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第六話 国を呑む

 役目を終えた夕暮れ時、二人は岸本の市町へと足を運んだ。

 竜馬が図々しく「こじゃんと腹が減ったのう…」と横目に藤兵衛を見ながら何度もつぶやくので、先に惣兵衛を家屋敷に帰し、夕餉を共にしようと誘ったのだ。


 姫倉山を背にした岸本の町は、塩と海産物を扱う商人で賑わい、各種職人たちの作業場からは金槌の音や火花が絶えず響く。香ばしい焼き魚の匂いが漂い、庶民の笑い声が通りに満ちていた。


「ほら、あそこじゃ!」

 竜馬が指さす先には、岡ノ芝踊場と呼ばれる広場があり、太鼓と笛の音が鳴り響いている。

 二人は広場の周りに立ち並ぶ茶屋の一軒へ入り、暖簾をくぐると、温かな湯気と酒の匂いが包み込んできた。粗末な卓には魚の煮付けと塩辛、隣町の赤岡の地酒が並ぶ。


るばあ飲んどうせ! ようけ酔うたら藤兵衛殿の剣筋を思い出すかもしれんきのう!」

 竜馬は大杯を掲げ、豪快に笑った。


 酒を酌み交わしながら、藤兵衛は異界オラゾで学んだ政道や経世の道を語った。

 竜馬は目を輝かせ、まるで子供のように身を乗り出して聞く。


「ほう、それは初耳じゃ! 論を以って国を治める理か!」

「そうじゃ、国とは人が集まりて作るものじゃ。人が十人集まれば十通りの望みがあり、百人集まれば百通りの思惑がある。まつりごととは――その諸々の望みを束ねて、一つの道筋へと整えることじゃ」


 竜馬が首を傾げると、藤兵衛は卓上の盃と徳利を使って説明を続ける。

「この盃を村に、徳利を藩に見立ててみい。村々にはそれぞれ水が溜まっちゅう。川筋を誤れば水は溢れ、田を荒らす。じゃが正しく流せば稲は実り、人々は飯を食える。政とは、その水の流れを定める川筋を作ることと同じじゃ」


「なるほどのう……水が人の心ゆうことか!」

「そうじゃ。藩政を治める者は、川筋を決める者。されど、川の水を止め無理やり堤を築いたりすれば、いずれ大水となって国を呑む。それが今の日ノ本よ」


 藤兵衛はそう言って徳利を傾けて杯に酒を注ぎ、一気に呑み干した。


「……藤兵衛殿は大した男じゃのう。江戸の象山先生もそんなことは教えてくれやせんかったぜよ」

 同じく杯を空けた竜馬が急に真顔になり、藤兵衛の横顔を見た。


「藤兵衛殿は、――“国を呑む気”があるかえ?」


 藤兵衛は、しばし空の盃を見つめたまま沈黙した。その瞳には、オラゾで見た幾多の滅びと、別れた仲間たちの姿がよぎっていた。


「……国を呑む、か」

 低く呟き、ゆっくりと盃を卓に置いた。その声音には酒気とともに、深い決意が滲んでいた。


「わしは国を呑みたいとは思わん。ただ――国に呑まれとうはないがじゃ」


 竜馬が目を見開き、問い返す。

「呑まれとうはない……?」


「いかな世でも、群れは常に大きな流れを生む。その流れが、時に一人の命や夢を呑み込み、踏みにじることがある。わしはそれを、嫌というほど見てきた……」


 盃を持ち上げ、徳利から酒を注ぎながら続ける。

 オラゾで見た禍の記憶バラ・クーヴァの滅びの幻視が、その表面に一瞬浮かんで消えた。


「ならば、流れに逆らうだけではなく、己で川筋を引き直す術を持たねばならぬ。人が生きる道を、少しでも良き方へ導くために」


 そして、わずかに笑みを浮かべて竜馬を見た。

「国を呑むほどの大望は、わしにはない。じゃが――行く末を信じて戦った仲間たちがおる。その約束を果たすために、わしはこの命を賭ける」


 竜馬は息を呑み、しばし言葉を失った。やがて、盃を取り上げて力強く頷く。


「……わしはもっと大きい男になりたい思うて土佐から江戸へ行ったがよ。江戸一の秀才じゃゆう佐久間象山先生の私塾で学び、北辰一刀の修業も積んで、人よりは大きい男になって帰ってきたつもりじゃったが……藤兵衛殿の話を聞いたら、まだまだまったい男じゃったと歯がゆい心持じゃ。二つ上とはとても思えんがよ。一体、どうゆう道を歩んだら、そんな境地に至れるか教えとうせ」


 その瞳は熱を帯び、静かに揺れる灯火を映していた。

 酔いもあって鬼気迫る竜馬の問いに、藤兵衛は思わず口を開いた。


「わしは、現世に非ざるものをこの身で学んだ。遥か異なる世を、五年も旅してな……」

 

