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紅の令嬢と黒の執事 ― ヴァルディア事件録  作者: 南蛇井


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10/22

密室の真犯人

――夜の王立大劇場グラン・テアトル

静寂は、まるでひとつの儀式のように訪れた。


ぱちん――と、どこかで灯りが切れる音。

その瞬間、すべての照明が一斉に落ちた。


黄金のシャンデリアも、舞台照明も、観客席の非常灯までも。

闇が波のように押し寄せ、劇場全体を黒い箱のように包み込む。


ほんの一拍ののち――

静寂を裂くように、微かな拍手の音が響いた。


誰もいない舞台の上で、空気だけが“演じる”。

その拍手は、幻のように反響を重ね、天井の装飾を震わせる。


ノア:「……まるで、誰かがまだ芝居を続けているみたいだな。」


ランタンの淡い光に照らされて、ノアの顔が浮かび上がる。

その横顔に、アデリアは目を細めた。


アデリア:「幕が下りても、終わらない劇。……聴聞局の得意技ね。」


彼女の声は低く、冷たい。

暗闇の中で、まるで劇の脚本をなぞるように響く。


舞台袖では、風が一枚の幕を揺らした。

その影がまるで、まだ“誰か”が舞台上に立っているように見えた。


そして――

遠くの制御室から、かすかな音。

「カチ、カチ」と、何かが再生されるリズム。


アデリアが目を細める。

音の正体は、封印された魔導装置――

《懺悔の録音石》。


そこには、罪と祈り、そして“声”が残されている。

幕が下りたあとも、なお終わらぬ芝居のように。



――きぃ、と、錆びた蝶番が軋む音。


照明制御室の扉が、闇の中でゆっくりと開いた。

中から洩れたランタンの光が、薄い金の線を描く。


その光の中に――ひとりの影が立っていた。


黒い作業服に、乾いた血の痕。

胸の前に抱えられているのは、拳ほどの大きさの魔導石。

それは淡く脈打ち、まるで“心臓”のように音を立てていた。


セリオ:「来るな……これは、神の声なんだ……!」


彼の声は震え、掠れ、空気の中で割れる。

その瞳は虚ろで、光を映さない。

虹彩の奥に、金色の膜が広がっていた――

暗示魔法によって支配された者の、特有の兆候。


アデリアが一歩、前へ出る。

ブーツの踵が石床を打ち、硬い音が響いた。


アデリア:「セリオ・カイン……ルネ・ファルサスの使用人。

 あなたが“録音石”を持っている時点で、神の声じゃなく――命令ね。」


セリオの肩がびくりと揺れる。

しかしその手は、魔導石をさらに強く抱きしめた。


セリオ:「……違う……主は、赦されたんだ……神の声がそう言った……!」


光が彼の頬を照らす。汗が流れ、震える唇が笑みを作る。

だがそれは信仰の微笑ではない――

「恐怖を祈りに変える」者だけが浮かべる、狂信者の笑みだった。


ノアが銃を抜き、低く呟く。


ノア:「その“声”を消すんだ、セリオ。」


闇の奥で、録音石がひときわ強く光を放つ。

――“神の声”が、再び再生を始めた。


闇の中、アデリアは一歩ずつ、慎重に距離を詰めていった。

その歩みは捕食者のように静かで、しかし確実に、セリオの逃げ場を奪っていく。


アデリア:「あなたは、“懺悔の録音石”を奪うよう命じられた。

 そして、持ち帰る前に主を殺した――“告解師”の声に従って。」


その声は淡々としていて、まるで劇の脚本を読み上げる語り手のようだった。


セリオの瞳が揺れる。

ランタンの光がその瞳に映り、金色の濁りが波のように震えた。


セリオ:「主を……赦せと、仰せだった……神が……」


彼の耳元では、かすかに声が囁いていた。

――《赦しを与えよ。罪を清めよ。》

それは人の声ではなく、どこか金属的な残響を伴った“録音の声”。


アデリアはそれを聴き取り、わずかに目を細めた。


アデリア:「赦しじゃないわ、それは命令。

 あなたの懺悔は、最初から“書き換えられた台本”だったのよ。」


その瞬間、セリオの呼吸が止まる。

まるで心臓を握られたように、肩が強張り、全身が震える。


アデリア:「告解師の声は、神の声なんかじゃない。

 ――《シェル=ルーメン》の声よ。あなたの耳に“神”を埋め込んだ。」


録音石が、ひときわ強く光を放った。

同時に、セリオの耳から細い血の筋が流れ出す。


セリオ:「……違う……違う……神は……!」


