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おこぜの藤兵衛 ~幕末異聞 朝倉藤吾伝~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第十四話 潮騒の五つ巴

  安政五年二月。江戸の雨は、音は細いのに、長く残る。


 薩摩藩邸の奥座敷――障子は閉じ、灯は低く、畳の上だけが白い紙を拾っていた。


 紙は三束。

 土佐新造蒸汽船の図面、勅許筋の折衝控え、品川沖上覧の手順と記録の写し。墨の匂いが湿りに混じり、茶の湯気が細く立っている。


 一橋派の顔が揃う。


 水戸藩主・徳川とくがわ斉昭なりあき

 薩摩藩主・島津しまづ斉彬なりあきら

 越前藩主・松平まつだいら春嶽しゅんがく

 宇和島藩主・伊達だて宗城むねなり

 土佐藩主・山内容堂


 雨が庇を叩く。庇の雫が庭石へ落ちるたび、障子の桟が小さく鳴って、紙の角が一息だけ揺れた。


 最初に開かれたのは議論ではなく、一通の密書だった。封の結びが硬い。硬い結びは急ぎの印だ。


 斉彬が封を割り、紙を一枚、灯の際へ寄せる。目を走らせる速度だけが少し早い。顔色は変えない。変えないが、指先がほんの僅かに止まった。


 紙面の文言は短いが、腹の深いところを刺す。


 ――南紀方、奥中の取り回しを得たり。

 ――井伊掃部頭、近日大老の沙汰濃し。

 ――一橋に与する者、先ず“逆心”の名にて押さえるべし。


 斉彬は紙を伏せ、声だけを落とした。


「……南紀方が大奥を押さえた。彦根藩主・井伊いい直弼なおすけが――近々、大老に上がるよしじゃ」


 春嶽が息を呑む。宗城が湯呑の縁を押さえる。容堂だけが表情を崩さず、目をわずかに細めた。


 “烈公” 斉昭が扇を畳へ叩きつけた。


「大奥ごときが、政事まつりごとの段へ口を挟むとは! 南紀の強行、断じて許さぬ!!」


 春嶽が、斉昭の荒い息を受け流すように、言葉を選ぶ。


「……水戸殿。お怒りは分かります。しかし今の江戸は、道理より“名目”で首を落とす。南紀方は『世子は慶福公』を“正統”として立て、これに逆らう者を『将軍家の家督に逆らう逆心』と呼ぶでしょう。――一度その札が貼られれば、弁明の座は開かれませぬ。大老に南紀の棟である井伊が座れば、なおさらです」


 宗城が低く添える。視線は勅許控えへ落ちたままだ。


「品川沖の上覧で、ハリスの筆は一歩鈍った。『日本は無力』と言い切れぬ顔になったが――条約そのものが消えるわけではない。下田で草案は積み上がり、堀田備中守は勅許を取りに京へ走らねばならぬ。そこへ井伊が大老として名を背負えば、幕中は“急げ”一色になり、こちらの手は間に合わぬ」


 鳴龍丸の図面を指先で撫でる。品を量る商いのそれだ。

 図面の傍らには品川沖の「上覧控え」の写し――往復二走、潮相殺、砂時計三つ、記録二列。数字だけが黒く残っている。


「土佐の船は、品川で“数”になった。――それが江戸を揺らした。噂は噂として曖昧でも、理屈より“見た”という事実でしょう。刀の腕前より、目で分かる具足です」


 続いて斉彬の目が、図面の要所へ一瞬だけ落ちた。その一瞬を容堂は見逃さない。目が笑わなくなる。

斉彬の声は和らかい。だが「急ぎ」を隠すための丁寧さが、逆に重い。


「容堂殿。薩摩が欲しかとは、土佐の舟だけではなか。井伊が大老へ上がれば、幕中は“締める”。締まれば、こちらの動きは鈍る。――その前に、国の海防の形を一段進めておきたか。双胴と艫の螺旋……瀬戸の急潮を抜ける構えは、薩摩の海にも合う。いずれ、図面と手順を見せてもらえんか」


