“懺悔儀式”の夜
――王都時刻、午後十一時半。
聴聞局本庁舎の地下、そのさらに奥――封印されたはずの階層。
人目に触れることのない円形の聖堂が、闇の底で静かに息づいていた。
天井は天鵞絨のように高く、壁一面に嵌め込まれた《懺悔録音石》が淡い金光を放つ。
光は微かに脈打ち、まるで“生きている祈り”がそこに封じられているかのようだった。
空気は異様に澄み、冷たく重い。
低く響く聖歌が、どこからともなく流れ、耳ではなく骨を震わせる。
旋律は一見して敬虔だが、よく聞けば言葉を持たない――ただ“音”の形を借りた命令の連なり。
円形の床の中央には、黒曜石の台座に載せられた音響装置。
《神核》――聴聞局が“神の声”を具現化するために造り上げた魔導機構。
その表面には無数の魔導文字が刻まれ、光脈が網のように走っている。
時折、低周波の振動が床を這い、石の継ぎ目が小さく鳴った。
聖堂の奥、祈りの列に紛れ込む一つの影。
黒い外套に身を包み、顔を覆う仮面の下から、静かな眼差しが覗いていた。
――アデリア・グラウス。
懐に忍ばせた《逆音波記録装置》が、彼女の鼓動と同じリズムで微かに震えている。
その指先には迷いはなく、ただ冷たい確信だけがあった。
「祈りの音に、嘘が混じるなら――
その沈黙こそが、真実の証明になる。」
金光が脈打つたびに、彼女の影は伸び、そして消える。
その足元には、誰も知らぬ“記録の夜”が、今まさに幕を開けようとしていた。
懺悔聖堂に、息をひそめるような祈りの列が並んでいた。
信者たちは皆、黒い巡礼衣に身を包み、顔の半ばを銀の仮面で覆っている。
一歩ごとに、衣擦れの音が静寂の中へ吸い込まれていく。
その列の中に、ひときわ細い影――アデリアがいた。
黒衣の巡礼者として完全に溶け込みながらも、彼女の背筋は異様なほどに真っ直ぐだった。
仮面の奥の瞳だけが、冷たく、確かな意志を宿している。
胸の内ポケットに隠された小型の魔導機が、鼓動に合わせて微かに震えた。
《逆音波記録装置》――ノアが設計した、禁制級の記録機。
神核が発する魔導波を“逆解析”するための装置であり、もし見つかれば即刻、異端として処刑対象となる代物だ。
(……ノア、聞こえる?)
心の中で呟くように、アデリアはわずかに唇を動かした。
耳朶の裏、魔導通信具からかすかなノイズが返る。
ノア〈通信〉:「……聞こえて……アデリア、感……波、強……」
アデリア〈囁き〉:「問題ないわ、続行する。」
通信は断続的で、まるで深海越しの声のように歪んでいた。
だが、それでも十分だった。彼女は、ただひとりではない。
聖堂の中央、告解師たちが円陣を組んで立っていた。
全員が同じ銀の面具をつけ、胸元には聖印の刻まれた黒衣。
彼らの声は低く、均一で、人間の温度を欠いている。
告解師たち:「主よ、我らは語り、記され、赦されん――」
その声が聖堂全体に響き渡ると、床の下で《神核》が微かに唸りを上げた。
装置を通じて拡声された“祈り”は、もはや人の声ではない。
それは――命令。
聴く者の理性を削ぎ、従順の本能を呼び覚ます“声”。
アデリアは列の中で、目を閉じた。
その声の奥に潜む“構造”を、肌で、心で感じ取る。
彼女の懐の《リバース・コーダ》が、無音の波を返していた。
(この波形……ノアの解析通り。神の声――は、造られた。)
祈りの旋律がさらに強まり、聖堂全体が震える。
灯が瞬き、壁の録音石が脈動を始めた。
そのとき、ノアの通信がふいに明瞭に響く。
ノア〈緊迫した声〉:「アデリア、信号値が異常だ。……中枢から、逆位相の波が――」
(……わかってる、来る。)
アデリアは、そっと仮面の下で息を吐いた。
