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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第十九話 風を急がせるもの

 水戸藩京屋敷の門を出た時、藤兵衛は夜気の底に、昼とは異なる冷えを感じた。

 肌を刺すほどではない。だが、骨に触れる。列参の後の京は、寒さそのものより、寒さの意味が変わる。


 八郎が文箱を抱え直した。

「本能寺までの道、少し外しましょう。今宵は目より耳が多い」

「承知」


 二人は烏丸から一筋ずれた暗い町筋へ入った。夜店の火は低く、往来も昼ほどではない。にもかかわらず、人の気配だけが妙に薄く広がっている。


 その薄さの中で、店先や辻で交わされる短い言葉が、不意に耳へ残った。


 条約の儀はもはや難しかろう。

 堀田は朝の御心から遠いらしい。

 船まで持ち出すのは、どうにもよろしくない――。

 誰かが熱を込めて言っているのではない。


 むしろ、熱のなさが不気味だった。人が怒っているというより、いつの間にか皆が同じ結びへ納まっているような響きである。


 藤兵衛は歩を緩めずに言った。

「……言い回しが似すぎておる」


 八郎も前を見たまま応じる。

「うむ。京の噂は早いが、こうも骨が揃うことは稀です」


 それだけで十分だった。

 下京と上京とでは、同じ噂でも癖が違う。町人が面白がって付ける尾ひれと、浪人が面目を交えて語る毒とは、本来同じ姿を取らぬ。ところが今夜は違った。

 どこで拾っても、噂の骨がひどく似ている。まるで一つの筆が、幾つもの口を借りて書き散らしているようだった。


 本能寺への帰り道、藤兵衛の胸には、水戸屋敷で見た吉左衛門の眼が残った。

 あの老人は、すでに同じものを嗅ぎ取っていたのだろう。噂の速さではなく、向きの揃い方を。




 水戸藩京屋敷では、奥書院の障子が静かに閉ざされていた。五人の座は解け、畳の上にはまだ人の重みだけが残っている。


 鵜飼吉左衛門は火鉢の前へ戻り、しばし炭の赤を見ていた。

 役は定まった。筋も立った。にもかかわらず、胸の底の鈍い重みだけが消えない。


 ――おかしい。

 京の風聞はたいてい、角を曲がるごとに濁る。

 誰かの憤り、誰かの義理、誰かの思惑が混じり、同じ話でも町ごとに違う顔になる。そうして初めて“京の噂”になる。


 ところが今夜、町を走る言葉は、濁る前の骨だけが妙にきれいに残っていた。

 列参が宮中を硬くしたのはたしかである。だが、列参から二日で町場までこれほど均一な結びが広がるのは不自然だった。自然に立つ風なら、もっとよじれ、もっと遅れ、もっと醜くなる。


 今夜の風は、よじれず、遅れず、醜くなりきらぬ。

 それがかえって異様だった。


「……京の風は、こんなに素直ではない」


 独り言のように漏れたその声へ、背後から低い声が重なった。

「まことに」


 西郷吉之助である。屋敷を出たはずが、いつの間にか障子の脇に立っていた。


「風の量ではなか。向きが揃いすぎちょる」

「そなたも見るか」


「見もす。噂だけなら、まだ人心とも申せます。じゃっどん、今夜は人の足も妙に揃うちょる」

 吉之助はそれだけ言った。


 吉左衛門には、それで足りた。

 自分は言葉の流れで異変を知る。吉之助は足の向きで裏の手を読む。違うところから見て、同じ異様へ行き当たったのである。


「水戸筋を見てまいれ」と吉左衛門は言った。

「若い者の熱が先に立てば、他人の手が要らぬ」


 とりわけ水戸藩の攘夷派は、ここへ来て足並みを乱し始めていた。

 つい先日まで、斉昭公の志は勅許拒否の側にあると信じて疑わなかった者たちである。公武のあいだにあっても、まずは朝威を守り、軽々しく条約へ屈してはならぬ――それが藩論の骨と映っていた。


 ところが今、吉左衛門の胸のうちでは、その骨を折らずに向きだけを変える策が立ちつつある。鳴龍丸の天覧を先に置き、献上御船普請をもって朝廷の面目を立て、そのうえで勅許へ通ずる筋を開く。