 竜馬の瞳が鋭く光った。

「……異なる世?」


 我に返った藤兵衛は慌てて笑い飛ばす。

「いやいや、――酔うた戯言よ。胡蝶の夢じゃと笑うて忘れとうせ」


 だが竜馬は真顔で首を振った。

「いや、その話を詳しゅう聞かせとうせ。わしは戯言や夢とは思わん。おまんの目がそう言いゆう」


 向かい合う竜馬の眼差しは、深き水面に映る星のようであった。その奥底には、言葉では測れぬ光が潜んでいる。

 藤兵衛はその光に、己の胸奥まで見透かされているような錯覚を覚えた。


「時代を超えて駆ける夢」――


 それは貴彦が語った竜馬の姿そのものであった。

 藩も、国も、己の生まれすらも越えて走り抜ける男。藤兵衛は初めてその実像を目の当たりにし、肌で理解した気がした。


「…そういやあ、少し前に城下の噂で聞いた『大波にさらわれて戻んてきた荒神様の化身』……あれはひょっとして藤兵衛殿のことやないかが? 七日も海をさまよいよったゆう話やったが、その時に何かを見たがやないか?」


 あまりに核心を突く言葉に、臓腑が裏返るようなぞくりとした戦慄が走る。

 この男は、己の口から漏れた一片の言葉すら疑わない。ただ、そのままを信じ、さらに踏み込んでこようとする――。


(やはり……只者ではない)


 藤兵衛は目を伏せた。

 異界オラゾ――あの地で過ごした五年は、現世ではただ七日間にすぎぬ夢物語でしかない。

 だが、それは確かに己が見、感じ、生きた日々だった。胸の奥に焼き付いて離れぬ記憶であり、失えば己の半身をもぎ取られるような痛みが残るだろう。


 もし、この真実を語れば――竜馬はどう受け止めるだろうか。


 藤兵衛は、先の世の歴史を知る者としての恐れを感じていた。

 軽々しく口にした一言が、竜馬の歩む道を変えてしまうやもしれぬ。

 この男はやがて、日ノ本の行く末を左右する存在となる。それを知っているからこそ、彼に余計な影響を与えることは避けねばならない――。


 しかし、竜馬の眼差しは、そんな逡巡を容易く貫いてくる。真実を求める鋭さと、他人の心を包み込む温かさが同居していた。

 まるで、千里の外までも轟く風の響きのように、胸の迷いを吹き払う。


「…………」


 言葉が喉に詰まる。


 藤兵衛は、これまでオラゾの記憶を誰にも語ったことがなかった。家の者にも、同僚にも、楽助や貴彦の名すらも。

 すべてを胸の奥に押し込み、己ひとりの記録として『漂異録』に書き留めてきた。


 だが、目の前の男は違った。

 己の胸の闇に分け入り、その重みを共に背負おうとするような眼差しで、ただ静かに見据えてくる。


 その視線に射抜かれた瞬間、藤兵衛は悟った。

 ――この男には、託せるかもしれぬ。


 胸の奥に積もった迷いが、少しずつ溶けていく。

 自分が異界で得たものを、時を超えて輝く光として先の世に遺すためには――その道を繋ぐ者が必要なのだ。


 貴彦と楽助、そしてリオンに誓ったあの約束。

 「いずれ必ず、道は交わる」

 それを現世で繋ぐ役目は、この坂本竜馬という男なのかもしれない。


 深く息を吸い込み、藤兵衛は覚悟を決め、そして語った。

 「寅の大変」の刻、勝浦浜で気を失い、気づけば異界の草原に立っていたこと。

 そして同じ日ノ本の少年たちを元の世に還すための旅を。

 贖罪を求める盲目の鳥人、死に場所を探す竜人の戦士、気紛きまぐれな海豚いるかの賢者との出会いと別れを。

 そして、その後の己の覚悟を定めるための長い行路を。


 それから、胸の内の思いで話を締めくくった。


「……わしは、あの異界で誓うた。必ず世に名を遺し、時を超えて輝く光を、遥か先の世に届けると――」


 その言葉に竜馬は震えた。

「……ほんに、”世界”は広いのう、そんな不可思議なことがあるがじゃのう…」


 やがて彼の頬に熱い涙が伝う。

「藤兵衛殿、おんしは、大した男じゃ。わしも負けられんのう…!」


 竜馬は声を詰まらせながらも、力強く言った。


 その涙は、土佐という小さな国を越え、やがて日ノ本を駆け抜ける奔流の始まりであった。

 藩も、国も、そして時すらも――二人の誓いは、確かに交わされたのだった。

参考文献:『地域資料叢書18 続・土佐の地名を歩く-高知県地域史研究論集Ⅰ―』

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