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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第十八話 一橋五志

 ――安政五年三月十四日・夕刻 京。


 日が落ち切る前の都は、妙に静かだった。

 静かだが、鎮まってはいない。御所の屋根のうえを渡る風は薄く冷え、その冷たさの奥に、人の口から口へと伝わる不安の気配を含んでいる。今の京は、声より先に気色が立つ。気色が立てば、まだ起きてもおらぬ事まで、まるで既に起きたような重さを持つ。


 二日前――三月十二日。

 朝廷に仕える廷臣八十八名が列参し、条約勅許に強く異を唱えた。

 この八十八卿列参を境に、宮中の空気は目に見えて変わった。


 それまでは、なお理を戦わせる余地があった。

 海防はいかにあるべきか。異国との交わりをどこまで許すべきか。条約の勅許は国のためか、あるいは禍の端か。

 議の形は保たれていた。


 だが今は違う。

 朝廷の面目を損なうまいとする憂い、海防定まらぬうちの開国を恐れる焦り、そして「勅を与えること」そのものに漂う重さが、言葉の前に座を支配し始めている。

 条約に理があるかどうかでは足りぬ。

 いま都で問われているのは――勅許を与えてなお、天朝の御威を損なわぬ筋があるか、であった。


 本能寺で堀田正睦との会談を終えた藤兵衛と八郎は、日も傾ききらぬうちに御所蛤御門の北西へと向かった。


 水戸藩京屋敷。

 古くより公家・学者・水戸筋の者の出入りが絶えぬ場所である。本能寺や諸藩邸ほど武家の目が濃くなく、かといってまるで人気がないわけでもない。列参の後の京で、越前・土佐・薩摩・水戸の者が一夜ひそかに顔を揃えるなら、ここ以上に“自然で、しかも不自然の少ない場所”はなかった。


 土間の行灯が、薄闇の輪郭だけを柔らかく照らしていた。

 門前に立っていた老人が、二人を見るなり静かに一礼する。


「水戸藩 京都留守居役、鵜飼うかい吉左衛門きちざえもんにござる」


 齢六十。

 頬は痩せている。だが弱ってはいない。日々の奔走がそのまま刻まれた顔に、歳月に磨かれた刃のような目だけが冴えていた。

 この老臣は、いまや単なる水戸の留守居役ではない。藩主・徳川斉昭の志を朝廷へ通す最後の綱であり、列参以後の硬くなった公家衆の胸へ、別の筋を差し込もうとしている張本人でもあった。


「よう参られた。時が惜しい。中へ」


 声音に愛想はない。だが、無駄もない。

 藤兵衛はその一言で、この老人が京という都の“長い呼吸”をよく知る者だと悟った。急くべきところだけ急ぎ、その他は少しも騒がぬ。騒げばそれだけ、人の目と耳を呼ぶからだ。


 奥書院に通されると、すでに一人の男が端坐していた。


 福井藩 侍読じどくけん御内用係ごないようがかり橋本はしもと左内さない


 若い。まだ二十三にすぎぬ。

 だがその若さのうちに、妙な静けさがある。列参後の都がここまでざわめいているというのに、その面差しには焦りより先に勘定があった。

 何を言えば通り、何を言えば反り、どこで押し、どこで引けば人の心が折れずに向きを変えるか――それを頭の内でいくつも並べている顔であった。


「朝倉殿、三岡殿」


 左内は簡潔に会釈した。


「本能寺の首座はいかがであった」


「筋は見ておられた」と八郎が答える。

「もはや条約の理のみでは通らぬこと、堀田公も心得ておられる。よって、明日より七日で筋を立てると」


 左内は細く頷いた。


「ならば、ようやく同じ地面に立てる。今は、急ぐために順を踏まねばならぬ」


 その時、障子の外にかすかな気配がした。

 見れば、黒羽織の大きな影が門口を背にして立ち、通りの向こうを最後に一度だけ確かめている。

 薩摩藩 御庭方役おにわかたやく西郷さいごう吉之助きちのすけであった。


 肩幅の広い男だが、足音が軽い。

 斉彬の命を受け、薩摩と京、江戸と諸藩、公家と武家のあいだを、自らの目と足で結びつけてきた男である。文より先に人を読み、理屈より先に気配を掴む。いまの京で最も欠いてはならぬ類の才を持っていた。


