第二十一話 雲たなびく浜
――安政五年三月十六日・朝 本能寺。
朝の光は白く、やわらかく、それでいてどこか芯が冷たかった。
列参ののちの京は、晴れていても晴れては見えぬ。白壁は白いまま硬く、瓦は濡れてもいないのに重く見える。人の胸のうちで決めかねている事柄が、そのまま町にも屋敷にも寺の廊下にも、うすく染み出しているようであった。
本能寺の一間には、夜を徹した者だけがまとえる、薄い疲れと妙な冴えが残っていた。
文机の上の紙束は、もはや草案ではない。夜のうちに削られ、継がれ、迷いの跡だけを内へ畳み込んで、ようやく外へ差し出せる形に整っている。
三岡八郎は一番上の紙を見返し、末尾の一行にだけ目を止めると、そっと置いた。
「……これで、関白筋へは通せましょう」
その声に、ようやく一夜の仕事がひとまず区切れたのだと分かる。
藤兵衛は隣で、上覧次第の図へ最後の目を通していた。供奉船との離れ、停止の間、乗下船の順。海の上ではたしかに成り立つ。だが、朝に通る形へまで直して初めて意味がある。
「形としては」と藤兵衛は言った。
「されど、形が通ることと、人の胸が動くことは別にござる」
「左様ですな」
八郎も頷く。
列参の後、都で硬くなっているのは理そのものではない。
理に、気色が先回りして貼りついている。条約の是非、海防の不足、異国への警戒、朝威への不安――それらが一つところへ寄り、寄ったままほどけぬ。そこへ“船”が入ると聞けば、人はまず中身より先に匂いで嫌う。
八郎が、重ねた文の束を指で軽く叩いた。
「ここまでは整えました。ここから先は、紙の理だけでは足りませぬ」
その時、廊下の向こうで控えの者が気配を整えた。
若党が膝を着き、声を落とす。
「……梅田 雲浜殿、ご来訪にございます」
座の空気が、ひと息だけ止まった。
藤兵衛は思わず八郎を見た。八郎は眉ひとつ動かさず、文の束を静かに重ねる。
「噂を聞きつけられましたな」
「来るべき方が来た、とも申せましょう」
逃げる場ではない。むしろ、ここで受けねば後の裂け目が深くなる。八郎は若党へ目だけで合図した。
「お通し申せ」
◆
まもなく、一人の男が静かに入ってきた。
梅田雲浜。
条約反対と異人排斥を掲げて攘夷を唱え、尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒として幕政を鋭く批判してきた、京でも指折りの論客である。
痩せている。だが弱っては見えぬ。目だけが、昼の光とは別の火を宿していた。人を威すつもりはない。だが、自らの内にある理に対して、一歩も退く気はない――そういう眼であった。
「突然の立ち寄り、無礼は承知の上にて」
雲浜は礼をした。
礼は整っている。だが、こちらへ身を預ける礼ではない。見定めるために身を低くした礼であった。
「お構いなく」と八郎が返した。
「むしろ、来てくださったのはありがたい」
雲浜は座に着いたが、すぐには口を開かなかった。
その代わり、畳の上へ重ねられた文の束へ視線を落とす。
その一瞥だけで、この人はただの風聞に動かされたのではないと分かる。噂が立った、その立ち方ごと嗅ぎ取って、なお確かめに来たのであろう。
「本能寺では、いま“船”のことが整えられている、と聞きました」
声は低く、やわらかい。だが、やわらかい声ほど深く刺さることがある。
「そのうえで、条約へ通ずる別の筋が立てられつつある、とも」
八郎はすぐには答えなかった。ここで理を急げば、相手の胸にある正しさを押し潰すだけになる。
代わって藤兵衛が言った。
「別の筋ではありませぬ。列参の義を義として立てたまま、その先を違えぬための筋にござる」
雲浜の眉が、わずかに動く。
「違えぬため、ですか」
「左様」
藤兵衛は正面から受けた。
梅田雲浜のような相手に、言葉の綾で勝とうとしても仕方がない。こちらの腹がどこまで決まっているかを測られるだけである。
「列参の義は、軽々しき勅許に異を唱えた。そこに一点の曲もございませぬ。――されど今、ただ拒むことのみを前へ立てれば、やがて朝廷そのものが“否と申すばかり”に見られましょう。いま恐るべきは、その先にございます」
雲浜は視線を細めた。
「朝威を守るためにこそ、軽々しく異国との条約へ寄るべきではない――わたくしはそう申しておるのです。そこへ今、“船”まで持ち出される。しかも御前へ近づけると聞く。それでは外から見れば何と映るか。天朝が、異国の利器を借りねば威を立てられぬかのように見えはしまいか」
その言葉を、藤兵衛は真正面から受けた。
雲浜の言うことは誇張ではない。今の都の胸のうちにある不安を、むしろ最も正しく言葉にしたものに近い。
