ノアの報告
宰相府・第七調査局。
壁一面に魔導記録装置が並び、規則的な振動音が空気を震わせていた。
石畳の床に反響するのは、羽ペンの走る音と、紙がめくられる乾いた音だけ。
人の気配はあるのに、どこまでも“無音”に近い空間だった。
ノア・リヒトは、その中央に立っていた。
机の上に封蝋された事件報告書を置き、感情のない声で言葉を紡ぐ。
「以上が、王立劇場で発生した“事故”の調査結果です。」
向かいの監査官が、眼鏡越しに視線を上げる。
その瞳には、疑念も興味もなかった。
ただ、決められた手順を確認するだけの、事務的な動作。
「――死因は?」
「“急性心停止”。医学的因果は不明、毒物反応なし。」
淡々と答えるノアの声が、硬い部屋に吸い込まれていく。
監査官は一拍の沈黙のあと、無言で印章を押した。
――カチリ。
その音が響いた瞬間、報告書は公文として確定する。
封印魔法が淡く光り、記録局へと転送された。
ノアはわずかに息を吸い込んだ。
この報告に“真実”の欠片がないことを、彼だけが知っていた。
だが、この場でそれを口にする者はいない。
宰相府の空気は、嘘をも冷静に飲み込む。
報告書の端に、青白い魔導刻印が浮かび上がる。
淡く発光する線が文書全体を走り、最後に“封印印”が音を立てて沈んだ。
封印魔法が完了した瞬間、書類は宰相府の転送陣に吸い込まれ、
王立記録庫へと自動転送されていく。
――二度と、誰の手にも戻らない。
それが、この国における「封印」の意味だった。
一度刻まれた印章は、上位権限を持つ者以外には改変不可能。
それは“真実”すらも、公式の都合で塗り替えるための制度だ。
ノアは淡々と魔導端末を操作し、手続きを終える。
形式上の報告、形式上の封印。
そのどれもが、彼にとっては慣れた儀式のはずだった。
――だが、この時ばかりは、心のどこかがざわついていた。
(あれほど明確な暗示痕があったのに……)
(なのに、“事故”として封じられるのか)
瞳の奥に宿るのは、ほんのわずかな疑念と怒り。
しかしそれを口にすることは、この国では“反逆”と同義だった。
ノアは無言のまま、机上の魔導印章を閉じる。
その音が、密やかに告げる。
――真実は、またひとつ封じられた。
報告会議が終わると同時に、室内の空気が抜けたように静まり返った。
監査官も、書記魔導士も去り、残されたのはノアひとり。
机上には封印済みの報告書の控えと、まだ温もりの残るランプの灯。
ノアはゆっくりと羽ペンを取り上げた。
正式な報告はすでに完了している――
本来、これ以上の筆を入れることは規定違反だ。
だが、彼の手は迷わなかった。
備考欄の最下段。
“公文”としてはほとんど誰も見ない、記録の余白。
そこに、黒いインクが静かに走る。
『被害者の死因、記録抹消を確認。
だが、誰が“神”を名乗ったのかは不明。』
ペン先が止まる瞬間、ランプの炎がかすかに揺れた。
その揺らめきはまるで、言葉が現実の重みを得たかのように、
紙面の上で微かな影を作る。
それは誰の目にも届かない“無意味な余白”。
だが、ノアにとっては――
この国の沈黙に、たった一つ逆らうための記録だった。
彼は深く息を吐き、ペンを置く。
ランプの光が再び静止し、室内を無機質な光だけが支配する。
封印された記録の中で、
その一行だけが、未来へと向けて密かに燃えていた。
ノアは報告書を封筒に入れ、慎重に封蝋を押した。
紅の蝋がゆっくりと広がり、王国の紋章が刻まれる。
それは“真実の封印”であり、同時に“沈黙の契約”でもあった。
机上にはもう、書きかけの紙も残っていない。
羽ペンの先から滴るインクの痕だけが、彼の葛藤を語っている。
ノアは息を吸い込み、窓の外へ視線を向けた。
厚い雲が王都を覆い、光はどこにも差していない。
だが、その灰色の空の奥に――
彼は、まだ消えぬ光を探そうとしていた。
(モノローグ)
「記録は消えても、事実は消えない。
この一行が、いつか誰かの目に触れることを願う――。」
彼は静かに椅子を引き、立ち上がる。
報告室の扉を閉じても、振り返らない。
ただ、封印の魔法陣が背後で淡く輝くのを感じた。
紙片を包み込む光が、ゆっくりと沈んでいく。
“神の名”とともに、王国の闇へ。
ノアの靴音だけが、長い廊下に響いた。
それは沈黙を破る最初の音――
いつか再び、真実を呼び起こすための、微かな序曲のように。