 吉之助は障子を閉めるや、低く言った。


「……怪しき影は見えもはん。じゃっどん、列参の後でごわす。今の京は、人が動く前に噂が動く。長居はでき申さん」


 吉左衛門が短く応じる。


「よう見てくださった。今宵はその目が一番頼りになる」


 これで五人が揃った。


 土佐・朝倉藤兵衛。

 越前・三岡八郎。

 越前・橋本左内。

 薩摩・西郷吉之助。

 水戸・鵜飼吉左衛門。


 蝋燭の火がゆらぎ、一橋の五つの影が畳に長く伸びた。

 誰もが座を正す。

 この夜の一言が、明日からの都の流れを変えるかもしれぬ――その重さを、全員が知っていた。


 吉左衛門が巻物に手を置き、まず口を開いた。


「三月十二日の列参にて、都の気色は変わった。もはや条約の利をいかに説こうとも、それのみでは朝議は動かぬ。いま要るのは、朝廷が勅許を与えてなお、面目を失わぬ形じゃ」


 老臣の声は低い。だが少しも揺れなかった。


「ゆえに此度の策は、条約をそのまま願うものにあらず。先に鳴龍丸を天覧に供し、証を先に見せ、勅許をもって本式を起こす。これが二段の筋じゃ」


 鳴龍丸は証。

 献上御船は、その証の上に起こす誓い。


 ただ船を献ずるのではない。

 まず日ノ本の手で成した蒸気船が、たしかに海のうえを走り、御前に耐えうることを示す。そうして初めて、新たに朝廷へ奉る船の普請が「異国の真似」ではなく、「天朝の名において国の楯を起こすこと」へ変わる。


 八郎が奉書を広げた。


「その二段の筋を通すため、文の骨を整えて参りました」


 畳へ並べられた書付は三つ。

 一つは、鳴龍丸の仕法と実証を朝儀向きに整えた書。

 一つは、天覧の次第と供奉の立て方を記した覚。

 一つは、新たに普請する献上御船の構想と礼式を、武家伝奏・議奏へ通りやすい形へ改めた文案であった。


「某の役は、土佐で積み上げられた実を、政務の文へ継ぐことにござる」と八郎は言った。

「鳴龍丸の仕法、速力、停止転回、双胴の安定――それがいかに見事でも、書付の筋が食い違えば、京ではそれだけで怪しまれる。よって、仕法・上覧・礼式の三書を、同じ理にて束ねる。土佐の技と、越前の制度文を一つの骨に通す。それが三岡八郎の務めにござる」


 淡々としている。

 だが、その言葉には揺るぎがなかった。

 兵器製造所頭取として、工と材と金と仕組みをひとつの制度へ落としてきた男である。いまはその手つきを、船と朝議のあいだへ持ち込んでいた。


 左内が、奉書の一葉を引き寄せて蝋燭の灯に傾けた。


「文の骨はよい。されど、これだけでは“通る”に足りぬ」


 八郎は表情を変えず、「どこが足りませぬ」と返した。


 左内は筆先で一箇所を示した。


「ここは“船の利”を述べている。だが列参の後、朝廷が恐れているのは利ではない。利を取るがため、天朝が異国へ引かれて見えることだ。これを越えるには、蒸気船がただの便利な器械ではなく、朝威を損なわぬどころか、むしろ御代の下に理を収めるものと説かねばならぬ」


