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紅の令嬢と黒の執事 ― ヴァルディア事件録  作者: 南蛇井


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2/22

事件発生 ― 王都グラン・テアトル

――赤いワインが、絨毯を這うように広がっていった。

その中心で、侯爵家の嫡男ルネ・ファルサスが、白目を剥いて崩れ落ちる。


一瞬の静寂。

そして、地を割るような悲鳴。


「きゃああっ――!」「毒よ! 毒を盛られたのよ!」


貴族たちが椅子を倒して立ち上がる。

夫人が裾をつかみ、男たちは出口へ押し寄せる。

絹の衣擦れ、硝子の割れる音、混乱は音の奔流となって劇場を満たした。


舞台の上では演者が動けずにいる。

指揮者がタクトを落とし、楽団員たちが茫然と顔を見合わせる。

――やがて、幕が強制的に降ろされた。


その中で、ひとりだけ冷たい静寂の中に立っていた者がいた。


黒のドレスの女、アデリア・グラウス。


彼女は席を蹴るように立ち上がると、視線をすばやく走らせた。

逃げ惑う観客の流れ、給仕が去った方向、転がるグラス、濡れた絨毯。

わずか数秒で、劇場の全景を――「事件現場」として――脳裏に描く。


舞台照明が明滅し、赤と金の光が断続的に彼女の顔を照らす。

アデリアは一歩、崩れ落ちた貴族の方へと歩みを進めながら、

静かに息を吐いた。


「逃げようとする者。見ようとしない者。……そして、見られることを恐れる者。」


彼女の瞳は、群衆の中の“誰か”を捉えて離さなかった。

まるで、舞台の幕が落ちるよりも前に――すでに“真実の幕”を上げていたかのように。




医師の白衣が、舞台照明の残光を受けて鈍く光った。

彼は慌ただしくルネのもとに駆け寄り、首筋に指を当てる。

……脈が、ほとんどない。


「脈拍低下、呼吸浅い――! すぐに空気を通せ、急げ!」

医師は叫ぶが、近くの貴族たちは誰も動けなかった。

悲鳴とざわめきの中で、アデリアだけがその様子を無表情に見つめる。


医師が胸部を押さえ、唇を震わせながら呟く。

「……呼吸筋麻痺。毒……だ。毒物の可能性が高い。」


周囲の空気が一瞬で凍りついた。

貴婦人が口元を押さえ、若い令息が椅子を蹴倒す。

ざわめきは雪崩のように広がり、誰もが隣の顔を疑い始める。


医師は震える手で、ルネのグラスの残り香を嗅いだ。

微かな花の匂い――それは、誰もが知るはずのない香り。


彼は蒼白になり、低く告げる。


「……黒睡蓮毒ナイト・ロトゥス。微量でも即効性がある。致死濃度だ。」


その名が響いた瞬間、劇場全体がざわめいた。

「まさか……暗殺?」「評議会の派閥争いか?」「いや、政敵の仕業だ!」

憶測が飛び交い、貴族たちは互いに距離を取り始める。


アデリアは、静かに視線を落とした。

ワインの香り、グラスの角度、倒れた椅子の向き――

すべてを記憶の中に焼きつけていく。


「黒睡蓮毒……。まるで、舞台に合わせて選ばれた毒ね。」


その声は誰にも聞こえなかった。

ただ、沈みゆく音楽の余韻だけが、死の静寂を包み込んでいた。




「全員、席を立つな!」


怒号が劇場の天井を震わせた。

立ち上がったのは、王国宰相代理――白金の紋章を胸に掲げた男だ。

彼の声には、貴族たちのざわめきを一瞬で封じるだけの権威があった。


「誰ひとりとして外へ出すな! 治安隊を呼べ! ――出入口を封鎖しろ!」


その命が響くと同時に、劇場の重厚な扉が“ガシャン”と音を立てて閉まった。

外から兵士たちの声。

内側では、恐怖のざわめきが波紋のように広がっていく。


「封鎖って……どういうことですの?!」

「まさか、我々の中に……犯人が?」

「ありえん! 私は宰相府の客人だぞ!」


怒鳴り声、抗議、泣き声。

誰もが誰かを疑い、誰もが自分だけは安全だと信じたがっていた。


舞台袖の赤い幕が、微かに揺れる。

アデリアはその揺らぎを横目に、静かに呼吸を整えた。


――閉じられた空間。逃げられない群衆。

刑事として何度も見た“密室の始まり”だった。


「これは神の試練だ!」

唐突に、教会司祭が壇上へ進み出て、両手を広げた。

金糸の法衣が光を反射し、観客の不安をさらに煽る。

「神は、真実を暴かんがために、この夜を選ばれた!」


その声に、誰かがすすり泣き、誰かが怒鳴り返す。