だからこそ、逃げてはならない。
「梅田殿」
藤兵衛は声を荒げずに言った。
「鳴龍丸は、異国の出来合いを買い受けた船ではございませぬ。わが国の手にて成りたる船にございます。しかも、ただ速きを誇るにあらず、危なげなく止まり、危なげなく曲がり、供奉を乱さずに動き得ることを、すでに海の上で立ててございます」
雲浜は即座に返した。
「船そのものの出来不出来を問うておるのではありませぬ。問題は、その船をいま、何のために朝へ近づけるかです」
「そのためにこそ申しておりまする」
藤兵衛は一歩も引かなかった。
「いま都では、船の中身より先に“異国めいた新手”として嫌われております。されど実を申せば、鳴龍丸は異国追随の具にはございませぬ」
「朝威を支える順へ、置き直し得るものにござる」
「置き直す、と?」
「はい。拒むことが第一の手であるなら、これは第二の手にございます」
雲浜は黙った。
藤兵衛は、ここで一度息を整えた。
土佐へ戻ってから、何度も胸の内で反芻してきたことがある。
オラゾで見た滅びは、いつも“悪”ひとつが世界を壊したのではない。正しいものが二つ以上あり、そのどちらもが急ぎすぎた時に裂け目が生まれた。
憎しみだけではない。義もまた、形を誤れば刃になる。
「梅田殿。夷を攘うという志そのものを、某は誤りと申すつもりはございませぬ。ただ――順を違えてはならぬ、と申したい」
雲浜の目がわずかに動いた。
その目は、相手の次の言葉に少しだけ重さを置いた目であった。
「土佐での尊攘の熱は」と藤兵衛は言う。
「今や、攘害・和夷・攘夷の順に、形を変えております」
「……攘害、和夷、攘夷」
雲浜は低く復した。
「聞き慣れぬ立て分けですな。意味を伺いたい」
藤兵衛は、かつて武市半平太を説いた時のことを思い出していた。
半平太の熱は、藩の内を正そうとする熱であった。鋭いが、なお土佐という器の内にあり、ゆえに理をもって受け止めれば、どこかで踏みとどまる余地があった。
だが、目の前の雲浜は違う。京にあって公家と志士のあいだを貫き、天下そのものを動かそうとする熱である。藩の一隅に収まる志ではない。正しさのまま都を揺るがし得る。
似ているようで、違う。
だからこそ藤兵衛は、半平太に語った「土佐の理」をそのまま雲浜へ差し出すのでなく、国の裂け目を越えるための順として言い直さねばならなかった。
「攘夷を急げば、まず先に損なわれるものがございます。人心、国柄、そして朝威にございます。害を払うつもりで、先にこちらを傷つけてしまう――これを某は攘害と見ます」
雲浜の顔に、初めてはっきりした異和の色が差した。侮辱と取る者もある言葉だ。
だが藤兵衛は続ける。
「次に和夷。これは夷に和するという意味ではございませぬ。夷の理と技を、こちらの秩序のうちへ押し込み、こちらの御威の下に置く段にございます。異に従うのではない。異を、こちらの順へ従わせる。鳴龍丸は、そのための具にござる」
そして、ひと息置く。
「そのうえで、初めて攘夷に至る。力を備え、害を減らし、侮りを受けぬ実を立てたうえで、なお払うべきものを払う。これが本来の攘夷にござろう。攘夷を志として掲げることと、攘夷をいま成せることとは、同じではありませぬ」
部屋がしんと静まった。
雲浜は、即座には返さなかった。否定なら容易である。だが、いま藤兵衛が申したことは、否定するにもまず受けねばならぬ類のものであった。
「……あなたは」と、やがて雲浜が言った。
「攘夷の熱そのものが国を損なうと、そう申すのですか」
「いいえ」
藤兵衛は首を振った。
「熱そのものが国を損なうのではありませぬ。熱が、他の正しさを聞かぬ形に固まる時、そこに裂け目が生まれます。正しさは、憎しみからだけでなく、義の焦りからも刃に変わる――」
次の言葉が続く前に、雲浜はふと寒気を覚えた。
藤兵衛の瞳の奥へ、深い陰が差したのを見たからである。
「――某は、それを見たことがございます」
その最後の一句に、八郎がふと目を上げた。
雲浜もまた、言葉の意味そのものより、その声音に宿ったものへ先に打たれたようであった。
「見たことが、ある」
「はい」
藤兵衛はオラゾの名も、異界の滅びも語るつもりはない。ただ、己の眼に刻まれた“裂け目の型”だけは、嘘なく言葉へ滲んでいた。
「拒むことは義にございます。だが、拒むことそのものが国を守るのではない。国を守るのは、何をどの順で攘うかを違えぬことにござる」
雲浜は長く息を吐いた。
「……そういう見方も、あるか」
それは敗北の声ではなかった。
賛同の声でもない。
ただ、自分が立っている地面の下に、別の地層があると初めて知った者の声であった。
