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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第二十話 先走る影

 夜の残りがまだ本能寺の瓦に薄く張りついている頃、藤兵衛はすでに文机の前に座していた。


 灯心は短く、油は浅い。明るすぎれば人目を呼び、暗すぎれば文字が死ぬ。京では灯ひとつにもほどがある。まして今は、ひと夜のうちに書を詰め、明日を誤らぬ形へ整えねばならぬ身であった。


 隣では三岡八郎が文箱から書付を取り出し、畳の上へ順に並べている。


 鳴龍丸仕法実証書。

 天覧次第覚。

 献上御船普請礼式案。


 骨は昨夜までに立っている。だが、列参後の都を通すには、そのままでは足りぬ。


 藤兵衛は仕法実証書の一節へ筆を置いた。


 ――平均速力十四・五ノット。


 数の上では、これがもっとも雄弁である。だが今の都では、雄弁なものほど人を怯えさせる。速さを言えば異国の利器に見え、異国の利器に見えれば「御前に近づくるは危うし」となる。かといって伏せすぎれば、鳴龍丸はただの作り物めいた珍品に落ちる。


「朝倉殿」


 八郎が低く呼んだ。


「速力のくだり、本文では“比類なき速さ”とだけ置き、実測は別紙へ退けましょう」


 藤兵衛は筆を持ったまま考え、首を振る。


「退けすぎれば手柄話に見えまする。実の裏があると知れねば、政の文は空うござる」


「では、どこへ置く」


「本文に“比類なき速さ”と置き、その次の段に“実測これこれ”を添える。大書はせぬ。されど逃げもせぬ」


 八郎の目がわずかに細くなった。


「それで参りましょう」


 そう言って、すぐに控えへ写してゆく。八郎は決めるのが早い。だが独りで決めるのではない。拾うべき言葉を拾い、その場で筋へ組み込む速さがある。藤兵衛は昨夜からそれを見て、この男をあらためて実務家だと思っていた。


 やがて、まだ朝とも言いきれぬ頃、廊下の向こうで控える気配がした。本能寺に詰める堀田方の若党である。


「失礼仕る。武家伝奏筋より口上にて」


「申されよ」と八郎。


「は。――“このたびは、また何やら船のことまで朝へ持ち込む由に聞こえ候。異国めいた沙汰を御所筋へ入るるは、いかがなものか”とのことにござる」


 藤兵衛と八郎はほとんど同時に目を合わせた。

 まだ誰も「鳴龍丸天覧」だの「献上御船普請」だのとは申していない。それでも、船を絡めた別筋が朝へ入ろうとしているという印象だけは、もう武家伝奏筋へ届いている。


 八郎が静かに言った。


「返答は書にて返す」


 若党が去ると、八郎は一行を走らせた。


 “異国めきたる新手を入るるにあらず。わが国の手にて成りたる船の実を以て、朝威を損なわぬ順を整うるものなり。”


 藤兵衛は横へ細く添える。


 “双胴は横揺れ少なく、御前の見苦しさなし。停止・転回また急迫せず。”


「これで一つは受けられましょう。だが早いですな」


「うむ。中身は曖昧なまま、嫌うべき形だけが先に立っておる」


「問いを先に置かれております」


 都では、問いの立つ場所を取られた者が負ける。八郎はそれだけ言って、また筆を走らせた。


 ほどなく、今度は議奏に近い公家筋から書付が届いた。


 ――“条約の儀に加え、さらに目に見ゆるものを添えんとするは、いささか性急に過ぎるや”。


 八郎は鼻の奥で短く息をつく。


「まだ何も見ておられぬ。されど“目に見ゆるもの”だけは、もう悪しき響きで立っておる」


 藤兵衛は書きかけの一節を見下ろした。鳴龍丸はただ海を走るだけの船ではない。だが今の都にとっては、まず“何か見せ物を持ち込もうとしている”という気味の悪さの方が先に届いている。


「ならば、“見せる”ではなく“乱さぬ”と書くほかありませぬな」


 筆を執る。


 “天覧に供するは奇を衒うためにあらず。供奉の次第を乱さず、危なげなく御威を示すためなり。”


 八郎が頷いた。


「よろしい。“見せる”を前へ出せば負ける。“乱さぬ”を前へ出す。朝は順に動きますゆえ」


 藤兵衛は昨夜の堀田の声を思い出した。

 朝は威で動く。公は面で動く。その間を歩け。

 いま自分たちがしているのは、まさにそれであった。


 昼近く、八郎は武家伝奏筋へ返す文句をさらに詰めるため本能寺を出た。藤兵衛は残って図面と上覧覚を磨く。供奉船との離れ、停止の間、乗下船の次第。どれも数のままでは足りぬ。数で立てたものを礼に通る形へ置き直すことが要る。


