密室の真犯人
――夜の王立大劇場。
静寂は、まるでひとつの儀式のように訪れた。
ぱちん――と、どこかで灯りが切れる音。
その瞬間、すべての照明が一斉に落ちた。
黄金のシャンデリアも、舞台照明も、観客席の非常灯までも。
闇が波のように押し寄せ、劇場全体を黒い箱のように包み込む。
ほんの一拍ののち――
静寂を裂くように、微かな拍手の音が響いた。
誰もいない舞台の上で、空気だけが“演じる”。
その拍手は、幻のように反響を重ね、天井の装飾を震わせる。
ノア:「……まるで、誰かがまだ芝居を続けているみたいだな。」
ランタンの淡い光に照らされて、ノアの顔が浮かび上がる。
その横顔に、アデリアは目を細めた。
アデリア:「幕が下りても、終わらない劇。……聴聞局の得意技ね。」
彼女の声は低く、冷たい。
暗闇の中で、まるで劇の脚本をなぞるように響く。
舞台袖では、風が一枚の幕を揺らした。
その影がまるで、まだ“誰か”が舞台上に立っているように見えた。
そして――
遠くの制御室から、かすかな音。
「カチ、カチ」と、何かが再生されるリズム。
アデリアが目を細める。
音の正体は、封印された魔導装置――
《懺悔の録音石》。
そこには、罪と祈り、そして“声”が残されている。
幕が下りたあとも、なお終わらぬ芝居のように。
――きぃ、と、錆びた蝶番が軋む音。
照明制御室の扉が、闇の中でゆっくりと開いた。
中から洩れたランタンの光が、薄い金の線を描く。
その光の中に――ひとりの影が立っていた。
黒い作業服に、乾いた血の痕。
胸の前に抱えられているのは、拳ほどの大きさの魔導石。
それは淡く脈打ち、まるで“心臓”のように音を立てていた。
セリオ:「来るな……これは、神の声なんだ……!」
彼の声は震え、掠れ、空気の中で割れる。
その瞳は虚ろで、光を映さない。
虹彩の奥に、金色の膜が広がっていた――
暗示魔法によって支配された者の、特有の兆候。
アデリアが一歩、前へ出る。
ブーツの踵が石床を打ち、硬い音が響いた。
アデリア:「セリオ・カイン……ルネ・ファルサスの使用人。
あなたが“録音石”を持っている時点で、神の声じゃなく――命令ね。」
セリオの肩がびくりと揺れる。
しかしその手は、魔導石をさらに強く抱きしめた。
セリオ:「……違う……主は、赦されたんだ……神の声がそう言った……!」
光が彼の頬を照らす。汗が流れ、震える唇が笑みを作る。
だがそれは信仰の微笑ではない――
「恐怖を祈りに変える」者だけが浮かべる、狂信者の笑みだった。
ノアが銃を抜き、低く呟く。
ノア:「その“声”を消すんだ、セリオ。」
闇の奥で、録音石がひときわ強く光を放つ。
――“神の声”が、再び再生を始めた。
闇の中、アデリアは一歩ずつ、慎重に距離を詰めていった。
その歩みは捕食者のように静かで、しかし確実に、セリオの逃げ場を奪っていく。
アデリア:「あなたは、“懺悔の録音石”を奪うよう命じられた。
そして、持ち帰る前に主を殺した――“告解師”の声に従って。」
その声は淡々としていて、まるで劇の脚本を読み上げる語り手のようだった。
セリオの瞳が揺れる。
ランタンの光がその瞳に映り、金色の濁りが波のように震えた。
セリオ:「主を……赦せと、仰せだった……神が……」
彼の耳元では、かすかに声が囁いていた。
――《赦しを与えよ。罪を清めよ。》
それは人の声ではなく、どこか金属的な残響を伴った“録音の声”。
アデリアはそれを聴き取り、わずかに目を細めた。
アデリア:「赦しじゃないわ、それは命令。
あなたの懺悔は、最初から“書き換えられた台本”だったのよ。」
その瞬間、セリオの呼吸が止まる。
まるで心臓を握られたように、肩が強張り、全身が震える。
アデリア:「告解師の声は、神の声なんかじゃない。
――《シェル=ルーメン》の声よ。あなたの耳に“神”を埋め込んだ。」
録音石が、ひときわ強く光を放った。
同時に、セリオの耳から細い血の筋が流れ出す。
セリオ:「……違う……違う……神は……!」
アデリアはその悲鳴を遮るように、最後の一言を落とした。
アデリア:「いいえ。あなたが信じた神は、“人の罪を消すため”じゃない。