 若い声は静かだが、熱を含んでいた。


「献上御船の普請を、朝廷主導の御治績として位置づけよ。そうすれば、公家衆は“開国に屈した”のでなく、“理を御威の下に置いた”側に立てる」


 そこで左内は、わずかに視線を上げた。


「某の役は、これを公家衆の耳へ通る論に変えること。陰には、まだ道理を受ける者がおる。名分を渡せば、退かぬ者でも向きを変えることがある」


 藤兵衛は、その言葉に左内の本領を見た。

 学を語るのではない。学と政治論を、人が自ら正しいと思える筋へ翻してみせる。


 吉之助が、腕を組んだまま低く言う。


「理も文も、よう出来ちょります。じゃっどん、今の京は、筋が立てばそのまま通る場ではなか」


 部屋の空気が少しだけ締まった。

 誰もが、その言葉を待っていた。


「列参ののち、公家衆の中にも、尊攘の志士らの中にも、気の立っちょる者がおりもす。文がどれほどよう出来ても、外で一太刀抜かれれば、それで終いでごわす」


 吉之助は順に一同を見回した。

「おいの役は、外の気色を拾うことにございもす。公家の動き、諸藩の腹、井伊筋の影、尊攘派の騒ぎ――それを先に掴み、火になる前に踏み消す。とりわけ水戸の若い衆は志が強うて、ようも悪うも熱が早い。鵜飼殿と手を合わせ、暴発だけは抑え申す」


 吉左衛門が深く頷いた。


「そこは肝要じゃ。列参の義は義として守らねばならぬ。じゃが、それが刃へ化けてはならぬ」


 吉之助の役目もまた明らかであった。京都情報線と諸藩連絡線の中核。

 気配を先に掴み、井伊筋の動きも、味方の熱も、火になる前に押さえる者である。


 そこで、吉左衛門の眼が藤兵衛へ向いた。


「朝倉殿。そなたはどう見る」


 座の視線が一度に集まる。

 ここで藤兵衛は、持参した包みを前へ押し出した。朝語に改めた書付と図面が現れる。


「某は、鳴龍丸の理を、御前に掛かる形へ直します」


 声は静かであった。だが、はっきりしていた。


「鳴龍丸は、異国の出来合いを買い受けた船ではござらぬ。土佐にて工夫を重ねた独自の仕法をもって成した、まぎれもなく、わが国の手にて成りたる船にござる。しかも平均速力十四・五ノット――当世の蒸気船として、比類なき速さを得ております」


 その一言に、部屋の空気が変わった。

 ただ“良い船”ではない。

 世界に冠たる速さ。そのうえ、異国に拠らず、わが国の手にて成りたる船。

 それは、単に海を走る器ではなく、日ノ本の手が異国に劣らぬどころか、凌ぎうるという証そのものだった。


 藤兵衛は続けた。


「されど、いかに速くとも、御前に掛けるには速さのみでは足りませぬ。供奉の舟を乱さず、人の目に危なげなく見えねばならぬ。ゆえに某は、停止の間合い、転回の角、双胴の安定、そのすべてを実証したうえで、朝議に通る語へ改めます」


 そして一拍置き、座の奥を見た。


「――鳴龍丸は証、献上御船はその証の上に起こす誓い。某は、その証を朝の言葉へ移し、誓いを礼の形へ置く役目と心得ます」


 誰も、すぐには口を挟まなかった。


 それは技術の説明でありながら、同時にこの策全体の芯を言い当てていたからである。

 吉左衛門が朝廷の物語を書き換えるのなら、藤兵衛はその物語が空手形でないことを証し立てる者だった。


 ただ船に詳しいのではない。

 ただ儀礼語に通じているのでもない。

 海のうえで立った実を、都で通る形へ直す者――この策の要石であった。


 八郎が、待っていたように言葉を継ぐ。


「そのゆえに朝倉殿は要るのです。某は文を束ねられる。されど文の奥まで船を知ってはおらぬ。左内殿は理を通せる。されど御前の次第へ落とすには、なお実証が要る。鳴龍丸の速さと安定、その意味を、朝の言葉へ変えられるのは朝倉殿の他にござるまい」


 左内も頷いた。


「うむ。これでようやく、論が空へ浮かずに済む。朝倉殿の役は“技を語る”にあらず。“技を朝廷が受け取れる形へ直す”ことにある」


 吉之助が低く笑った。


「ほいでよう分かり申した。鳴龍丸は海の証、朝倉殿はその証に舌を与える役でごわすな」


 吉左衛門が、皺深い手で膝を打ち、一同を見回した。


「では、役をあらためて定める」


 蝋燭の火が揺れ、五つの影が少し近づく。


「某が受け持つは、朝廷説得の総筋。列参で固まった公家衆の憂いを、勅許反対のみに留めず、朝威を立てる道へ書き換える。鳴龍丸の天覧と、献上御船普請を、“天朝主導の文礼”として立てる」


