“神の声”の逆流
旧研究棟の最上階――かつて研究者たちが夜を明かした管制室。
窓の外は深夜の王都、霧に覆われた尖塔の群れが青白くぼやけている。
ノアは、薄暗い部屋の中央に立ち、古びた観測機のモニターを凝視していた。
画面上では、アデリアが送った“逆音波データ”が複雑な波形を描きながら展開されていく。
彼の指先が滑らかに魔導盤を操作し、解析を進める。
だが――そのとき、波形の一部が奇妙に歪んだ。
音の律動が途切れ、規則だったはずの信号が急激に膨張を始める。
波は重なり、ぶつかり、やがて自らを増殖させる音へと変質した。
ノア(独白):「……逆波が……戻ってきている? 反転じゃない……共鳴だ!」
低く呟いた瞬間、観測機の制御盤が淡く光を帯びる。
音ではなく、何かが“応答”している。
次の瞬間、モニターが真白に染まり、
聴聞局地下――アデリアが潜入している“懺悔聖堂”との回線が、強制的に再接続された。
耳を刺すノイズ。
そこから流れ出したのは、祈りの旋律ではない。
『――赦せ。赦せ。赦せ。……記せ。記せ。記せ――』
ノアの眉が僅かに動く。
その声はまるで、無数の人間の祈りが一つに溶け合い、誰かの命令に書き換えられたようだった。
ノア:「……アデリア、すぐに離脱を――!」
返答はなかった。
ただ、耳の奥で“祈り”とも“命令”ともつかぬ残響が、
止まることなく彼の鼓膜を叩き続けていた。
聴聞局本庁舎・地下――懺悔聖堂。
アデリアは黒衣を翻し、崩れかけた回廊を駆け抜けていた。
耳の奥でまだ“神の声”の残響が蠢いている。
だが、それよりも恐ろしいのは――背後から迫る音だった。
「――ッ!?」
振り返った瞬間、聖堂中央の“神核”が再び点灯する。
白金色の光が奔流のように溢れ、空気そのものが震え始めた。
低周波が床を這い、壁面の懺悔石を次々と破裂させていく。
パリン――パリン――パリン――!
無数の金光の破片が宙を舞い、まるで光の雨のように降り注ぐ。
祈りの声が反響し、形を失った言葉が重なり合っていく。
やがて、それは“歌”でも“祈り”でもない――狂った共鳴音へと変貌した。
信者たちが次々と崩れ落ちる。
瞳は虚ろに開き、唇から途切れ途切れの聖句が漏れる。
「……赦しを……与えよ……我らは……声……」
アデリアの背筋に冷たいものが走る。
アデリア(心中):「……これは、波の“逆流”。
“神”を造った装置が、いま――自らを喰らっている……!」
神核の表面にひびが走る。
そこから噴き出す光は、もはや神聖ではなく、暴力的な白熱そのもの。
耳鳴りと共に床が裂け、魔導回路が露出し、光柱が天井を貫く。
吹き荒れる魔力の奔流。
アデリアは腕で顔を覆い、重力に逆らうように必死で出口へと走る。
黒衣の裾が焦げ、背後で“神の声”が叫ぶように反響した。
『――記せ。赦せ。記せ。赦せ――!』
聖堂は、祈りと絶叫の区別を失った音の牢獄へと変わっていった。
聴聞堂の扉を叩き破った瞬間、アデリアの全身を衝撃波が貫いた。
背後で“神核”が崩壊音を上げ、空気が逆流する。
――爆発ではない。
「音」そのものが圧力となって押し寄せてきたのだ。
耳鳴りが世界を塗りつぶし、空間がぐにゃりと歪む。
聴覚が焼けつくように痛む。
まるで鼓膜の内側から、誰かがノックしているような感覚。
ノア(通信・ノイズ混じり):「……アデリア……応答を……ッ、アデリア……!」
断片的な通信が、耳の奥にかすかに刺さる。
アデリア(息を切らせ):「ノア、核が――暴走してる!
全信号が……逆流してるの!」
壁が崩れ、天井の彫像が音の奔流に砕かれて落下する。
アデリアはその下を滑り抜け、崩れた階段を蹴って上へ。
呼吸が荒い。肺が焼ける。
それでも――止まれない。
背後から、耳の奥にこびりついた声が囁く。
『――記す者よ、赦されたいか?』
その言葉は、かつて聴いた“神の声”と同じ響き。
だが今は、祈りではなく呪詛のように彼女の脳を刺した。
アデリアは歯を食いしばり、足を止めずに答える。
「……黙れ。“赦し”なんて、いらない。」
その瞬間、彼女の周囲の空気がわずかに静まる。
“神の声”が、初めて沈黙した――
まるで、彼女の拒絶を理解したかのように。
だが次の瞬間、地下全体が悲鳴のような共鳴音を上げた。
世界が、まだ終わっていないことを告げるように。
旧研究棟の薄暗い実験室。
ノアは必死に通信装置を叩きながら、ノイズまみれの回線を追っていた。
――その時、扉がきしむ音が響いた。
煤と埃に覆われた影が、ゆっくりと中へ入ってくる。
黒衣の裾を引きずり、肩で息をするアデリア。
足取りは覚束ないが、その瞳だけは確かに焦点を持っていた。
ノア:「……あなた……“声”を直接、聞いたんですか?」
ノアの問いは、息を呑むような低さで響いた。
彼は椅子を蹴って立ち上がり、アデリアへと駆け寄る。
アデリアは答えるまでに少し時間をかけた。
喉が乾き、言葉が砂のように崩れていく。
それでも、彼女は口を開いた。
アデリア:「……あれは神じゃない。人間の声よ。」
沈黙。
ノアの胸の奥が、冷たいものに締め付けられる。
アデリアの耳元に目をやると、そこから赤い雫が静かに伝っていた。
血だ。
しかしそれ以上に、鼓膜の奥が――淡く光っている。
まるで、音そのものが彼女の中に刻まれたように。
ノア(小声で):「……残響が、まだ……」
アデリアは瞼を閉じ、椅子に身を預ける。
その表情には疲労と、ほんのわずかな確信。
アデリア(心中):「“神”は終わっていない……。でも、もう――聞こえている。」
実験室の照明が一度だけ瞬き、再び暗闇へと沈む。
その闇の中、アデリアの鼓膜に宿った光だけが、かすかな脈動を続けていた。
モニターに走る光の線が、ひときわ鋭く脈打った。
ノアが慌てて記録装置のスイッチへ手を伸ばす。
だが、指先が触れた瞬間――画面が“生き物”のように揺らめいた。
波形がアデリアの鼓動と完全に重なり、リズムを刻む。
低い電子音が室内を満たし、空気が震えた。
ノア:「……嘘だろ、これは……心拍が……共鳴している?」
彼のつぶやきと同時に、モニターの中心からノイズ混じりの音声が漏れる。
最初は雑音のようなざらつき。だが次第に、明確な“声”へと変わっていく。
『……アデリア・グラウス……次の“儀式”を始めよう。』
冷たい言葉が、まるで深海の底から泡のように浮かび上がる。
アデリアの身体がわずかに震えた。
ノアが顔を上げる。
二人の視線が交錯する――何も言葉はいらなかった。
その瞬間、モニターの波形がまるで心臓の鼓動のように跳ね上がり、
淡い光がアデリアの耳の奥で脈打つ。
静寂。
だがその沈黙の底で、確かに“声”が息を吹き返していた。
――“神の声”が、再び目を覚まそうとしていた。