 図面の端へ、小さく書きつける。


 鳴龍丸は証。献上御船は誓い。


 誰に見せるでもない。ただ自分の腹へ落とすための言葉だった。


 鳴龍丸は、すでに海の上で立っている。速く、安定し、異国製にあらず、わが国の手にて成りたる。だが、その証だけでは朝は動かぬ。その証の上に、献上御船という誓いを起こし、朝廷の面目へ結ばねばならぬ。その結び目を作るのが、自分だ。




 同じ頃、橋本左内は烏丸の奥にある小さな邸へ入っていた。表向きは病の見舞い、あるいは学問の相談で通る。京では用向きはいかようにも偽れる。だからこそ、偽れぬものは言葉の置き方だけになる。


 若い公家が左内を奥へ通すなり、眉を曇らせて言った。


「橋本殿。近ごろ、何やら落ち着かぬ噂がございますな」


「いかような」


「堀田殿が、条約だけでは済まさず、なお別の筋を朝へ入れんとする由。船のことだとも、異国めいた沙汰だとも……」


 左内は内心で苦く笑った。

 また同じである。具体は曖昧。だが嫌うべき輪郭だけが先に立っている。


「異国めいた沙汰ではございませぬ」と左内は穏やかに返した。

「異国の出来合いを引くにあらず、わが国の手で成したものが、御前にて危なげなく順を守りうるかを整えているに過ぎませぬ」


 相手は少し目を上げたが、なお晴れぬ。


「しかし、列参の後に、さらに何かを加えるは……」


「ごもっともにござる」


 左内はそこで一歩引いた。


「今の都で、朝威を損なうまいとする御憂いは、まこと正しきもの。某らもそこを踏みにじる気はございませぬ。ゆえにこそ、異国の理を持ち込むのでなく、御代の下に理を収める形にせねばならぬのです」


 相手の肩が、そこでほんのわずかに緩んだ。

 人が退けぬのは、理が通らぬからではない。己の正しさを守れぬからだ。左内はそのことをよく知っていた。


「列参の義は義として立てたまま、そのうえで朝威を損なわぬ道があるなら、かえってそれをお塞ぎになる方が、御憂いに背くやもしれませぬ」


 短い対座はそれで終わった。

 帰り道、左内は思う。理を説く前に、嫌悪の置き場が先に拵えられている。こちらが一歩遅れれば、船の中身を見られぬうちに“異国めいた新手”の札を貼られる。ならば、理だけでは足りぬ。朝廷がそのまま自らの正しさを保てる筋を、先に渡してやらねばならぬ。




 西郷吉之助は昼過ぎから町を歩いていた。橋の袂で立ち止まる者の癖、茶屋の前で引き返す浪士の目つき、藩邸近くで用もなく煙管を吹かす男の肩の向きまで拾う。人は口で嘘をつける。だが足は、行きたくない方角へはまっすぐ伸びぬ。


 四条へ下る手前で、西郷はふと立ち止まった。浪士ふうの若者が二人、道端で低く話している。片や薩摩訛、片や水戸訛の残る口つき。本来なら、そう長く立ち話をする筋ではない。


「どうも、あれはまだ何か企んでおるらしい」

「条約だけでは済まぬそうだ」

「朝へ見せものまで持ち込む気だとか」

「それは、いよいよよろしくない」


 吉之助はその場を通り過ぎながら、横目ひとつくれなかった。

 だが胸の内では、石がひとつ沈むような重みが増していた。噂とはもっと雑に広がるものだ。今のは違う。具体は曖昧なまま、嫌うべき結びだけが先に揃っている。


 日暮れ前、西郷は水戸藩京屋敷へ短く顔を出した。吉左衛門は庭先でそのまま話を聞く。


「若い者の息が荒うございもす。荒いだけならようございもす。じゃっどん、今は誰も彼も、よう似た結びへ落ちていく」


「“まだ何か仕掛ける”“朝へ余計なものを持ち込む”“よろしくない”――そういう筋か」


「左様でごわす」


 吉左衛門は深く頷いた。


「某のところへ来る若い者も同じじゃ。“裏切り”とはまだ申さぬ。されど、昨日まで持たなかった不信の形だけは、もう胸へ入っておる」


「手を入れちょる者がおりもすな」


「おる。だが今は、名を決めぬ方がよい」


 西郷はそれで足りた。今はまだ、敵の顔より先に、敵の入り口を塞ぐ方が先である。




 鵜飼吉左衛門の前には、その日だけで三組の若い水戸藩士が現れた。いずれも志に厚い。だからこそ、今の筋が呑み込みづらい。


 三組目の若者は、最初から膝を進めていた。二十そこそこ、眼だけがひどく熱い。


「ご老。このたびの筋、どうにも腑に落ちませぬ。拒むばかりでは足りぬ、朝威を立てたうえで通す筋もあると仰せられる。では斉昭公のお志が急に変わったように聞こえます。水戸学に背くのではありますまいか」