“神”が、こちらを見た。
冷たい、無垢な視線のような声が、脳の奥に直接触れてくる。
「記す者よ、見えているのだろう。――次は、お前の罪を聞かせてくれ。」
聖堂の光が、白く、眩しく、崩れ落ちるように弾けた。
聖堂の扉が静かに開いた。
外の闇よりも深い影が、内部に沈む。
白い霧のような光が床をなぞり、列を成した信者たちを照らしていく。
ひとり、またひとり――無言のまま、足を進める。
誰もが下を向き、誰もが赦しを乞う者のように。
その最後尾に、アデリアの姿があった。
黒衣の裾を引き、銀仮面の奥で瞳を閉じる。
仮面の縁からこぼれた呼気が白く揺れ、やがて聖堂の冷気に溶けていく。
アデリア(心中):「誰もが赦しを乞う。
だが――赦しの定義を決めるのは、いったい誰?」
祈りの列は、中央の祭壇へと向かっていた。
壇上には巨大な球体――《神核》が静かに鎮座している。
滑らかな金属面がわずかに波打ち、光の輪を生むたびに、床の魔法陣が反応して微かに脈動した。
神官が両手を掲げる。
その動きと同時に、低い祈祷音が聖堂の奥から流れ出す。
まるで地の底から響いてくるような、鈍い共鳴。
空気が震え、胸骨の奥を直接叩く。
アデリアの視界が揺らぐ。
周囲の信者たちは恍惚の表情を浮かべ、祈りの姿勢を保ったまま微動だにしない。
音が――変わっていく。
聴覚の範疇を超えた“何か”が、脳髄の奥に侵入してくるような圧。
その中心で、神核が脈打つたび、金光の波紋が広がった。
アデリア(心中):「……これが、“神の声”?」
彼女は、静かに目を開けた。
耳ではなく、心の底で何かが“命じて”いた。
アデリアは列の中で、静かに胸元へと手を差し入れた。
衣の下、銀色の留め具に指先が触れる。
そこに仕込まれた小型魔導機――《逆音波記録装置》が、かすかな震動を返した。
彼女は祈りの姿勢を崩さぬまま、装置の紋章に触れる。
青い光が、指先の下でひときわ強く瞬いた。
ノア(通信・微かに):「……逆音波、安定しています。
聴聞局式波形、捕捉中……ノイズ値、閾下です。」
ノアの声が、砂嵐にまぎれるように届いた。
アデリアは短く息を整え、視線だけで神核を見つめる。
その表面の光がゆっくりと脈動し、聖堂全体が呼吸するように明滅していた。
その瞬間――視界が、ぐにゃりと歪む。
光が白く、音が遠く、世界の輪郭が崩れる。
耳の奥で、ひとつの“音”がすべてを飲み込んだ。
信者たちの祈りが、個々の声を失い、
やがて完璧な一つの“波”となって収束していく。
アデリア(心中):「これは……祈りじゃない。――命令だ。」
床の文様が共鳴し、空気そのものが震動する。
神核から放たれる金光が、まるで脳の奥を撫でるように滑り込んできた。
《リバース・コーダ》が、熱を帯びはじめる。
彼女の胸元から淡い蒸気が立ち上り、
魔導装置の符号が、ひとつ、またひとつと赤に変わっていった。
アデリアは歯を食いしばる。
祈りの群衆の中でただ一人、彼女だけが逆方向に“聴いて”いた。
突如として、聖堂の光が爆ぜた。
神核の中心が閃光を放ち、淡金の輝きが空間を満たす。
次の瞬間――すべてが止まった。
祈りの声も、衣擦れも、息遣いさえも。
数百の信者が、一斉に静止したまま、まるで時間そのものが凍りついたかのようだった。
ただ、神核だけがなおも鼓動を続け、低い唸りを空間に響かせている。
アデリアは息を詰める。
光が視界を灼き、脳の奥で何かが触れる。
――“それ”は外からではなかった。
声が、意識の内側に直接、滑り込んでくる。
「――赦されたいのだろう?」
その言葉が響いた瞬間、アデリアの膝がわずかに揺れた。
音ではない。
振動でもない。
“意味”だけが脳に突き刺さる――異様な感覚。
