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紅の令嬢と黒の執事 ― ヴァルディア事件録  作者: 南蛇井


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22/22

“神の名を記す者”

 夜明け前の風は冷たく、王都の外縁を流れる霧を銀に染めていた。

 アデリアは崩れかけた石の扉を押し開け、ノアの肩を支えながら中へと入る。

 そこは、かつて祈りの響いたはずの廃礼拝堂。

 今は誰にも顧みられず、ひび割れた床の隙間から冷たい月光が差し込んでいる。


 折れた十字架。崩れた聖像。

 壁の影がゆらぎ、外を通過する《声守》の捜索灯が一瞬、室内を白く照らして消えた。


 アデリアは息を整えながら、崩れた祭壇の裏にノアを座らせる。

 ノアは左腕に巻いた即席の包帯を押さえ、もう片方の手で携行端末を操作した。

 黒い画面の上を、無数の光の線が乱れ、波のように蠢く。


「……逆音波の記録、まだ生きてます。けど、断片的です。」

ノアの声はかすれていたが、その目だけは冷静だった。


 アデリアは頷き、祭壇の上に置かれた壊れかけの《リバース・コーダ》を見やる。

 焦げた金属の匂いがまだ漂っている。

 それでも彼女は、まるで眠る子どもを撫でるように装置の表面をなぞった。


「断片でも構わないわ。」

「“神”の声は、断片の集積でできている。」


 その言葉に、ノアは小さく息を呑んだ。

 礼拝堂の外では、遠くの鐘楼がかすかに鳴る。

 夜の終わりを告げる音――けれど、この静寂の中では、それさえも祈りの残響のように聞こえた。


 アデリアは月光の下、ゆっくりと息を吐いた。

 崩れた聖像の影が、彼女たちの背後に長く伸びる。

 その影の奥で、壊れた神々が静かに見下ろしていた。



 礼拝堂の奥、月光が差し込む割れた窓辺に、アデリアは小さなノート端末を置いた。

 冷えた指先が、震えを隠すように静かにキーを叩く。

 黒い画面の上に、新たなファイルが開かれる。


《GRAUS FILE / VOL.2 ― The Silent Resonance》


 その文字列が淡く光を放ち、暗闇の中に浮かび上がった。

 アデリアの瞳に映る光は、炎ではなく決意の輝き。

 指先は止まらない。彼女はただ、静かに――“記す者”としての使命を果たす。


『聴聞局の声は、神ではない。

 それを造り、操る男の名――シェル=ルーメン。』


 キーを打つたび、金属的な音が礼拝堂の静寂を刻む。

 まるで鐘の音が、真実を告げるかのように。


 ノアはその背を見つめながら、痛みをこらえて息を飲んだ。

 画面に浮かんだ名前を目にした瞬間、彼の表情が凍る。


「シェル=ルーメン……まさか、局長自身が……?」


 アデリアはゆっくりと顔を上げ、ノアを見た。

 その瞳は夜よりも深く、確信の色を帯びている。


「いいえ。――“神”を造ったのは、あの人じゃない。」

「彼自身が、“神の声”と化したの。」


 その言葉に、ノアの喉がわずかに鳴る。

 彼の胸中に浮かぶのは、あの聖堂で聞いた“赦し”の残響。

 それが、今なお彼女の体内に息づいていると気づいた瞬間だった。


 アデリアは入力を終えると、画面を閉じ、指先で封印コードを刻む。


《Veritas_00》


 ――真実の初期化。

 青白い光がファイルを包み、やがて沈黙の中に消えた。


 月光が再び射し、彼女の頬を照らす。

 その横顔は、祈りを捨てた聖女のように静かで、美しかった。



保存を終えたはずの端末が、ふいにかすかな光を放った。

 黒い画面の片隅で、微弱な波形が脈を打つように動いている。

 まるで、アデリアの書いた言葉そのものが――呼吸を始めたかのようだった。


 ノアは息をのむ。

