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紅の令嬢と黒の執事 ― ヴァルディア事件録  作者: 南蛇井


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追跡 ― 聴聞局の黒衣たち

王都の夜が、まだ深い闇に沈んでいた。

雨上がりの路面を走る二つの影――アデリアとノア。

旧研究棟を離れたばかりのその瞬間、聴聞局の上層では無数の監視盤が一斉に赤く灯る。


監視官:「反応、南西区へ移動中――“記す者”を確認!」

指揮官:「《声守》を出せ。対象は“神核暴走”の関係者だ。」


探知波が夜空を貫く。

魔導波の脈動は、まるで生き物の鼓動のように街全体へ拡散していく。

その中心――反応源は、逃走中のアデリアの胸元に宿っていた。


彼女の体内には、あの夜の“声”がまだ残響していたのだ。

耳の奥で微かに震える囁き。

沈黙を破ることなく、彼女の存在を世界へ告げる無形の信号。


一方、聴聞局の地下格納庫では、黒い影たちが動き出す。

無音の命令に従い、列をなし、夜気の中へと消える。


彼らの名は――《声守ヴォイスガード》。


声を持たず、声を守る者たち。

防音装甲で全身を覆い、仮面の奥に感情はない。

ただ“声”の指令のみを聞き、その通りに動く存在。


月の光さえも拒むように、彼らは闇の中を進む。

その足音はなく、ただ空気だけが微かに震える。

追跡はすでに始まっていた――

「神の沈黙」を破った者を、再び“記録”へ戻すために。


王都南区の路地は、夜霧に沈み、灯りひとつない。

アデリアは外套を押さえながら角を曲がり、背後の気配を確かめた。

追手の足音は聞こえない――それでも、彼女の皮膚は確かに感じていた。

“声”が、近づいている。


ノアが息を荒げながら手首の端末を操作する。

薄青い光の中、通信制御の魔法陣が乱れ、波形がざらつくノイズに塗りつぶされていく。


ノア:「……奴ら、“声”を追ってる。あなた自身が――信号源です。」

アデリア:「なら、導いてあげましょう。私たちの“真実”の方へ。」


その言葉と同時に、鐘楼が鳴った。

低く、長く、王都全域に響く鐘の音。

まるで追跡の開始を告げる合図のように。


アデリアは視線を上げ、古びた鉄柵を蹴り上げる。

隙間から流れ出す湿った風。

二人はそのまま、闇の口――地下排水路へと身を滑り込ませた。


狭い通路を抜けると、地下運河が広がる。

黒い水面の上、灯りのない天井から雫が落ち、ひとつ、ふたつと音を立てる。

符文灯が途切れ途切れに点滅し、淡い光が二人の顔を照らした。


水面に映るのは、逃げる者と、追う“声”。

その境界は、もはや曖昧だった。


ノア(息を整えながら):「信号、強くなってます……彼ら、もう近い。」

アデリア:「――構わないわ。

 “声”が導くのなら、その先にあるのは、嘘の終焉。」


二人は互いに短く頷き、濡れた石の通路を駆け出す。

足音が、心拍と、水滴の音と、世界の鼓動に溶けていく。


闇の底で、真実が――微かに息づいていた。


闇が震えた。

水面の反射光がわずかに揺れた瞬間、奥のトンネルから無音の影が滑り出す。

黒衣に包まれ、仮面の下に感情の一欠片もない存在――《声守ヴォイスガード》。


彼らは言葉を持たない。

代わりに、腕に装着された共鳴刃レゾナンス・ブレードが、音もなく空気を裂いた。

鋭い閃光とともに、見えぬ波が走る――空間そのものを震わせる斬撃。


アデリアが咄嗟に身を屈めた瞬間、背後でノアが詠唱を終える。

光の盾が展開し、反響波を受け止め――だが、その防壁はたやすく跳ね返された。


ノア:「っ――ぐッ!」


反動が彼の肩を直撃し、石壁に叩きつけられる。

火花が散り、魔術陣が崩壊。

湿った床に彼の血が一滴、落ちた。


アデリア:「ノア!」

