静かな約束 ― “記す者たち”
夜更けの王都は、すでに眠りに沈んでいた。
けれど、アデリアの書斎だけは、ひとつの灯を抱いて呼吸をしている。
蝋燭の明かりがゆらめき、橙の輪が静かに壁を染めていた。
机の上には、積み上げられた分厚い資料束。王立印の押された公文書、切り抜かれた新聞、古びた地図。
地図には赤い線が幾重にも引かれ、まるで血管のようにこの国の裏側を走っている。
静寂の中に、ただひとつ――ペンの音があった。
カリ……カリ……。
紙をなぞる音が一定のリズムで響き、部屋そのものが彼女の思考と同化しているようだった。
外では霧雨が細く降り、窓硝子を叩く。
その音が微かに反響して、遠くで鐘が鳴るような錯覚を生む。
一瞬、蝋燭の炎が揺れた。
その揺らめきに合わせて、壁に映る影が長く伸びる。
影はまるでアデリア自身のもうひとつの姿――真実を追う亡霊のように、彼女の背を包み込んだ。
時間が止まっているようだった。
この部屋には、ただ彼女と紙と、記すという行為だけが存在していた。
蝋燭の光が揺らめき、薄い影をまとった一冊のノートが浮かび上がった。
それは厚手の皮表紙に包まれ、角は幾度もの開閉で擦れて艶を失っている。
中央には、金文字が静かに輝いていた。
> 《Glaus File》
光を受けてその文字が微かに脈打つように見える。
その下、手書きで刻まれた小さな一文。
> “この国の嘘を、すべて記す”
アデリアは細い指でノートを撫で、そっとペンを取った。
指先には乾いたインクの染み。
眠らぬ夜が続いた証。
しかし、その動きには一片の迷いもなかった。
彼女はページをめくり、白紙の上に静かに筆を滑らせる。
> 『王立劇場での死亡事件、公式には“事故”として処理。
> 関係者証言改竄確認、報道統制済み。』
インクが紙に染み込み、ゆっくりと広がっていく。
その一行一行が、闇に沈んだ真実を掘り起こすようだった。
ペンの音が、再び夜の静寂を刻む。
カリ……カリ……カリ……。
それは祈りでもあり、呪いでもあった。
この国の“嘘”を、紙の上で生かすための、孤独な儀式。
机の上――ノート、地図、新聞の切り抜き。
それらがまるで意図されたように、正確な三角形を描いていた。
その中心に、一本の黒いペン。
先端にはまだ、夜のインクが鈍く光を宿している。
アデリアは静かにインク瓶の蓋を閉じた。
カチリ――その音が、部屋の静寂を締めくくる鐘のように響く。
ほぼ同時に、外から本物の鐘の音が届いた。
「――二時。」
低く、長く、王都の夜気に溶ける。
雨は細かくなり、霧となって窓の外を漂う。
灯りに照らされたその粒子が、まるで記憶の欠片のように揺れていた。
アデリアは視線を落とし、ページの余白に静かにペン先を置く。
心の中で、確かな言葉が形を成す。
> 「誰かが嘘を記すなら、
> 私は――真実を書こう。」
ペン先がわずかに震え、淡い音を立てる。
彼女は小さく日付を記した。
> 《王暦587年・第十月・第二日》
その文字が、静かな夜の帳の中で光を帯びる。
やがてそれは、後の世に“禁書ファイル”として名を刻む最初の一頁となる――。
ペン先が紙面を離れる。
その瞬間、部屋の空気がわずかに揺らいだ。
アデリアは小さく息を吐き、疲れた指先をそっと膝の上に置く。
蝋燭の灯が揺れ、机の上の影がふたたび長く伸びる。
彼女は椅子にもたれ、静かに視線を窓の方へ向けた。
霧雨に煙る夜の街。
遠く、王都の中央にそびえる《聴聞局》の尖塔が、淡くぼやけて光っている。
まるで夜の霧の中で、秘密を抱えた灯台のように。
アデリアの瞳に、微かに光が宿る。
だがそれは、希望ではなく――確かな決意の色だった。
> 「あの塔の中で、何を隠してもいい。
> けれど、このページだけは、誰にも消せない。」
その言葉が、夜の静けさに溶けていく。
外の鐘が一度だけ鳴り、雨がさらに細くなった。
アデリアはノートを閉じる。
硬い表紙が合わさる音が、まるで儀式の終わりを告げるように響く。
金文字で刻まれた《Glaus File》が、橙の灯りの中で一瞬だけ輝き、
次の瞬間、蝋燭の炎がふっと消える。
闇。
ただ、ノートの輪郭だけが残り――
それもやがて、夜の深淵に溶けていった。
ノートを閉じた音が、静寂の部屋に低く響いた。
それはまるで、長い夜に小さな句点を打つような、確かな終わりの音。
蝋燭の炎が一度、細く揺れる。
そのとき――
コツ、コツ。
廊下の奥から、規則正しい靴音が近づいてきた。
柔らかい絨毯を踏みしめる音が、夜の静けさを少しずつ塗り替えていく。
アデリアはペンを置き、姿勢を正す。
扉の方へ視線を向けると、淡い灯の中にノアの影が浮かんだ。
扉の隙間から漏れた光が、ノートの金文字を一瞬だけ照らす。
《Glaus File》――その輝きが、まるで彼の到来を予感していたかのように、静かに脈打った。
ノアの声が、柔らかく沈んだ空気を破る。
> 「まだ起きていたんですか、令嬢。」
アデリアはわずかに笑みを浮かべ、インクの染みた指を隠すようにノートを閉じたまま答えた。
> 「眠れなくてね。……ちょうど、あなたの声が欲しかったところよ。」
雨音がまたひときわ強くなる。
その中で二人の影が、ひとつの灯の下に重なっていく――