 容堂は、すぐに頷かなかった。返事を急げば、相手は足元を測る。測り合いを始めるつもりはない。


「拙藩はいま、御用船の普請中にて。――急げば、外へ匂いが漏れます。嗅がれれば、話は船より先に刃になります」


 横で聞いていた斉昭が舌打ちをしそうになり、春嶽が目で止める。ここで「技の取り分」を争えば、今夜の密議が崩れる。


 斉彬は怒らない。容堂の言に含まれた“意図”を感じ取り、ただ、静かに息を一つ落として、話を政局へ戻した。


「……技の話は後でよか。なら容堂殿、その段を踏む間に――井伊の手を、どう止めもすか」


 茶の湯気が、いったん細る。雨は外で鳴っているはずなのに、今だけ座敷の中へ入って来たように感じた。灯の芯が一度だけ揺れ、畳の上の図面の白が、ほんの少し青く見える。


 容堂は図面の端を押さえた。息をする音だけが、薄く聞こえる。


「蒸汽船をもう一艘、普請し――帝へ、献上いたす」


 言い終えた瞬間、春嶽の背が反射で浮いた。譜代の身体が先に拒む。膝の上に置いた手が自分を押さえ、指先が畳を一度だけ掴む。


「それは……!」


 声が跳ねたのを、春嶽は自分で噛み殺した。跳ねれば“狼狽”が値札になる。整え直した言葉に、焦りが余計に滲んだ。


「朝廷へ献上を願えば、筋が立つ前に政争になろう。公儀の頭越しと取られれば、井伊は喜んで罪名を作る――“御法度破り”の沙汰になりかねぬ」


 その向かいで、斉昭が――一拍、黙った。黙って、紙束を見た。勅許の控え、品川の上覧控え、鳴龍丸の図面。次の瞬間、扇が畳に落ちる。落ちた音が、雨戸の音より大きく響いた。


「――鬼手よ!」


 斉昭の声が、座敷の梁へ突き上がる。怒鳴りではない。人の腹を動かす号令だ。


「帝の御前に“見える力”を差し出す――それでよい! よいぞ土佐守! 井伊が“正統”を振り回すなら、こちらは“正統”の源へ出すまでよ。源へ出されて、井伊がどう動ける。動けば天朝を軽んじたと世が言う。動かねば南紀の段取りは止まる!」


 斉昭は膝を打った。畳が鳴る。鳴った畳の音に、座の呼吸がつられて揺れる。


「わしは言い続けてきた! 公儀の中に“外夷の文”が入り込む前に、まず上を立てよ、と。今こそだ。今こそ帝の叡慮を得て、奸臣を封じ、道理を正す時よ!」


 春嶽が堪えきれず口を挟む。


「水戸殿、言葉が過ぎます。ここは密議――」


「密議だから言うのだ!」


 斉昭は遮る。荒い勢いは刃にも旗にもなる。


「“密”のうちに筋を決めねば、明けた途端に井伊が名を貼る。貼られたら終いよ。その前に、こちらが先に“場”を移す。土佐守――おぬしの舟は、ただの舟ではない。今の江戸で、最も重い言葉だ」


 斉昭の目が、容堂の顔に刺さった。視線は熱く、その瞳の炎はさらに大きく見える。


 容堂は笑わなかった。湯呑を置く音だけを立てる。


「……水戸殿。御尊王の御志、まことに敬服つかまつる。されど義は、名分を立ててこそ国を動かす。怒りを先に立てますれば、井伊はそれを“乱”の名にすり替えましょう。――火は、礼をもって囲い、刃に致さぬ段取りが要りまする」


 宗城がゆっくり頷く。斉昭は熱を抑えられた苦い顔のまま、容堂が言葉を継ぐのを待った。


「口実は、こちらの手順で潰す。――まず“御公儀の御用”として、禁裏へ御前の御覧を願う形に改める」


 言い切って、紙面の一行を指で押さえた。


「さらに、献上舟普請の三万両――その半額を御公儀にご負担願う。金を出した以上、名義は“御公儀”じゃ。名を立てた以上、井伊がこれを潰せば、みずから禁裏の御沙汰に背く形になる」


 春嶽は紙面から目を外し、しばし黙した。妙手だ。理屈も立つ。だが譜代としての筋目は、前例なき一手に容易に首を縦には振れない。

 そこへ斉彬が、初めて口角を僅かに動かした。笑いではない。“筋が通った”合図だ。


「……成るほど。禁裏へただ舟を奉るのではなか。まず御公儀の御用として“海防の御覧”を願う。さすれば、夷狄いてきを怖れる帝の御心も癒えよう。そのうえで献上舟普請と条約勅許を申し出る。備中守にこの案を持たせて京へ走らせれば、井伊も容易には手を出せまい。手を出せば、己が筋を踏み外す」


