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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第二十二話 三言の告

 ――安政五年三月十七日・夕刻 御所裏の細道。


 春の光は柔らかいはずだった。

 だが御所の裏へ落ちるそれは、どこか硬質で、ひびの入った鏡のように不安定だった。白砂に跳ねる明るさが、かえって影の輪郭を鋭くし、石畳の目地の黒まで人の眼に入り込んでくる。


 西郷吉之助は、その細道をゆっくりと歩いていた。


 足元の石が妙に薄寒い。京の春とは思えぬ緊張が、空気の底へ沈んでいる。列参ののち、都には、声を潜めねば余計なものまで口から漏れると、誰もが知ってしまったような沈黙が残っていた。


 背後から、衣擦れのような、ごくかすかな音。


 吉之助は足を止め、振り返った。


 薄布で顔の半ばを覆った若い公家が、柳の影に寄るように立っていた。烏帽子もつけず、自らを隠すような姿である。だが、隠しきれぬものがある。肩の落とし方、袖を収める間の取り方、相手に声をかける前にまず場の気配を測る眼――いずれも宮中の者に特有の、静かな品を帯びていた。


 若者は周囲を確かめ、さらに一歩近づき、極めて低い声で言った。


「……西郷殿。京の風が、少し歪んでおります」


 吉之助の目が細まる。


 若者は懐から小さな紙片を取り出した。折り目が多く、何度も握り直された跡がある。決めきれぬまま持ち歩き、それでも最後には渡すと決めた者の紙であった。


 吉之助がそれを受け取る。

 三行だけが記されていた。


 ――攘夷の志、暴に移るを深く慎まれたし

 ――朝議前後、ことさらに人心を騒がす風あり

 ――火の立つところ、必ずしもその本意にあらず


 それだけ。

  名も、筋も、場所もない。

 

 何を戒めるのかは明らかで、誰を指すのかは最後まで書かれていない。ぼかしきった上で、なお読む者の胸に一つの危うさだけを残す文であった。


 若者は言葉を継いだ。


「噂は、火のように広がります。ですが、今日のそれは……少し様子が異なります。“誰か”が形を与えているような。宮中では、そう感じる向きがございます」


 吉之助は紙を折り、袖へしまった。


「……知らせてくれて、かたじけない。じゃっどん、これは――誰の意じゃ」


 若者は静かに首を振る。


「名は申せませぬ。……ただ、宮中の中にも、“外の手”に揺らぐを良しとしない者がいる、というだけのことにございます」


 その言葉は、これは自分の政治判断ではない、誰かの意向を代弁しているのでもない、と慎重に身を引いているように聞こえた。

 だが、引きながらなお伝えずにはいられなかった切迫だけは、隠しきれていない。


 吉之助には、それで足りた。


 この若者が語っているのは“自分の言葉”ではない。

 その背後に、宮中の中枢を守ろうとする、鋭く、しかも危うい意志が潜んでいる。

 名を出されずとも、気配だけで察しのつく相手がいる。


 だが、その名をここで思い切った瞬間、紙に書かれなかった一線を自分が踏み越えることになる。吉之助は、その名を胸の内へ押し戻した。


 若者は深く頭を下げた。


「……お気をつけて。それだけです」


 最後まで、何も具体的なことは言わなかった。

 ただ、攘夷の志が暴へ逸らされかねぬこと、朝議の前後に人心を騒がす風が差し入れられていること――その危うさだけを残して去っていく。


 その慎重さ、言外の含み、筆跡を殺し、名を避けた気配――すべてが宮中人の恐怖を物語っていた。恐れているのは中の内から外へ漏れたと知られること、その一点である。


 吉之助はしばらく動かなかった。

 やがて、ゆっくりと歩き出しながら胸の内で判断した。


(……四志にそのまま伝えれば、出所を詰めるやもしれん)


 仲間を信じぬのではない。信じればこそ、ここで名を混ぜぬ方がよい。

 警告の出所を探り始めれば、その人物は宮中に居場所を失う。外へ手を伸ばしただけで、たちまち“内を漏らす者”の札を貼られる。それがこの都である。


 吉之助は拳を握った。


(……まずは吉左衛門殿じゃ)


 宮中の警告と、水戸の若い衆の熱とを、一つの形で見られるのはあの人だけだ。

 いまこの報せは、表の備えより先に、内から燃え移る火の形を知る者へ渡さねばならぬ。


 そう決めると、吉之助は御所裏の闇を離れた。その足音は、翌日に迫る不吉を知らぬ人々の頭上で、ひそやかに響いていた。




 御所の西を外れ、町筋へ出ると、京はすでに夕刻の色へ傾いていた。

 店先の暖簾はまだ下りきらず、井戸端では水を汲む女たちが最後のひと仕事を済ませている。見た目にはいつもの都である。だが、耳を澄ませば、そこかしこに同じような湿り気がある。


