容疑者登場 ― 《告発と違和感》
控え室は、まるで別の世界になっていた。
ついさっきまで拍手と笑い声で満たされていた劇場が、いまは息を潜めた牢獄のようだ。
揺れる蝋燭の明かりが壁に長い影を落とし、誰もがその影に怯えている。
「事件直前、ワインを注いだのは――エリナ様でした!」
給仕の一人が震える声で叫んだ瞬間、空気が一気に張り詰めた。
ざわめきが、火花のように弾ける。
「なんてことだ、侯爵家の娘が……!」
「兄を殺した? 婚約破棄の恨みだろう!」
「やはりグラウス家の呪いは本当だったんだ……!」
噂が噂を呼び、真実など誰も求めていない。
人々はただ、自分たちが安心できる“物語”を欲しているだけ。
アデリア・グラウスは、壁際に立ったままその様子を見ていた。
顔色ひとつ変えず、瞳だけが冷たく光っている。
視線は騒ぐ貴族たちを順に追い、まるで舞台を観察する観客のようだ。
――彼女は、知っていた。
怒声と涙と罵倒が交錯する中にこそ、真実が隠れることを。
「群衆は“物語”を欲しがる。
犯人、動機、涙――それさえ揃えば、真実などどうでもいい。」
その心の声は、氷の刃のように静かだった。
誰かが創り上げた筋書きに、観客たちは満足して酔っている。
だがアデリアは――その台本を、これから書き換えるつもりだった。
舞台裏の扉が、きぃ、と軋む音を立てて開いた。
そこに現れたのは――白いドレスの裾を、汚れた床に引きずる少女。
エリナ・ファルサス。
侯爵家の令嬢。
そして、いまや“毒殺の容疑者”。
その姿は、あまりに痛々しかった。
手袋の先が赤く染まり、まるで罪を示す印のように見える。
泣き腫らした瞳は潤んでいるのに、不思議と感情の焦点を失っていた。
涙も声も、どこか空虚――まるで自分がこの場にいないかのように。
「……エリナ様。」
誰かが名を呼んだ。
彼女は顔を上げ、宰相代理と、祈りを捧げる司祭と、そして――
壁際から見つめるアデリアを、順に見た。
司祭の声が、穏やかに、けれど残酷に響く。
「罪を認めるなら、神は赦しを与えたまう。
悔い改めるのです、エリナ・ファルサス。」
少女の唇が、わずかに震えた。
かすれた息のような声が、静まり返った控え室に落ちる。
「……私じゃ、ありません。」
あまりに小さな声で、誰も反応しない。
まるで、その一言が“存在しなかった”かのように空気が流れていく。
宰相代理が冷たく告げた。
「証言がある。毒を注いだのは君だ。――弁明は?」
その言葉に、エリナは一歩後ずさる。
だが、逃げるでもなく、泣くでもなく、ただ立ち尽くした。
恐怖の色ではない。
それは――すべてを諦めた者の、凍りついた瞳。
アデリアは、静かに息を呑む。
その目を知っていた。
“罪を演じる”しかない者の目。
「……あの子は、人を憎むような目をしていない。
――誰かに、“罪”を演じさせられている。」
彼女の指先が、胸元の深紅のブローチをそっと撫でた。
過去の夜の、苦い記憶が甦る。
そして――アデリア・グラウスの瞳に、再び冷たい光が宿る。
貴族たちの怒声が交錯する空気の中――ひとつだけ、異質な音が響いた。
ヒールの先が、床を打つ音。
アデリア・グラウスが、ゆっくりと一歩、前に出た。
ざわ……と空気が震える。
「な……グラウス令嬢?」「没落したはずでは……?」
周囲がざわめき、誰もがその行動を理解できずに息を呑む。
没落貴族が、王国宰相代理の前で発言する――それは社交界では“あり得ないこと”だった。
だがアデリアの表情は静かだった。
むしろ、舞台の幕間に入り込んだ役者のように落ち着いている。
「……彼女のグラスを見ましたか?」
その声は低く、よく通った。
怒鳴り声よりも静かなのに、不思議と全員の耳に届く。
ノアがわずかに頷く。
人混みの隙間からすっと入り込み、彼は銀盆の上に並べられたグラスの一つを指先で示した。
――液面の高さ、指の触れた痕跡、そしてわずかに残る香り。
アデリアは目を細め、淡々と告げる。
「毒が入れられたのは、被害者の杯。
……彼女のではありません。
そして――彼女の手袋には、“注いだ”跡がない。」
その場に、一瞬だけ静寂が落ちた。
「どういうことだ?」と誰かが呟く。
アデリアの赤い唇が、わずかに笑みを描く。
それは冷たく、確信に満ちた笑みだった。
「つまり――“注がされた”のです。