混乱は混沌へと変わり、劇場はもはや礼節を失った群集の檻と化していた。


アデリアは、冷えた瞳でその光景を見下ろす。


「……幕は下りたのに、芝居はまだ終わらない。」


彼女の視線は、封じられた扉の向こう――

これから始まる“真の劇場”を、すでに見据えていた。



喧噪の渦中、アデリアだけが“静止”していた。


貴族たちが悲鳴を上げ、侍従たちが右往左往する中――

彼女はドレスの裾をわずかに持ち上げ、崩れたテーブルへと歩み寄る。


砕けたグラスが散らばり、赤い液体が絨毯の繊維に吸い込まれていく。

ワインの香りの奥に、かすかな異臭。

その香りを嗅いだ瞬間、アデリアの表情がわずかに動いた。


彼女は視線を滑らせる。

倒れた椅子――

踏みつけられた跡――

ワインが流れた方向――

そして、まだ誰も気づいていない「注がれた痕」。


指先でグラスの縁をなぞると、液面の内側に、わずかに波の跡。

それは、注がれたのが一度きりではない証拠だった。


「……液面の高さ。毒はグラスに直接入れられた。

 なら、注いだのは――“あの時”ね。」


彼女の声は、まるで観察記録を読み上げるように低く落ち着いていた。


視線が、客席をすべる。

給仕たちの列――その中に、ひとりだけ違和感。


黒髪を後ろで結った女給。

他の者たちより一歩遅れて動き、

周囲の混乱を避けるように、舞台袖の陰へと消えていく。


ほんの一瞬。

それでも、アデリアの眼は確かにその影を捉えていた。


「黒髪の……給仕?」


舞台の照明がちらつき、赤と金の光が彼女の瞳に映る。

まるで、狩人が標的の足跡を見つけた瞬間のように。


アデリアは、静かに立ち上がった。

群衆のざわめきの中で――ただひとり、“捜査官”の表情をしていた。



ざわめきはなお収まらず、劇場のあちこちで貴族たちが声を張り上げていた。

「医師をもっと呼べ!」「宰相閣下をお守りしろ!」

混乱を鎮めようと、劇場職員たちが慌ただしく走り回る。


だが――その中に、ひとりだけ異質な動きをする者がいた。


黒い燕尾服。無駄のない歩幅。

騒音に惑わされることもなく、まるで舞台の裏方が舞台全体を掌握しているかのような落ち着き。


彼は倒れたルネの周囲を一瞥すると、即座に指示を飛ばす。

「空気を入れ替えるな。扉を開けると匂いが散る。……このまま保て。」

職員が反射的に従う。

その声音には、命令よりも確信があった。


アデリアの視線が、自然にそちらへ向く。


灯りの揺らめきの中、男の横顔が浮かび上がる。

整えられた白手袋、少し乱れた前髪、灰色の瞳――

その立ち姿は、記憶の中と寸分違わぬ“執事”のそれだった。


(……ノア・クレイン。)


彼は何も言わず、ただ混乱の渦の中で静かに動き続けている。

まるで、全てを見通しているかのように。


アデリアは唇をかすかに動かした。


「……久しぶりね、ノア。」


二人の視線が、一瞬だけ交差する。

騒音の中、互いの表情はほとんど読めない。

だがその一瞬――

“相棒としての記憶”が、灰の中から息を吹き返す。


舞台の幕が下りた後の静寂のように、

アデリアの胸の奥で、かすかな熱が灯った。


次に動く時、彼女はもう――

観客ではなく、“捜査官”として舞台に立つのだ。


劇場は、まるで巨大な棺のように沈黙していた。


外では治安隊が扉を固め、

中では貴族たちが互いに目を逸らしながら、疑いを噛み殺している。

さっきまで華やかだった音楽の殿堂は、

いまや恐怖と沈黙の牢獄だった。


アデリアは、客席の影に身を寄せていた。

群衆のざわめきが遠のくほどに、彼女の世界は澄んでいく。


――混乱の中でしか、真実は見えない。

かつて、刑事だった頃に身に沁みた教訓だ。


ドレスの袖口から、小さな革の手帳を取り出す。

それは、家の崩壊のあともただひとつ手元に残った、

グラウス家の記録帳――罪と観察の血脈を記すもの。


埃をかぶったそのページを、彼女は迷いなく開いた。

ペン先が、静かに紙を滑る。


【グラウス・ファイル 001】

「王都劇場毒殺事件 ― 被害者:ルネ・ファルサス」


記す音だけが、劇場に微かに響く。


アデリアはページを閉じ、薄く笑った。


「さあ――再び、観察を始めましょう。」


その瞳には、恐怖も哀れみもない。

ただ、沈黙の中に潜む真実を照らす観察者の光だけがあった。


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