 吉之助は足をゆるめず、町の息を拾いながら歩いた。


 茶屋の脇で、浪士ふうの若者が二人、煙の向こうに低く顔を寄せ合っている。辻の向かいでは、荷を担いだ町人が、用もないのに本能寺の方を一度だけ振り返る。

 表に出る言葉はいずれも粗い。中身は曖昧だ。だが、曖昧なまま、嫌うべき結びだけが妙に揃っている。


「まだ何か、別の手を入れるつもりらしい」

「朝へ余計なことを持ち込むのは、どうにも宜しゅうない」

「条約だけでは済まぬそうだ」

「御所筋がまた騒がしゅうなる」


 誰も献上御船などとは言わない。天覧の次第を知る者もいない。

 だが、公儀が“まだ何か”を企んでいる、という悪感情だけは、町の浅いところへすでに流れ込んでいる。


 吉之助は、道の向こうから来た若い者二人とすれ違った。片や水戸訛、片や薩摩訛である。本来なら、その二筋が同じ結論で頷き合うのは容易ではない。にもかかわらず、今は同じ形の不審を胸に抱いているように見えた。


(……火は、まだ見えもはん)


 だが薪は並べられている。

 それも、火がつきやすい向きへ、誰かが先に並べている。


 京の噂は速い。だが本来ならもっと雑で、もっと醜く、もっと筋が違う。

 今の噂は違う。結びだけが先に置かれていて、人はそこへ自分の不安を流し込んでいる。


 吉之助は水戸藩京屋敷へ向かう足をさらに速めた。急がねばならぬ。だが、急いで走れば、こちらまで別の火に見える。

 都では、急ぐ時ほど歩幅を乱してはならない。




 水戸藩京屋敷の一室には、低い灯が一つだけ置かれていた。


 鵜飼吉左衛門は、昼のうちに面談した若い藩士たちの顔を、まだ胸の内へ残していた。

 皆、志に厚い。だからこそ危うい。理の不足ゆえではない。正しさの置き場が一つしか見えなくなった時、人は最も容易く他人の手で使われる。


 そこへ西郷吉之助が通された。


「遅うなりました」


「かまわぬ。何ぞあったか」


 吉之助は座るなり、紙片の中身だけを伝えた。

 誰が寄越したかは言わない。言わぬ方がよいと、互いにすぐ分かった。


 吉左衛門は最後まで口を挟まなかった。ただ、話が終わると一度だけ深く頷く。


「……そうか。やはり、そこまで来ておるか」


 吉之助が低く問う。


「覚えがおありで」


「覚えというほどでもない」


 吉左衛門はそう言ったが、その顔からは昼まで残っていたわずかな迷いが消えていた。


「列参は自然に起きた。その後の朝廷の硬化も、また自然じゃ。だが、その自然の上へ、誰かが別の流れを薄く重ねておる。公家の憂い、町場の嫌忌、若い者の不信――それぞれ別のところから立つはずのものが、妙に同じ向きへ寄っておる」


 吉之助は黙って聞いていた。吉左衛門は続ける。


「しかも、いまの警告は、宮中の内にて“攘夷の志が暴へ移るを戒めよ”と申しておる。ならば、もはや風聞の歪みだけでは済まぬ。――朝議の前後に、人心を騒がせ、火を立てる手が入っておるということじゃ」


 吉之助は、そこで初めて一言だけ言った。


「“火の立つところ、必ずしもその本意にあらず”ともありもした」


「そこが肝じゃ」


 吉左衛門の声は低い。


「攘夷の志そのものが悪いのではない。されど、その熱が暴へ逸れば、たちまち誰ぞの都合のよい刃になる。若い者の胸へ火を入れ、その火がもとよりそこにあった本意であるかのように見せる。そこをやられれば、水戸も、列参も、朝廷も、みな同時に傷む」


 部屋がしんと静まった。炭の鳴る音さえ、妙に遠い。


 吉左衛門の脳裏には、昼間の若い藩士の顔がよみがえっていた。


 水戸学に背くのではないか。

 斉昭公のお志が変わったように見える。

 “急な転び”ではないのか。


 その問いは自然であった。だが、自然であるがゆえに、そこへひとしずく別の意図が落ちれば、たちまち疑いは“裏切り”の形を取る。


(……若い者の胸へ、もう札が差し込まれておる)