ノア(苦痛の中で微笑み):「平気です……少し、耳がうるさいだけだ。」


アデリアはその言葉に息を呑み、すぐに懐へ手を伸ばす。

指先に触れる冷たい金属――携帯型リバース・コーダ

装置を構え、スイッチを押し込む。


瞬間、逆音波が放たれた。

空気が反転し、地下水路全体が震える。

《声守》の共鳴刃がうなりを上げて歪み、刃の軌跡が乱れる。


水面が激しく波立ち、壁面の符文灯が明滅。

黒衣の影たちが一瞬、後退した。

彼らの仮面の奥に、初めて“戸惑い”の気配が生まれる。


アデリア(低く):「声で攻めるなら――音で沈める。」


逆光の中、アデリアの瞳が青白く光る。

風が通路を駆け抜け、ノアの耳にその声が届いた。

まるで、沈黙の戦場で唯一響く“人の意志”の音。


影と光、声と無音。

そのすべてが交錯する地下の闇の中で、

“神を壊すための戦い”が、静かに幕を開けた。


水路を走る足音が、次第に重く鈍っていく。

ノアの呼吸は荒く、左肩からは焦げた布と血の匂いが漂っていた。

魔導機のコアは断続的に火花を散らし、彼の制御符が焦げ落ちる。


アデリア:「……もう限界よ、止血を――」

ノア(苦笑して首を振る):「まだ動けます。記録が……途切れる前に……」


その時、頭上で轟音。

崩落した橋梁が通路を塞ぎ、二人の間に土砂が降り注ぐ。

黒衣の追手たちが背後から迫り、影が揺れる。

出口は――もう一つしかない。


アデリアは一瞬、立ち止まり、ノアを見た。

彼の額に浮かぶ汗、唇のかすかな震え。

それでも、その眼だけは、まっすぐ彼女を見返していた。


アデリア(唇を噛みしめながら):「生きて、書くのよ。あなたの手で。」

ノア(微笑して):「なら、あなたは読むんです。真実を――最後まで。」


ノアは懐から通信石を取り出し、アデリアの手に握らせた。

それは聴聞局の暗号層を突破できる、唯一の接続鍵だった。


ノア:「これで、外と繋がる……行ってください。」


アデリアは言葉を失った。

目の前で、崩れかけた橋がきしみ、彼の立つ側の通路が沈み込む。

それでも、ノアは笑っていた――まるで、別れを受け入れるように。


アデリア:「……必ず、迎えに行くわ。」

ノア:「それまでに書いておきます。――あなたが読む“終わり”の物語を。」


アデリアが通路を駆け抜けた瞬間、土砂が完全に崩れ落ちる。

轟音とともに、水煙が上がり、二人の視線が途切れた。


崩れた橋の向こうで、《声守》の影が再び現れる。

ノアは静かに息を整え、最後の魔術陣を起動した。


ノア(小さく):「――“記録者”は、まだ終わらない。」


黒衣の群れが音もなく包囲する中、光が彼を飲み込んだ。


激しい水音が、血の鼓動と混じり合って響いていた。

アデリアは崩落した橋の反対側――冷たい流れの中をただ前へと進む。

足元の石畳は滑り、灯りも届かぬ暗闇。

それでも彼女は止まらなかった。


背後で、ノアの魔導機が閃光を放つ。

水面を切り裂くように白い光が走り、次の瞬間、轟音。

――世界が、音を失った。


まるで“神”が、再び沈黙を選んだかのように。


アデリアは水に流されながら、震える指で通信石を握りしめる。

掌に残るノアの体温が、まだ消えない。


アデリア(心中):「記す者が倒れても、声は残る。

 なら、私は読む――神の沈黙の、続きを。」


彼女の瞳に、遠くの出口から差し込む微かな光。

夜明け前の薄明が、波の向こうで揺らめいていた。


暗転。


その静寂の中、かすかな声が響く。

それは、ノアのものでも、“神”のものでもない――

どこかで、誰かが、まだ“記している”声。


『――記す者よ、まだ終わってはいない。』


光が一筋、水面を照らす。

そして、沈黙の物語は、次の頁へと――滲み始めた。

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