 画面を覗き込み、わずかに震える波の形に目を凝らす。


「……まだ動いてる。まるで“読まれている”みたいだ。」


 アデリアは静かに端末を閉じず、その波を見つめ続けた。

 瞳の奥に宿るのは、恐れではなく、確信。


「ええ。“声”は、記された瞬間に新しい命を得る。

 書くことは――呼ぶことと同義よ。」


 彼女の声が、冷たい空気の中に溶けていく。

 それと同時に、波形の律動がわずかに早まり、まるで応答するように震えた。

 ノアの指先が思わず机を握りしめる。


 礼拝堂の外から、かすかに鐘の音が響いた。

 低く、深く、ゆっくりと――夜を切り裂くように。

 その音が、静寂に包まれた二人の間を通り抜ける。


 アデリアは目を閉じ、音の余韻を胸に刻む。

 鐘楼が告げるのは、夜明けの予兆。

 だがその音色は、彼女には別の意味を持って聞こえた。


「……始まるのね。次の“儀式”が。」


 ノアは答えられず、ただ隣でその言葉を聞いていた。

 画面の波形がゆっくりと形を変える。

 まるで――誰かが、文字の向こうから“読み返している”かのように。


 外の鐘が、六つ目の音を告げた。

 夜が終わりを迎えるとき、“声”がまた一つ、息を吹き返した。


 王都の空を裂くように、鐘が鳴った。

 夜明け前の蒼に沈む街を、低く、重く、深く震わせながら。

 その音は祈りではなく――宣告のように響いていた。


 カットは、聴聞局の尖塔。

 聖堂のような静寂の中、巨大な鐘の下に立つひとりの男の姿。

 《聴聞官長 シェル=ルーメン》。


 彼は仮面を外していた。

 純白の面が床に転がり、淡い光を反射して揺らめく。

 その視線は、前方の鏡――《聴聞鏡》と呼ばれる巨大な反射面へと向けられている。


 鏡の奥には、彼自身の影と、もう一つの“存在”が重なっていた。

 黒い光の粒子が漂い、彼の輪郭を滲ませる。

 それは、神核に宿る幻影。

 かつて人が“神”と呼んだ、人工の声の残響。


 シェルは静かに片手を上げ、その幻影に触れるように指先を伸ばす。

 指が鏡面に触れた瞬間、光が波打った。


「真実を記す者か……。」


 低く、深い声。

 それは彼の喉からではなく、鏡の奥――“神核”の共鳴から発せられていた。


「ならば、読み解いてみせよ――我が“声”を。」


 鏡面が脈動し、赤い光が浮かび上がる。

 それは一つの名前。

 ――“アデリア・クローヴ”。


 その名が刻まれた瞬間、鐘の音がふっと途切れた。

 世界が一拍の無音に包まれ、鏡の波紋だけが揺らめき続ける。


 塔の外、朝焼けの前の風が流れ、街の屋根を撫でていった。

 遠くで鳥が鳴く。

 そして、静寂の中にわずかに残る、最後の残響。


 ――声はまだ、終わっていない。


 ――闇が、静かに閉じていく。


 鐘の余韻が遠ざかり、画面あるいはページの中に、淡い光が浮かび上がる。

 それは古い端末のディスプレイのようでもあり、書物の一頁のようでもある。


 ゆっくりと、白い文字が現れる。


『第7節:沈黙の都(The City of Silent Echoes)――coming soon』


 文字が震え、砂塵のように崩れ始める。

 ノイズの奥、ひとつの筆跡が滲み出る。

 黒いインクの走りが、まるで血管のように光を帯びて流れた。


 それは――アデリアの筆跡。

 強く、迷いのない線。

 彼女の声が、文字として残る。


『私は、まだ記している。

 “神の声”を、真実の名に戻すために。』


 最後の一滴のインクが落ち、光が途絶える。


 静寂。


 そして、遠く――誰かの呼吸音。

 それが次なる物語の始まりを告げるように、微かに響いた。


 ――〈to be continued〉――

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