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紅の令嬢と黒の執事 ― ヴァルディア事件録  作者: 南蛇井


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アデリアの監視

夜が溶けきらぬ王都の空を、淡い朝霧が覆っていた。

石畳の通りを馬車が駆け抜けるたび、鉄の車輪が湿った路面を叩く音が響く。

新聞配達の少年が束ねた紙を投げ入れ、扉の前でそれを拾う人々の声がぽつぽつと混じり合う。


アデリア・グラウスは、配達所の向かいにある古い建物の屋上で、その光景を見下ろしていた。

黒い外套の裾を風が揺らし、手摺に肘をかけたまま、ただ静かに群衆を観察する。


視線の先では、朝の通勤客たちが新聞を広げ、ざわめきの中に一枚の紙面が翻る。

一面の見出しが、薄曇りの空の下でぼんやりと光を反射した。


《貴族ルネ・ファルサス、突然の倒伏――舞台上の不幸な事故》


その文字を目にした人々は、わずかに眉をひそめ、そしてすぐ笑い話に戻る。

パン屋の香りが漂い、露店の呼び声が再び通りを満たしていく。


まるで――昨夜の出来事など、最初から存在しなかったかのように。


アデリアは目を細め、霧の向こうに霞む王都の尖塔を見やった。

冷たい風が頬を撫でる中、彼女の胸に、言葉にならぬ静かな怒りが広がっていった。


アデリアは懐から小ぶりの双眼鏡を取り出し、霧の向こうに霞む街並みへと視線を合わせた。

金縁のレンズ越しに映るのは、何気ない朝の光景――笑い合う商人たち、立ち話に花を咲かせる令嬢たち、そして焼き立てのパンの香りに誘われる子どもたち。


人々の表情は穏やかで、昨夜の混乱など夢の名残のようにどこにも残っていない。

忘却が、まるで朝霧と同じ速度で街を覆っていくのが見えた。


「王国は今日も、自らの罪を紙面に書かせずに眠る。」


彼女の心の声が、風に溶けるように響いた。


アデリアは双眼鏡を下ろし、膝の上に置いた新聞を開く。

ざっと目を走らせるが、そこに“毒殺”の文字はない。

“聴聞局”の名も、“神の声”も、欠片すら記されていなかった。


ただ、整然とした文体が淡々と告げている――

「舞台上の不幸な事故」「体調不良による急逝」「遺族の意向により、葬儀は非公開」


アデリアの唇がわずかに歪む。

それは笑みとも嘲りともつかない、冷たい表情だった。


彼女は新聞を折り畳み、灰色の外套の内ポケットに滑り込ませる。

そして、まだ眠りから覚めきらぬ王都を見下ろしながら、静かに息を吐いた。


アデリアは外套の内側から、薄い銀の懐中時計を取り出した。

蓋を指先で弾くと、静寂の中に「カチ、カチ」と時を刻む音が落ちる。

針は正午を指しかけていた。


――今頃、ノアが宰相府に報告書を提出している頃だ。

公式記録は封じられ、真実は王国の闇に沈められた。

そして、新聞はその沈黙を“民の平穏”という名で覆い隠す。


アデリアは時計を閉じ、ゆっくりと息を吐く。

霧の残る風が吹き抜け、黒髪の一房を頬にかすめた。


「記録は消せても、匂いは残る。」


その言葉は、誰に向けたわけでもない。

ただ、冷たい空気の中に刻まれるように落とされた。


アデリアの瞳が細められる。

そこにはもう、迷いも躊躇もなかった。

今の彼女にあるのは、観察者としての静かな確信と――追跡者としての決意。


「次は、この国の“神の声”を追う番よ。」


朝霧が晴れ始め、鐘の音が遠くで鳴る。

その音に導かれるように、アデリアは屋上の縁を離れた。

足取りは静かだが、どこかで新たな幕が、確かに上がろうとしていた。


アデリアは屋上の縁からゆっくりと立ち上がった。

冷たい風が外套の裾をはためかせ、街の喧騒が遠く霞む。


彼女は一度だけ下の通りを見下ろす。

人々はパンを買い、笑い、新聞を小脇に抱えて歩いている。

そのどの顔にも、昨夜の血の影など微塵もない。


アデリアはコートの襟を立て、背を向けた。

朝陽が街並みを金色に染めていく――だが、その光を受けても、

彼女の影だけは、まるで拒むように深く沈んでいた。


屋上を離れる足音が遠ざかる。

カメラ(視点)はその背中を追い、ゆっくりと上空へと引いていく。


風がひと吹き。

近くに積まれていた新聞の束がほどけ、紙面が宙に舞う。


ひらり、と舞い上がった一枚が朝日に透ける。

見出しの下――小さく印刷された活字が光を反射した。


《……神の御心のままに。》


その一文は、空の光に溶けていきながら、

まだ終わらぬ真実の幕開けを、静かに告げていた。



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