 義そのものが悪いのではない。義が、誰かの都合のよい言葉に名を変えられた時が危うい。


「西郷殿」


 やがて吉左衛門が言った。


「今宵の報せ、誰にも申すなとは申さぬ。されど、出所は追うな」


「承知しもした」


「名を追えば、その者を失う」


 それだけ言うと、吉左衛門は膝の上の手を組んだまま、しばらく動かなかった。

 吉之助もまた、それ以上は問わぬ。

 もう言葉で確かめる段は過ぎている。互いに、それぞれの持ち場で備えるしかないと知っていた。


 やがて吉左衛門が顔を上げた。その目は、昼の若い者を諭していた時より、さらに澄んで見えた。


「もうよい。今夜はそれで足る」


「……足る、と申されますか」


「うむ。足りねばならぬ」


 その一言に、吉之助は何も返せなかった。

 何かを決めた者の声だった。


 しばらくして、吉之助は静かに辞した。

 襖が閉まり、足音が遠のいてから、吉左衛門はようやくひとりになった。




 灯の下で、吉左衛門はしばらく動かなかった。


 昼の藩士たちの迷い。

 西郷が持ち帰った三行の警告。

 宮中の押し風。

 町場の悪感情。

 それらはもう、吉左衛門の胸の中で一つの形を取りつつあった。


 列参は義として立った。

 だが、義は立っただけでは守りにならぬ。

 その義をどこへ着地させるかを違えれば、たちまち他人の手に渡る。

 いま都で起きつつあるのは、まさにそれである。


「……そこまでか」


 独り言のように漏れた声は、炭の熱より冷たかった。


 文机の引き出しを開ける。

 古い控え帳を出し、幾人かの名を指先で追う。

 追いながら、一つ、また一つと頷く。

 迷っている時間はない。だが急いて雑になれば、それこそ相手の望むところだ。


 やがて吉左衛門は、白紙を前へ引き寄せた。

 筆を執る。何を書くかは見えない。

 だが、筆は迷わず走った。


 書き終える。

 折る。

 封をする。

 しばし考え、さらにもう一通。

 そして、もう一通。


 それ以上は作らなかった。


 控えの者が呼ばれる。

 足音の軽い、口の堅い者である。


 吉左衛門は三通の包みを差し出し、低く言う。


「今夜のうちに届けよ」


 それだけで、もう多くは言わなかった。

 控えの者もまた、何も問わずに受け取って下がる。


 部屋は再び静かになる。炭がひとつ、かすかに鳴った。


 こうすれば足りるか。足りねば、もう次は血でしか止まらぬ。

 だが、いまはまだ、血の前に置けるものがある。


「……殿」


 その声は小さかった。だが、躊躇いはなかった。


「ここより先は、言葉だけでは足りぬやもしれませぬ」


 窓の外では、春の夜が静かに更けてゆく。

 静かだが、その静けさは、何かを呑み込んだあとのものに似ていた。




 夜の京は、昼よりもむしろ息苦しかった。


 吉之助は水戸屋敷を辞した後、すぐには薩摩屋敷へ戻らず、ひとまわり遠く町を踏んだ。

 確認したいことがあった。いや、確認せずとももう分かっている。分かっていることを、眼で見てしまいたかったのかもしれない。


 辻の火が妙に少ない。

 茶屋の戸は早々に引かれ、暖簾の奥の声も低い。

 それでいて、人の足だけはいつもより多い。用向きの定まらぬ足である。立ち止まるでもなく、急ぐでもなく、ただ一筋二筋、本能寺の方をかすめては離れてゆく。


 橋の袂に、荷を下ろした町人が三人、火のそばへ寄っていた。

 そのうち二人は京言葉、ひとりは上方訛の残る話しぶりで、土地の者どうしの世間話に見える。


「近頃、どうも落ち着かぬな」

「公儀のお役人衆が入ってから、浪人の姿をよう見かけるの」

「おおごとにならねばええが……」


 言葉はぼんやりしている。中身は曖昧だ。

 だが、悪いことが起きる、そこへ公儀が絡む、近づくな――その結びだけは、どこで聞いても揃っていた。


(まだ見えもはん)


 けれど、刃の前にある沈黙は見える。

 抜かれる前の、あの息の詰まりだけは、もう町のあちこちにある。


 吉之助は本能寺の方角を遠く見た。白壁は夜の中でかえって淡く浮いている。

 まだ何事も起きていない。だがその“まだ”は、もはや無事の余白ではなかった。人の胸と胸のあいだに挟まった、わずかな遅れに過ぎぬ。


 吉之助は、ふっと息を吐いた。


(……刃は避けられんとか)


 誰に向けての刃か、まだ定まっていないのではない。

 もう定められている。ただ、いつ抜かれるかだけが夜の底へ沈んでいる。


 それでも、足を止めるわけにはいかなかった。護るべき相手がいる。止めねばならぬ火がある。

 そして今夜、言葉の届くうちに置かれた何かがある。


 吉之助は、袖の内の紙片をひとたび指先で確かめた。

 名は出せぬ。出せば、あの警告そのものを殺す。ならば、あとは己が身ひとつで受けるほかない。


(ようございもす。避けられん刃なら、せめて受ける場を違えんばならん)


 遠くで、鐘がひとつ鳴った。その音は春の夜気へ溶けきらず、京の屋根の上にうすく残る。


 吉之助は踵を返した。夜はなお深まってゆく。

 だがその深まりに呑まれはせぬと胸の内で言い切って、薩摩の足取りは静かに、しかし確かに速まった。


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