖の色ではない。

それは――すべてを諦めた者の、凍りついた瞳。


アデリアは、静かに息を呑む。

その目を知っていた。

“罪を演じる”しかない者の目。


「……あの子は、人を憎むような目をしていない。

  ――誰かに、“罪”を演じさせられている。」


彼女の指先が、胸元の深紅のブローチをそっと撫でた。

過去の夜の、苦い記憶が甦る。

そして――アデリア・グラウスの瞳に、再び冷たい光が宿る。



貴族たちの怒声が交錯する空気の中――ひとつだけ、異質な音が響いた。

ヒールの先が、床を打つ音。


アデリア・グラウスが、ゆっくりと一歩、前に出た。


ざわ……と空気が震える。

「な……グラウス令嬢?」「没落したはずでは……?」

周囲がざわめき、誰もがその行動を理解できずに息を呑む。

没落貴族が、王国宰相代理の前で発言する――それは社交界では“あり得ないこと”だった。


だがアデリアの表情は静かだった。

むしろ、舞台の幕間に入り込んだ役者のように落ち着いている。


「……彼女のグラスを見ましたか?」


その声は低く、よく通った。

怒鳴り声よりも静かなのに、不思議と全員の耳に届く。


ノアがわずかに頷く。

人混みの隙間からすっと入り込み、彼は銀盆の上に並べられたグラスの一つを指先で示した。

――液面の高さ、指の触れた痕跡、そしてわずかに残る香り。


アデリアは目を細め、淡々と告げる。


「毒が入れられたのは、被害者の杯。

 ……彼女のではありません。

 そして――彼女の手袋には、“注いだ”跡がない。」


その場に、一瞬だけ静寂が落ちた。

「どういうことだ?」と誰かが呟く。


アデリアの赤い唇が、わずかに笑みを描く。

それは冷たく、確信に満ちた笑みだった。


「つまり――“注がされた”のです。

 誰かに、そう“演じさせられた”。」


エリナが顔を上げる。

怯えではない。

その瞳には、言葉にできない迷いと、何かを守ろうとする後悔が滲んでいた。


アデリアはその目を見て、静かに息を吐く。


「あの子は、人を憎むような目をしていない。

  ――誰かに、“罪”を演じさせられている。」


誰もが息を詰める中、アデリアの黒いドレスの裾がゆるやかに揺れた。

まるで、かつて断罪された“悪役令嬢”が、再び舞台の中央に立ったかのように。



宰相代理の眉間が、苛立ちに深く刻まれる。

「……証拠もないのに口を挟むな、グラウス嬢。」

その声は冷たい刃のようで、場の緊張をさらに張り詰めさせた。


けれど、アデリアは怯まない。

まるで、その程度の脅しなど聞き慣れているかのように、微笑みの形を崩さなかった。

その横で――静かに、黒い影が一歩前に出る。


ノア・クレイン。

執事服の襟元を正し、穏やかに頭を下げた。

その動作のどこにも隙がない。言葉よりも先に、“訓練された者”の空気が漂う。


「証拠なら、いずれ出ます。」

低く、よく通る声が響く。

「……ただし、それを“隠そうとする者”がいなければ、ですが。」


その一言で、空気が変わった。

宰相代理の手が、わずかに震える。

ほんの一瞬――彼の顔が引きつった。

その微細な変化を、アデリアの瞳が確実に捉える。


沈黙が落ちる。

誰もが息を潜める中、アデリアはゆっくりとノアの方へ顔を向けた。


「やっぱり、あなたが来ていたのね……ノア。」


ノアは軽く片眉を上げ、微笑とも無表情ともつかない表情で応える。

「ええ。貴女が動くと聞いて、放ってはおけませんでしたから。」


ふたりの視線が交わる。

かつて刑事と情報屋として、幾つもの“真実”を暴いてきた眼差し。

あの頃の緊張と呼吸が、一瞬で甦る。


アデリアは口元にわずかな笑みを浮かべた。

「また幕が上がったわね。

 ――今度は、私たちの舞台で。」


ノアが静かに頷く。

そして、彼の手がわずかに動き、ポケットの中で銀の懐中時計が小さく鳴る。

その音が合図のように、場の空気が動き出す。


貴族たちの視線が揺れ、疑念が宰相代理に向かい始める中――

悪役令嬢と執事。

二人の“観察者”が、再びひとつの現場に立った。


かつて、真実を追うためにすべてを失った二人が。

いま、再び“王国の嘘”に挑むために。



劇場の扉が重く軋んだ。

治安隊の兵が、泣き崩れるエリナ・ファルサスを両脇から抱え上げる。

白いドレスの裾が引きずられ、赤い絨毯を曳くように汚れていく。


「離して……違うの……私、兄さまを――!」

少女の叫びは、誰にも届かない。

貴族たちは目を逸らし、司祭は静かに十字を切るだけだった。

扉が閉まる瞬間、音がすべてを呑み込み、劇場は再び静寂に沈む。


アデリアは動かない。

ただ、その背中を見送っていた。

まるで“罪”という名の鎖を見つめているかのように。


ノアが隣で口を開く。

低く、抑えた声で。

「……彼女が犯人ではないと?」


アデリアはゆっくりと首を横に振った。

その瞳に宿る光は、確信よりも“知ってしまった者”の冷たさだった。


「ええ。罪の色が違うわ。

 ――あの子は、誰かの“祈り”に囚われている。」


ノアが眉をひそめる。

アデリアの視線は、ふと天井へと向けられた。


そこには、劇場の象徴でもある聖母の壁画があった。

黄金に輝く瞳が、まるでこの場を見下ろすように光を反射している。

まるで、罪も嘘も――“赦し”の名で包み込むように。


アデリアの唇が静かに動く。


「……教会の影ね。

  懺悔を捧げる者の口を、神はどうやって封じるのかしら。」


ノアがその言葉にわずかに反応する。

しかしアデリアはもう、次の“真実”を見つめていた。


かつて刑事として見上げた法の空。

今、その上に“神”という名の闇が覆いかぶさっている。


――そして、闇の中心には《ルーメン聴聞局》。

罪と赦しを操る、王国教会の影の組織。


アデリアはゆっくりと手帳を開く。

インクの滲んだ頁に、淡々と文字を記す。


【グラウス・ファイル 001】

「王都劇場毒殺事件 ― 被害者:ルネ・ファルサス」

「容疑者:エリナ・ファルサス」

「関与の可能性:教会派《ルーメン聴聞局》」


最後にペンを止め、彼女は静かに呟いた。


「――幕間は終わり。次は、本当の舞台へ。」


深紅のブローチが、蝋燭の光を受けて微かに煌めいた。

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