 吉左衛門は叱らず、静かに問うた。


「水戸学とは何を守る学だ」


「申すまでもなく、尊王の道にございます」


「では攘夷とは何のために唱える」


「朝威を損なわぬためにございます」


「その通りだ」


 吉左衛門は頷いた。


「ならば、そなたの胸にあるものも、斉昭公の胸にあるものも根は同じだ。違って見えるのは、守るための手順が変わったからにすぎぬ。昨日までの段では、まず拒むことに理があった。だが今、ただ拒み続けるだけでは、やがて朝廷が“否と申すばかり”に見える。いちばん損なわれるのは何だ」


 若者は答えられない。


「朝威だ。拒むこと自体が悪いのではない。拒み続けた果てに、朝威が痩せて見えては守りにならぬ」


 若者はなお食い下がる。


「されど、それでは結局、条約を容れる理屈を立てるだけでは」


「違う」


 吉左衛門の声がわずかに強くなった。


「水戸学は、ただ異国を斥けよと申す学ではない。朝を中心として世の筋を正せと申す学だ。骨はあくまで尊王。攘夷はその骨を守るための手であって、手そのものが骨ではない」


 若者は目を伏せた。


「……では今は、その手を変えると」


「変えるのではない。継ぐのだ。列参で“軽々しく勅許はならぬ”という筋は立った。これは第一の手。そのうえで今度は、朝威を立てたまま異国に侮られぬ形をこちらが握る。鳴龍丸の天覧を先に置き、献上御船普請をもって“御代の下に理を収める”筋を通す。これが第二の手だ」


「それは……攘夷を捨てるのではなく」


「捨てぬ。攘夷の志を、朝威を立てる次の段へ載せ替えるのだ」


 しばし沈黙が落ちた。若者の硬さは、先ほどより少しほどけていた。


「されど、その載せ替えが、若い者には“急な転び”に見えます。そこを誰ぞに煽られれば、裏切りと取る者も出ましょう」


 吉左衛門の眼が深く沈んだ。


「ゆえに、わしがこうして回っておる。骨を折らずに向きだけを変える。それがいちばん難しい。だがそこを違えれば、水戸の学も、水戸の志も、他人の手で刃にされる」


「……他人の手で、にございますか」


「そうだ。熱は尊い。だが向きを失えば、誰ぞの都合のよい刃にもなる。そなたらの義を、そなたらのもののままで終わらせよ。他人に使わせるな」


 若者は深く頭を下げた。


「……承りました。なお胸の内は晴れきりませぬ。されど、ご老のお言葉、軽々しく背きはいたしませぬ」


「それでよい。人の胸はすぐには変わらぬ。変わらぬまま踏みとどまることもまた義だ」


 若者が去った後、吉左衛門はしばらく庭を見ていた。列参の義も、その後の人心の硬化も自然だ。だが、若い者の迷いがあまりに早く“裏切り”の疑いへ寄せられている。そこに、誰かの手が入っている。


「急がせているのは、風ばかりではない……」


 水戸の若い志まで、誰ぞが早く刃へ変えようとしている。そのことが何より恐ろしかった。




 夕刻、本能寺へ戻った八郎は、藤兵衛の前へ二通の控えを書き置いた。


「結局、どちらも同じところへ戻りますな。まだ具体は知られておらぬ。されど、好ましからぬものが来る、という形だけは先に置かれておる」


「中身より先に気色を取られておる」


「ならばこちらは、中身を磨くだけでは足りませぬな」


「ええ。中身が最初から“順”として見えるようにせねば」


 八郎は目の中だけで笑った。


「朝倉殿。ようやく噛み合うて参りましたな」


 藤兵衛は文机の端の小紙を見た。


 鳴龍丸は証。献上御船は誓い。


 証だけでは足りぬ。誓いだけでは空い。証を誓いへ移す、その細い橋の上に、いま自分たちは立っている。


 都の空はもう暗い。だが昨夜のような漠とした不穏ではない。不穏は形を持ち始めていた。形を持つものなら、こちらも形で応じられる。


 藤兵衛は新しい紙を広げ、筆を執る。八郎もまた、黙って隣へ座る。


 五志は別々の持ち場で、それぞれが同じ壁へぶつかり、その壁の形を少しずつ掴み始めていた。


 明日は、さらに手が深く入る。

 そう知れた時、人はただ怯えるばかりではない。帆を締め、舵を固め、綱を点検する。


 京の夜は更けてゆく。

 その更ける速さまで、今は誰かに急かされているようで、なおさら筆を止めるわけにはいかなかった。

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