 宗城がすぐ、話を実務へ落とす。熱を増やさぬ声だった。


「材の運びは、宇和島が人も舟も出せまする。……土佐守殿、普請はいつ頃から?」


「春先を目途に」


 短い返事は、手の内が固まっている証だった。

 黙していた烈公が、ここで再び爆ぜる。


「よくぞ申した、土佐守殿! そなたが半ばを出すと申すなら、我らも出さずにおれぬ! 海防は一藩の責にあらず!」


 場の空気が、一気に熱を帯びる。


「金が惜しいか否かではない。国のために払うのだ!」


 斉彬の瞳にも、別の光が走った。容堂が口に出さぬところ――金は名目、欲しいのは新型船の手当てだ。宗城もそれを読み、躊躇なく重ねる。


「薩摩は、石炭と大砲を添えもす。海防は国の大事。集成館で鍛えた技、惜しまず力を貸しもす」


「宇和島も乗りまする。拙藩にも蒸汽舟普請の手立てがある。この舟は伊予灘、瀬戸の守りにも利きましょう」


 春嶽は扇を閉じたまま膝に置き、ひと息だけ息を整えた。場の熱は、もはや炎に近い。御三家の一角が金を出すと言い、外様がそれに続く。譜代として、ここで背を向ければ孤立は免れぬ。


「……越前も出す。――幕閣への根回しは、我が引き受ける。だが、南紀に漏れれば終わる。事は慎重に運ばねばならぬ」



 春嶽の言葉が落ちると、座敷の熱は一度、静かに沈んだ。雨は障子を打たない。軒の先で粒が砕け、滴が縁の板を細く鳴らしている。その音が、今夜の話を外へ漏らさぬ“蓋”のように聞こえた。



 容堂が湯呑を寄せ、低く確認する。


「では――各々の拠出は、ここで決する。名目は“献上船普請に伴う海防御用金”。各藩の家中には口を揃える」


 御公儀 一万五千両

 水戸    三千両

 越前    三千両

 薩摩    三千両

 宇和島   三千両

 土佐    三千両


 春嶽が短く頷き、懐紙に目を落とした。書き留めるのは“勢い”ではない。後で揉めぬための誓いの筋だけだ。


 斉昭が、まだ燃える目のまま噛みつくように言う。


「京へは我が先に言葉を――」


 斉彬が、それをやわらかく遮った。


「烈公、まだ筆を走らせる刻じゃなか。先に動けば、先に嗅がれもす。京へ出す言葉は、備中守に持たせる。――御公儀の名で運ばねば、名分が立たん」


 斉昭は舌の奥で何かを呑み、膝の上の拳をほどいた。怒りが消えたのではない。形を変えたのだ。


 容堂は、そこへ一言だけ添える。


「水戸殿の御志は、いずれ京を動かす。今宵は――“動かし方”を揃える夜にて」


 斉昭は言い終えた容堂を一度だけ見た。次の一手が決まる。


「備中守へは――誰が入る」


 春嶽が間を置かず言った。


「拙者より当たる。譜代筋の方が話が早かろう」


 容堂はすぐ重ねる。

「越前守殿、御同行をお許し願えまいか」


 春嶽が静かに頷く。斉彬の軽い薩摩訛りが、座の底へ落ちる。


「……それがよか。備中守は、今の御政道を持ちこたえさせる役じゃ。の筋、土佐守殿の筋と両方をぶつければ動きもす」


 雨の滴が、縁を強く刻みはじめた。誰も顔を上げない。音がひとつ、またひとつと、間を詰めていく。


 斉昭が、座の底へ落とすように言った。言葉の芯はまだ冷めていなかった。


「……越前、土佐、薩摩、宇和島、そして水戸。五つ巴で国を支える。今宵はその起こりじゃ。――国の道を、ここから通す」


 返事は要らなかった。沈黙が、ひとつの頷きのように座を覆う。

 やがて、座はほどける。


 襖が滑り、足音が畳を避けて散っていく。

 雨の匂いは相変わらず濃い。――それでも室内の空気だけが、確かに乾いていた。

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