「三岡殿。そなたは表の文じゃ。土佐の実証を越前の制度文へ継ぎ、仕法・上覧・礼式の三書を一つの骨に束ねよ。武家伝奏・議奏・関白筋、いずれに出しても筋のぶれぬ文を整えよ」


「承りました」


「左内殿。そなたは陰の理じゃ。蒸気船を異国依りの器ではなく、御代の下に理を収めるものと説け。朝廷が面目を失わずに勅許しうる名分を、公家衆の胸へ差し込め」


「心得ました」


「西郷殿。そなたは外の眼。井伊筋の影、諸藩の腹、浪士の火種、公家の気色――いずれも先んじて拾え。とりわけ水戸筋の若い者らが煽られぬよう、某と手を合わせよ」


「合点でごわす。火になる前に、灰にしもす」


「朝倉殿。そなたはこの策の要石じゃ。鳴龍丸の速さと安定、その証を御前に掛かる言葉へ変えよ。世界に冠たる速さを、ただ誇りとせず、朝威を支える実へ変えよ。献上御船普請が空論にあらぬと示すのは、そなたの舌と筆にかかっておる」


 藤兵衛は深々と頭を下げた。


「承りましてござる。土佐の工と海の実を、朝の形へ通してみせまする」


 その返答には、ためらいがなかった。

 藤兵衛は自らが単なる随員でも、単なる技術役でもないことを明確に掴んだ。


 吉左衛門が筋を立て、八郎が文を束ね、左内が理を通し、吉之助が外を押さえる。

 だが、それらすべてを“空でないもの”にする芯は、自分の握る鳴龍丸の証にある。


 外で風が鳴った。御所の方角から来る風は冷たい。

 だが先刻までのように、ただ不穏を運ぶだけの風ではない。何かがようやく形を取り始めた時の、底の締まる音に近かった。


 会は長くならなかった。

 長くしてはならぬ会であった。


 吉之助が先に出る。次いで左内。

 八郎は文箱を抱え、藤兵衛と目を合わせた。


「朝倉殿。上覧覚のうち、停止と転回のくだり、今宵のうちにもう一段改められますか」


「改めまする。速さを誇るだけでは足りぬ。御前にて危なげなきこと、その一条をさらに立てましょう」


「ならば某は、それを武家伝奏向きの文へ移します」


 二人の応酬は短い。だが、もう探りはなかった。

 互いの役が、はっきり見えているからだ。


 門口まで見送りに出た吉左衛門が、最後に静かに言った。


「明日よりが本番じゃ。文が通るか否かのみではない。都の心が、どちらへ傾くかの勝負になる。皆の衆――腹を括れ」


 誰も大声では応じなかった。大声は、都では志の深さを示さぬ。

 ただ四人、それぞれに一礼した。


 門を出ると、空はすでに藍に沈んでいた。御所の方角に灯が点り、遠くで半鐘がひとつ鳴る。


 八郎が歩きながら、低く言った。


「これで、ようやく人が揃いましたな」


 藤兵衛はすぐには答えなかった。

 胸の内で、今宵の五人の役をひとつずつ確かめる。


 憂いを書き換える、鵜飼吉左衛門。

 理を差し込む、橋本左内。

 外の火を踏み消す、西郷吉之助。

 文を束ねる、三岡八郎。

 そして――海の証を朝の形へ通す、朝倉藤兵衛。


「……揃うた、というより」と、やがて藤兵衛は言った。

「ようやく、同じ楯を支える手が定まったのでござろう」


 八郎が、わずかに笑う。

「楯、ですか」


 藤兵衛は答えず、ただ前を見た。

 鳴龍丸は証。

 献上御船は誓い。

 その二つを朝の形へ通し、国の楯に変える――それが己の役である。


 都の夜気の底で、五つの志は、一つに寄った。


 後に“一橋いっきょう五志ごし”と呼ばれることになる志士たちが、この静けさの中で動き出したのである。


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