 理のうえでは通る。斉昭公の志にも背かぬ。

 だが、若い攘夷派の胸には、なおそれが“急な転び”に見えかねなかった。

 吉左衛門が恐れていたのは、敵の策そのものより、味方がその転びを“裏切り”と取り違えることであった。


「承知しもした」と吉之助は低く答えた。

「水戸の若い衆にしてみれば、昨日までの“拒む”が、今日は“通す”に聞こえもす。そこを誰ぞが突けば、熱はすぐ別の名を持ち申す」


 吉之助は一礼し、長くは留まらず去っていった。

 長く話せば、かえって形がつきすぎる。まだ名を与えるべき段ではない異変というものがある。


 書院はまた静かになった。

 炭が小さく鳴る。吉左衛門は目を閉じた。

 列参そのものは、自然に起きた。その後の人心の硬化も、また自然だ。


 だが、その自然の上へ、誰かが別の流れを薄く重ねている。

 公家の憂いに、町場の嫌忌に、武家の猜疑に――それぞれ別々のところから火が立つはずのものを、ひとつの風向きへ寄せている。


 それが見えぬ。見えぬが、手つきだけはある。


 吉左衛門は火鉢へ手をかざし、静かに呟いた。


「風を急がせる者がいる……」


 その一言は、炭の熱より冷たく、書院の隅へ沈んでいった。




 ――翌三月十五日・夜 江戸・桜田上屋敷。


 書院の小机に、京からの手箱が三つ並んでいた。

 いずれも本来の刻限より早い。


 彦根藩主・井伊いい掃部頭かもんのかみ直弼なおすけは、それを異としなかった。


 驚くどころか、ようやく時が自分の望む速さへ追いついてきたとでもいうように、静かに一つ目の封を切った。


 京から江戸まで、報は本来もっと鈍い。人も馬も、勝手には早くならぬ。早くなるのは、道が整えられた時だけである。


 直弼は数日前から、近江商人筋へ金を流し、急使の継ぎを密かに改め、京からの報が通常より一日あまり早く届くよう仕向けていた。


 それは奇策ではない。

 秩序を保つとは、何より先に時を握ることだと、直弼はよく知っていた。

 人は情報そのものに負けるのではない。

 情報が届く刻に負ける。

 ひと刻遅れれば、防げたものも防げぬ。ひと刻早ければ、相手に考える暇を与えずに済む。


 しかも直弼はいま、ただの譜代大名としてこの文を読んでいるのではなかった。

 表向きにはまだ何の沙汰も出てはいない。だが将軍家定より、来る四月、大老職を任せるべき旨の内々の打診は、すでに届いている。

 無論、そのことはまだ公に洩れてはならない。洩れれば先に人心が動く。

 されど直弼の胸中では、もはや次の政を預かる者として、諸事の軽重が量られていた。


 ゆえに彼にとって、京の異変は他人の競り合いではない。来たるべき政の秩序を、誰の手で立てるかという先争いに他ならない。


 老中首座・堀田正睦が朝廷との間に新たな筋を通し、一橋派がそこへ入り込むなら、それはそのまま、以後の幕政の骨組みに食い込むことを意味する。


 直弼が報の速さに執するのは、単に策を好むからではなかった。

 すでに先手を執らねばならぬ身であると自負しているからである。ならば支配すべきは、内容より前に速度である。


 最初の文には、列参後の宮中の硬化が記されていた。

 二通目には、京の町に流し置いた風聞が、まずまず思う向きに働いていることが記されていた。

 三通目には、正睦が土佐・越前・水戸・薩摩の者どもと結び、朝廷の面目を立てる別筋を急ぎ整えつつあることが記されていた。


 直弼にはそれで十分だった。三通を静かに畳む。

 灯明の影が、その頬へ細い縦の線を引いた。


「……正睦殿、そこまで寄るか」


 怒気はなかった。

 むしろ、盤上の石が思ったより大きく動いたのを認める時の、冷えた感心に近い。

 側に控える家臣が、わずかに息を詰める。


 直弼は滅多に感情を表へ出さない。しかも今は、まだ表向き、政の最高位にあるわけではない。書院の内での私語にすぎぬ。