誰かに、そう“演じさせられた”。」
エリナが顔を上げる。
怯えではない。
その瞳には、言葉にできない迷いと、何かを守ろうとする後悔が滲んでいた。
アデリアはその目を見て、静かに息を吐く。
「あの子は、人を憎むような目をしていない。
――誰かに、“罪”を演じさせられている。」
誰もが息を詰める中、アデリアの黒いドレスの裾がゆるやかに揺れた。
まるで、かつて断罪された“悪役令嬢”が、再び舞台の中央に立ったかのように。
宰相代理の眉間が、苛立ちに深く刻まれる。
「……証拠もないのに口を挟むな、グラウス嬢。」
その声は冷たい刃のようで、場の緊張をさらに張り詰めさせた。
けれど、アデリアは怯まない。
まるで、その程度の脅しなど聞き慣れているかのように、微笑みの形を崩さなかった。
その横で――静かに、黒い影が一歩前に出る。
ノア・クレイン。
執事服の襟元を正し、穏やかに頭を下げた。
その動作のどこにも隙がない。言葉よりも先に、“訓練された者”の空気が漂う。
「証拠なら、いずれ出ます。」
低く、よく通る声が響く。
「……ただし、それを“隠そうとする者”がいなければ、ですが。」
その一言で、空気が変わった。
宰相代理の手が、わずかに震える。
ほんの一瞬――彼の顔が引きつった。
その微細な変化を、アデリアの瞳が確実に捉える。
沈黙が落ちる。
誰もが息を潜める中、アデリアはゆっくりとノアの方へ顔を向けた。
「やっぱり、あなたが来ていたのね……ノア。」
ノアは軽く片眉を上げ、微笑とも無表情ともつかない表情で応える。
「ええ。貴女が動くと聞いて、放ってはおけませんでしたから。」
ふたりの視線が交わる。
かつて刑事と情報屋として、幾つもの“真実”を暴いてきた眼差し。
あの頃の緊張と呼吸が、一瞬で甦る。
アデリアは口元にわずかな笑みを浮かべた。
「また幕が上がったわね。
――今度は、私たちの舞台で。」
ノアが静かに頷く。
そして、彼の手がわずかに動き、ポケットの中で銀の懐中時計が小さく鳴る。
その音が合図のように、場の空気が動き出す。
貴族たちの視線が揺れ、疑念が宰相代理に向かい始める中――
悪役令嬢と執事。
二人の“観察者”が、再びひとつの現場に立った。
かつて、真実を追うためにすべてを失った二人が。
いま、再び“王国の嘘”に挑むために。
劇場の扉が重く軋んだ。
治安隊の兵が、泣き崩れるエリナ・ファルサスを両脇から抱え上げる。
白いドレスの裾が引きずられ、赤い絨毯を曳くように汚れていく。
「離して……違うの……私、兄さまを――!」
少女の叫びは、誰にも届かない。
貴族たちは目を逸らし、司祭は静かに十字を切るだけだった。
扉が閉まる瞬間、音がすべてを呑み込み、劇場は再び静寂に沈む。
アデリアは動かない。
ただ、その背中を見送っていた。
まるで“罪”という名の鎖を見つめているかのように。
ノアが隣で口を開く。
低く、抑えた声で。
「……彼女が犯人ではないと?」
アデリアはゆっくりと首を横に振った。
その瞳に宿る光は、確信よりも“知ってしまった者”の冷たさだった。
「ええ。罪の色が違うわ。
――あの子は、誰かの“祈り”に囚われている。」
ノアが眉をひそめる。
アデリアの視線は、ふと天井へと向けられた。
そこには、劇場の象徴でもある聖母の壁画があった。
黄金に輝く瞳が、まるでこの場を見下ろすように光を反射している。
まるで、罪も嘘も――“赦し”の名で包み込むように。
アデリアの唇が静かに動く。
「……教会の影ね。
懺悔を捧げる者の口を、神はどうやって封じるのかしら。」
ノアがその言葉にわずかに反応する。
しかしアデリアはもう、次の“真実”を見つめていた。
かつて刑事として見上げた法の空。
今、その上に“神”という名の闇が覆いかぶさっている。
――そして、闇の中心には《ルーメン聴聞局》。
罪と赦しを操る、王国教会の影の組織。
アデリアはゆっくりと手帳を開く。
インクの滲んだ頁に、淡々と文字を記す。
【グラウス・ファイル 001】
「王都劇場毒殺事件 ― 被害者:ルネ・ファルサス」
「容疑者:エリナ・ファルサス」
「関与の可能性:教会派《ルーメン聴聞局》」
最後にペンを止め、彼女は静かに呟いた。
「――幕間は終わり。次は、本当の舞台へ。」
深紅のブローチが、蝋燭の光を受けて微かに煌めいた。