「わたくしは、なお軽々しくこの筋へ頷く気はありませぬ」
彼はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
その顔には、なお厳しさが残っている。だが、先ほどまでのような、相手をただ押し返すための厳しさではない。量り直した者の眼であった。
「朝倉殿」
雲浜は、まっすぐ藤兵衛を見た。
「あなたは船の理を説いたのではない。国が裂ける順を説き、その裂け目を越える段を説いた。しかもそれを、空理でなく、実のあることばとして言い切った」
藤兵衛は黙って受けた。
雲浜ほどの男に見透かされれば、飾ることはかえって浅くなる。
「信念を持つ者は多い。……だが、信念だけでは時代は動かぬ。また、動くだけの者は多いが、信念なき働きは、やがてどこかで曲がる」
雲浜の目が、わずかに細くなる。
「朝倉殿。あなたは、信念と行動の両方で、この時代を動かそうとしておる者だ。――それは、なかなか得難い」
その一言に、部屋の空気がひとつ深く沈んだ。
八郎は思わず、膝の上の手に力が入るのを覚えた。
梅田雲浜ほどの論客が、ただ相手の言を認めるのでなく、その人間の立ち方そのものを見てそう言う。
それは、議に勝った負けたとは別の重みであった。
雲浜は、それ以上は踏み込まなかった。
賛意は示さぬ。
だが、退くに足るだけのものを、いま自分は見た――そういう静かな決着が、その場にはあった。
「賛しはせぬ。されど、“そういう見方もある”とは覚えておきましょう」
そう言って、踵を返しかけた時だった。
雲浜はふと立ち止まり、振り返らぬまま言った。
「もっとも――」
その一語に、八郎が顔を上げる。
「この場へ来るよう勧めたのは、越前の橋本左内殿です」
藤兵衛の目がわずかに動いた。
八郎もまた、表情は変えぬまま、その名の置かれ方を胸の内で測る。
雲浜はなお背を向けたまま続ける。
「“聞く価値のある男が本能寺にいる”と。最初は、また越前らしい理屈の手回しよと思うた。されど……」
そこで、ほんのわずかに首だけが動いた。
横顔に、笑みとも皮肉ともつかぬ薄い影が差す。
「左内殿の眼も、まだ鈍ってはおらぬらしい」
雲浜はそれだけを残して、静かに去っていった。
襖が開き、閉じる。その気配は、なお理を抱いたまま、ひとところに留まらず流れてゆく。縁先の向こう、春の白い空には、雲が長くたなびいていた。
しばし、誰も口を開かなかった。
やがて八郎が、去っていった襖の方を見たまま、胸の内で静かに息を呑む。
朝倉藤兵衛は、船の理をもって論じたのではなかった。正しさが国を裂く型を語り、その裂け目を越えるための段を語った。
しかもそれを、空疎な論でなく、実のある筋として言い切った。梅田雲浜がそれを見抜き、なおかつ“信念と行動で時代を動かそうとする者”と評した。
その重みが、いまようやく八郎の胸に深く落ちた。
思えば、この男は土佐の海と工を知る。
だがそれだけではない。もっと別の、もっと深い裂け目を一度見てきた者だけが持つ静けさがある。
八郎はその静けさを、いまようやく言葉として捉えた気がした。
(……この男は、いったい何を見て来たのだ)
問いは浮かんだ。だが口には出さない。
いま必要なのは、答えを知ることではなく、その言葉がこの都でどこまで届くかを見ることだ。
藤兵衛は、去った雲浜の残した空気をまだ胸に感じていた。
賛意は得られぬ。だが、それでよい。いま要るのは味方を増やすことではない。刃が抜かれる刻を、ひと息でも遅らせることにある。
外では、春の白い曇りがなお都を覆っていた。その曇りの下で、言葉はまだ紙の上にある。
だが、いつまでも紙の上にだけ留まってはくれぬ。やがて誰かの口へ移り、誰かの胸へ入り、火にもなれば、橋にもなる。
八郎が静かに、重ねた文の束を引き寄せる。
「朝倉殿。今日は、ひとつ得難いものを見せて頂きました」
藤兵衛は怪訝そうに八郎を見る。八郎は、そこでようやく小さく笑った。
「紙の理だけでは届かぬところへ、言葉で橋を掛ける手つきを」
藤兵衛は答えなかった。
答えられなかった、という方が近い。
橋を掛けようとしているつもりはない。ただ、裂け目の手前で踏みとどまるべき順を、言葉に直しただけである。だが、その順そのものが、いまの都では最も欠けているものなのかもしれなかった。
本能寺の屋根の向こうで、遠く鐘が鳴った。
ひとつ、ふたつ。
その音は春の空に溶けきらず、白い曇りの底へ残っていた。
その日、本能寺の一間で交わされた問答は、まだ誰の勝ちともつかなかった。
けれど、雲浜のような男が、退き際に「そういう見方もある」と残したことだけは、たしかに一つの裂け目を橋へ変える始まりであった。