 だが、だからこそ彼の静けさは怖かった。公の仮面を着けぬまま、それでもなお寸分の無駄なく物を考えている。


「筋が通っておる」と直弼は言った。

「条約の利を正面から説いては勝てぬと見て、朝廷の面目へ回った。土佐の新造蒸汽船をもって、勅許しても面目を失わぬ秩序を立てようとしておる」


 家臣は深く頭を垂れたまま、主の声を待った。

 直弼は続ける。

「よい策は、よいと見ねばならぬ。そうでなければ崩しようがない。世は熱と義理で動いているように見えて、実はそうではない。人は、自ら秩序に従っていると思える筋にこそ乗る。正睦殿の策は、朝廷へ“勅許しても面目を失わぬ秩序”を与えようとしておる。ゆえに危うい」


「危うい、と申されまするか」

「危うい。なぜなら、秩序は二つ要らぬからだ」

 筆を取り、白い紙へ迷いなく書きつけた。


 京の報、なお早めよ。刻を先んじて取れ。

 町場には“朝の面目”を、武家には“公儀の私曲”を、それぞれ別に流せ。

 言葉は一つに揃えるな。結びのみを揃えよ。


 家臣は息を潜めた。直弼はさらに書き足す。


 人心は理で動かぬ。理に名を借りた秩序で動く。

 ならば相手の秩序が立つ前に、別の秩序を先に町へ置け。


 そこまで書いて筆を置き、静かに言った。

「騒がせたいのではない。先に納めたいのだ」


 その一言に、直弼の本質があった。

 彼は混沌を愛するのではない。むしろ混沌を嫌う。嫌うがゆえに、その芽を放置しない。そのためには、裏から風を入れることも厭わぬ。


 手段は秩序のためにある。秩序を守るためなら、表の清さにこだわる理由はない。

 それが井伊直弼の理であった。


 直弼は、書いた紙を畳まず、しばし灯の下へ置いたまま、低く言った。

「正睦殿。もはや我らの道は分かれた。そなたが一橋の秩序を立てるつもりなら、こちらはその秩序の名を奪う。秩序を書き換えようとする者に、容赦はせぬ」


 その声は、誰へ聞かせるものでもない。

 だが家臣は、その場にあって、自分が開戦の詞を聞かされたのだと知った。


 直弼は文の末尾へ、‟一文”を書き添えた。


 筆は短く、そこに慈悲はなかった。

 家臣は目を伏せたまま、墨の置かれる音だけを聞いていた。


 書き終えると、直弼はためらいなく紙を折り、封をした。


「走らせよ。誰の手から出たとも知れぬように」


 家臣が去った後、直弼は一人で灯明を見た。

 炎は細く、揺れは小さい。だが、その小さな揺れひとつでも、部屋全体の影の形は変わる。


 世も同じだ、と直弼は思った。

 大事なのは、表で大きく動くことではない。光そのものを握れぬなら、せめて影の落ちる角度だけでも押さえることだ。


 机を打つ指の音は、ごく軽かった。


 怒りの拍子ではない。算段の拍子である。


「……間に合うか、間に合わぬか。成るも崩るるも、もはや手の内よ」


 風はない。

 それでも、炎はなお揺れていた。




 その夜更け、本能寺へ戻った藤兵衛は、文机の前に座してもしばらく筆を取らなかった。

 町で耳にした噂の骨、八郎の短い声、水戸屋敷で見た吉左衛門の眼――それらが胸の内で重なっている。


 鳴龍丸は証。

 献上御船は誓い。


 そう掴んだばかりだというのに、その証と誓いのあいだへ、誰かが先に濁りを流し込み始めている。


 藤兵衛はゆっくり目を開いた。

 急かされている。だが、急かされるまま順を誤れば、それこそ相手の思う壺である。


 筆を執る。

 白い紙の上へ、最初の一線が引かれた。

 風が急がされている。ならばこちらは、急かされぬように急ぐほかない。


 京の夜はなお静かだった。

 静かなまま、いよいよ深く、険しくなっていた。

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