――“人の記憶を消すため”に作られたのよ。」
光が爆ぜ、録音石が亀裂を走らせる。
幻の声が断ち切られ、劇場の闇に、静寂だけが戻った。
ノアの手が、震える指で魔導計測器の針を追った。
記録魔具の水晶が低く唸り、波形が幾重にも重なってゆく。
ノア:「……音層が二つある。ひとつは被害者の懺悔……もうひとつは――命令音声だ。」
アデリアが息を呑む。
まるで二つの魂が一つの器に押し込まれたように、録音石が脈動を始めていた。
青白い光が断続的に明滅し、劇場の暗がりを不気味に照らす。
その光に晒されたセリオの顔は、もはや人のものではなかった。
瞳孔は金色に濁り、耳の奥から血が滴り落ちる。
彼の呼吸は途切れ途切れに乱れ、喉から掠れた叫びが漏れた。
セリオ:「……やめてくれ……神の声が……止まらない……!」
その声は悲鳴ではなく、命令の再生だった。
まるで自分の口から流れ出る言葉さえも“他人の声”であるかのように。
アデリアが一歩、踏み込む。
アデリア:「セリオ、聞こえてる? あなたはもう“神の声”の外にいる――!」
だが遅かった。
セリオの手が、震える指でベルトの内側の小ナイフを抜き取る。
その刃は一瞬、青白い魔力を帯びて閃いた。
セリオ:「赦しを……完遂せねば……!」
次の瞬間、赤い飛沫が宙を描いた。
ランタンの光がそれを淡く照らし、影を壁に散らす。
ノアが駆け寄り、魔封鎖の符を展開する。
アデリアも即座に布を押し当てるが――血は止まらない。
セリオの唇が、最後の呼吸のように動く。
セリオ:「……神は……沈黙の中に……」
そして、動かなくなった。
沈黙。
破壊された録音石が床に転がり、亀裂の中から音が漏れる。
――《赦しを完遂せよ。告解を終わらせよ。》
アデリアは、その言葉に背を向け、静かに呟いた。
アデリア:「……幕が下りたわね。けれど、この芝居の脚本家はまだ生きている。」
ノアは即座に駆け寄った。
その手つきは迷いがなく、訓練された動作でセリオの喉を押さえ、止血符を貼る。
だが――血は止まらない。
赤い泡が指の間から弾け、ノアの掌をすり抜けていく。
セリオの瞳がゆっくりと宙を見上げた。
焦点のないその眼に、天井の照明がぼんやりと映り込み――
次の瞬間、完全に凍りついた。
……静寂。
ノアは息を呑み、ただ無力にその場で動きを止める。
床に転がった録音石が、鈍い音を立てて転がった。
小さなひびから光が漏れ、最後の声を吐き出す。
《……懺悔を終える。すべては、神の御心のままに。》
その音声は、まるで死者の告解のように劇場に響き渡った。
観客もいない、舞台の終幕。
アデリアはゆっくりと膝をつき、血に濡れた石を拾い上げる。
赤と金の光が交じる中、彼女は低く呟いた。
アデリア:「“御心”ね……その言葉ほど、罪深い隠れ蓑はない。」
彼女の声には怒りではなく、深い疲労が滲んでいた。
神の名を盾に、どれほどの命が奪われたのか――その数を数えることさえ無意味だった。
ノアは血に染まった手を見つめ、指先から滴る赤をじっと見ていた。
その赤は、まるで罪の印のように肌へ染み込んでゆく。
ノア:「これでまた、“神が殺した事件”がひとつ増えた。」
アデリアは録音石を静かに封筒へ戻し、立ち上がる。
舞台の上、崩れ落ちたセリオの亡骸の周りで、照明がひとつ、またひとつと消えていった。
最後に残った光が、二人の影を長く引き伸ばす。
そして――闇が、すべてを包み込んだ。
アデリアは膝元の録音石を丁寧に封筒へ戻す。
その指先には、先ほどまでの血の温もりがまだ残っている。
アデリア:「神の声を操る者――それが、本当の罪人。」
ノアは静かに頷き、低く答える。
ノア:「告解師……《シェル=ルーメン》か。」
二人の視線は一瞬交わる。
言葉は少ないが、その間に全てを理解していた。
舞台の暗闇を背に、二人は音もなく通路を進む。
遠く、鐘の音が鳴り響く。
低く、重く、規則正しく――
まるで、次の幕の開演を告げる序曲のように。
アデリアの瞳が闇の向こうを見据える。
次に暴かれる真実――
それは、まだ誰も知らない“教会の闇”の深淵。
――静寂の中、物語は再び動き出す。




