【序章】《紅の破局》 ――悪役令嬢は、再び現場に立つ。 王都グラン・テアトル ― “紅の幕開け”
王都グラン・テアトル。
金と光が溢れる夜会の箱――けれど、そこに座る者たちの瞳には、誰一人として真実の輝きはない。
天井に吊られた水晶灯が、音もなく輝く。
絹のドレス、香水の匂い、笑い声。
それらすべてが、まるで絵画のように整えられた虚飾の世界だった。
その最奥――観客席の影。
そこに一人、黒のドレスを纏った令嬢が静かに座っていた。
アデリア・グラウス。
かつて「悪役令嬢」と呼ばれ、婚約破棄の夜に断罪された女。
今は没落貴族。社交界から姿を消したはずの亡霊。
深紅の薔薇のブローチが、胸元でひっそりと光る。
それは、あの“破滅の夜”にも身につけていたものだった。
彼女の存在に気づいた周囲の令嬢たちが、うっすらと扇子を掲げて囁き合う。
「――あれ、グラウス家の……まだ生きていたのね」
「処刑を免れて、今は平民のふり。滑稽だわ」
その言葉が風のように通り過ぎる。
アデリアは何も言わない。
ただ、白い指先で膝の上の手袋を整え、前方――舞台を見つめた。
幕の上では、赤い炎が揺れている。
演目は《ヴァルディアの祈り》。
裏切りと断罪の物語。
――まるで、彼女の人生をなぞるように。
(拍手。歓声。光。)
その喧騒の中で、アデリアの瞳だけが冷えていた。
舞台の熱が届かないほどに、静かで、暗い海の底のように。
ふと、口の端がわずかに動く。
「……芝居の始まり、ね。」
それは皮肉ではなく、観察者としての呟きだった。
この国で流れるすべての拍手も、笑顔も、嘘の延長に過ぎない。
舞台の炎が、薔薇のブローチに反射して揺れた。
深紅と黒。
まるで、彼女の過去と現在が、再びひとつになろうとしているように――。
ヴァイオリンが高鳴る。
ホールを包む旋律は、まるで王都そのものが息づいているかのよう。
舞台では、純白のドレスを纏った女優が恋人に愛を誓っていた。
観客席から、拍手が湧き起こる。
金糸の扇が揺れ、宝石が光を散らす。
その音を、アデリアはまぶたの奥で別の“拍手”と重ねていた。
――あの夜も、こんなふうに拍手が鳴っていた。
そして私は、断罪される役を“演じさせられた”。
――王の前、冷たい大理石の床。
片膝をつかされ、告発者たちが並ぶ。
ドレスの裾に、赤いワインがこぼれていた。
それを血だと噂したのは、誰だったか。
「アデリア・フォン・グラウス。貴女は王太子殿下への陰謀を企て――」
読み上げられる罪状。
涙を浮かべる少女、断罪を見届ける群衆。
あの瞬間、彼女は確かに“悪役”を演じた。
――そう、役を“与えられた”のだ。
視界が、再び劇場の光に戻る。
舞台の女優が、愛を誓う台詞を叫ぶ。
観客たちの拍手が、雷鳴のように響いた。
だが、アデリアだけは笑わなかった。
黒いドレスの裾が、微かに揺れる。
薔薇のブローチに反射する炎の光が、かつての断罪の夜をなぞる。
(ああ、また始まるのね……)
彼女の瞳は、舞台ではなく――
舞台の“裏側”を見ていた。
この王都で最も華やかで、最も腐っている場所。
紅の悪役令嬢は、再び“現場”に立とうとしていた。
舞台の上で、王女が処刑台に立たされていた。
金糸の髪を乱し、涙に濡れた瞳で愛した男を見つめる。
だが、男は剣を抜き、ただ一言だけを残す。
「……裏切り者に、赦しはない。」
観客席が息を呑む。
まるでその瞬間、王都全体が息を潜めたように。
――そして、刃が振り下ろされる。
舞台の王女が崩れ落ちると同時に、照明が赤く染まった。
血のような光が、観客席まで染み込んでいく。
その中で、ただ一人。
黒のドレスの令嬢だけが、拍手をしなかった。
俯瞰の視界に映る。
金と紅の海の中で、静かに沈む一点の影――アデリア・グラウス。
隣に座っていた老婦人が、扇子で口元を隠して囁く。
「まあ、あなた。この演目はお気に召さないの?」
アデリアは視線を上げる。
瞳は冷たく、だがその奥にかすかな笑みが宿る。
「ええ。……展開が、読めすぎるもの。」
老婦人は小さく首をかしげ、すぐに舞台へ視線を戻す。
だが、アデリアだけは違う。
彼女の目は舞台ではなく、観客たちを――
いや、“その中に潜む異物”を見ていた。
彼女の瞳は、微かな違和感を捉える。
グラスを口にした貴族の男。
手袋越しに震える指先。
照明の反射の中、わずかに黒ずんだ唇。
(……まるで、舞台の筋書きどおりね。
裏切りと、処刑。 ただし――今回は現実で、起こる。)
再び楽の音が響く。
幕が閉じる直前、アデリアはそっと目を細めた。
その瞳は、獲物を見つけた探偵のそれだった。
幕間。
音楽が止まり、照明が柔らかく灯る。
観客席のあちこちで、笑い声とグラスの音が交錯していた。
この夜の劇場は、単なる娯楽の場ではない。
――王国の中枢そのものだ。
最前列のVIP席には、王都の権力者たちが並んでいた。
財務を握るヴァルク公爵。
宰相代理のエルンスト・レーヴェン。
清廉を装う教会の高司祭メルヴィス。
そして、商業同盟の若き代表、リオネル・クレイン。
煌めく衣装と金杯の間で、彼らは互いの視線を探り合う。
「宰相閣下もこの夜会に?」
「ふむ、評議会の再編が近い。各派が顔をそろえるのも当然だろう。」
「《クロノス派》も動くらしいな……まるで劇場が、政治の舞台のようだ。」
笑い混じりの声の奥に、張り詰めた緊張が漂う。
誰もがこの夜を、“次の権力の分岐点”と知っていた。
アデリアは後方席から、彼らを一瞥する。
目の前の煌めきが、彼女にはまるで捜査資料のように見えていた。
(財務派、宰相派、教会派、商業派――どの顔も、裏がある。
この劇場は、王国そのものの縮図ね。)
舞台裏では、ワインの香りが漂う。
給仕たちが慌ただしくボトルを運び、グラスを磨き、客席へと消えていく。
その一瞬――。
照明の影をかすめ、黒髪の女給が通り過ぎた。
顔を上げることもなく、銀の盆を抱えたまま、
まるで影そのもののように消える。
観客たちは誰も気づかない。
だが、アデリアの視線だけが、その一瞬を正確に捉えていた。
(……妙ね。あの制服、王都劇場のものじゃない。)
紅の瞳が細められる。
次の瞬間、劇場の鐘が鳴り響いた。