アデリアはその悲鳴を遮るように、最後の一言を落とした。


アデリア:「いいえ。あなたが信じた神は、“人の罪を消すため”じゃない。

 ――“人の記憶を消すため”に作られたのよ。」


光が爆ぜ、録音石が亀裂を走らせる。

幻の声が断ち切られ、劇場の闇に、静寂だけが戻った。


ノアの手が、震える指で魔導計測器の針を追った。

記録魔具の水晶が低く唸り、波形が幾重にも重なってゆく。


ノア:「……音層が二つある。ひとつは被害者の懺悔……もうひとつは――命令音声だ。」


アデリアが息を呑む。

まるで二つの魂が一つの器に押し込まれたように、録音石が脈動を始めていた。

青白い光が断続的に明滅し、劇場の暗がりを不気味に照らす。


その光に晒されたセリオの顔は、もはや人のものではなかった。

瞳孔は金色に濁り、耳の奥から血が滴り落ちる。

彼の呼吸は途切れ途切れに乱れ、喉から掠れた叫びが漏れた。


セリオ:「……やめてくれ……神の声が……止まらない……!」


その声は悲鳴ではなく、命令の再生だった。

まるで自分の口から流れ出る言葉さえも“他人の声”であるかのように。


アデリアが一歩、踏み込む。


アデリア:「セリオ、聞こえてる? あなたはもう“神の声”の外にいる――!」


だが遅かった。

セリオの手が、震える指でベルトの内側の小ナイフを抜き取る。

その刃は一瞬、青白い魔力を帯びて閃いた。


セリオ:「赦しを……完遂せねば……!」


次の瞬間、赤い飛沫が宙を描いた。

ランタンの光がそれを淡く照らし、影を壁に散らす。


ノアが駆け寄り、魔封鎖の符を展開する。

アデリアも即座に布を押し当てるが――血は止まらない。


セリオの唇が、最後の呼吸のように動く。


セリオ:「……神は……沈黙の中に……」


そして、動かなくなった。


沈黙。

破壊された録音石が床に転がり、亀裂の中から音が漏れる。

――《赦しを完遂せよ。告解を終わらせよ。》


アデリアは、その言葉に背を向け、静かに呟いた。


アデリア:「……幕が下りたわね。けれど、この芝居の脚本家はまだ生きている。」


ノアは即座に駆け寄った。

その手つきは迷いがなく、訓練された動作でセリオの喉を押さえ、止血符を貼る。

だが――血は止まらない。


赤い泡が指の間から弾け、ノアの掌をすり抜けていく。

セリオの瞳がゆっくりと宙を見上げた。

焦点のないその眼に、天井の照明がぼんやりと映り込み――

次の瞬間、完全に凍りついた。


……静寂。


ノアは息を呑み、ただ無力にその場で動きを止める。

床に転がった録音石が、鈍い音を立てて転がった。

小さなひびから光が漏れ、最後の声を吐き出す。


《……懺悔を終える。すべては、神の御心のままに。》


その音声は、まるで死者の告解のように劇場に響き渡った。

観客もいない、舞台の終幕。


アデリアはゆっくりと膝をつき、血に濡れた石を拾い上げる。

赤と金の光が交じる中、彼女は低く呟いた。


アデリア:「“御心”ね……その言葉ほど、罪深い隠れ蓑はない。」


彼女の声には怒りではなく、深い疲労が滲んでいた。

神の名を盾に、どれほどの命が奪われたのか――その数を数えることさえ無意味だった。


ノアは血に染まった手を見つめ、指先から滴る赤をじっと見ていた。

その赤は、まるで罪の印のように肌へ染み込んでゆく。


ノア:「これでまた、“神が殺した事件”がひとつ増えた。」


アデリアは録音石を静かに封筒へ戻し、立ち上がる。

舞台の上、崩れ落ちたセリオの亡骸の周りで、照明がひとつ、またひとつと消えていった。


最後に残った光が、二人の影を長く引き伸ばす。

そして――闇が、すべてを包み込んだ。


アデリアは膝元の録音石を丁寧に封筒へ戻す。

その指先には、先ほどまでの血の温もりがまだ残っている。


アデリア:「神の声を操る者――それが、本当の罪人。」


ノアは静かに頷き、低く答える。


ノア:「告解師……《シェル=ルーメン》か。」


二人の視線は一瞬交わる。

言葉は少ないが、その間に全てを理解していた。

舞台の暗闇を背に、二人は音もなく通路を進む。


遠く、鐘の音が鳴り響く。

低く、重く、規則正しく――

まるで、次の幕の開演を告げる序曲のように。


アデリアの瞳が闇の向こうを見据える。

次に暴かれる真実――

それは、まだ誰も知らない“教会の闇”の深淵。


――静寂の中、物語は再び動き出す。

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