アデリア(心中):「……違う。これは“祈りの返答”じゃない。
――誰かが、私を見ている。」
胸の装置が激しく脈打ち、赤い警告光が点滅を繰り返す。
耳に入るはずのノアの通信は、完全に途絶していた。
代わりに、世界のどこからともなく、“赦し”の残響がこだまする。
「見えているのだろう、記す者よ……」
空気が揺らぎ、アデリアの背筋を氷のような感覚が走り抜けた。
神核の中心が、心臓の鼓動のように脈動を始めた。
淡金の光が渦を巻き、空間の中央にひとつの人影を形づくっていく。
光の粒が収束し――そこに、現れた。
白銀の衣、静かな微笑、そして、見覚えのある無機質な眼差し。
《聴聞官長シェル=ルーメン》。
だがそれは肉体ではない。
懺悔石に残された“意識の残響”――神核が再構成した幻影。
シェル(幻影):「記す者よ、見えているのだろう。――次は、お前の罪を聞かせてくれ。」
その声は、空気ではなく、意識の奥で直接響いた。
アデリアの体が硬直する。
神の声を模したその響きは、あまりに人間的だった。
優しく、静かで――だが、絶対の支配を孕んでいる。
足元で光が走る。
円環状の紋が床に浮かび、彼女の影を包み込んだ。
魔法陣が点滅し、鼓動と同調するたび、神核の中心が呼吸のように膨張する。
まるで彼女の心臓そのものが、装置に取り込まれていくようだった。
アデリア(心中):「……なるほど。“神”は、人の声を盗んで造られる。」
唇が微かに震える。
恐怖よりも、怒りの熱が胸を焼く。
彼女は懐から装置を取り出す。
《逆音波記録装置》の魔導回路が赤く光る。
ノイズが走り、空気がねじれる。
アデリア(心中):「嘘を真実に変えるために――記す。」
スイッチを押す。
瞬間、神核が悲鳴のような音を上げ、光が暴走した。
視界が白く反転し、祈りも、声も、すべてが歪む。
世界が裏返るような轟音の中、アデリアの意識は――純白の光に呑み込まれた。
神核が、悲鳴のような軋みを上げた。
光が一瞬、極限まで膨れあがり――次の瞬間、全てが途切れた。
祈りの声も、聖歌の旋律も、空気の震えすら消える。
まるで世界そのものが、息を止めたようだった。
石壁のきしむ音が、遠くの記憶のように微かに響く。
アデリアは目を開ける。
視界は灰色。
神核の中心で、金光が消え、ただ焦げた匂いだけが残っていた。
アデリア(心中):「――これが、“神の沈黙”。」
静寂。
それは恐怖でも、崇拝でもない。
初めて得た“空白”――誰の声も支配しない、純粋な静けさ。
信者たちがざわめきを取り戻す。
神官たちが慌てて詠唱を再開するが、音は戻らない。
壇上に立つ告解師の仮面がひび割れ、内側の瞳が虚空を彷徨う。
アデリアは息を潜め、装置を懐に滑り込ませる。
胸元の逆音波機構はまだかすかに赤く脈動していた。
熱で指先が焼けるようだったが――その痛みが確かに現実を示している。
黒衣の裾を翻し、彼女は列を抜け出した。
崩れ落ちる信者の影を横切り、聖堂の奥の扉へ。
灯りの乏しい通路を一歩ずつ進むたび、靴音が沈黙を切り裂いていく。
――そして、背後。
再び神核が、微かに光った。
壊れたはずの装置の表面に、かすかな残響波が浮かぶ。
それは鼓動のように点滅し、その中心に――赤い光の文字。
《ADELIA GLAUS》
シェル(幻影・残響):「逃げられぬぞ、記す者――お前も、記録の一部だ。」
低い囁きが、闇の底から這い上がる。
アデリアは立ち止まらない。
ただ、唇の端にわずかな笑みを刻んだ。
アデリア(心中):「なら、その記録ごと、書き換えてやるわ。」
扉が静かに閉まり、光が消える。
再び、聖堂には完全な沈黙が訪れた。




