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おこぜの藤兵衛 ~幕末異聞 朝倉藤吾伝~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第十三話 火を鞘へ

 半平太は退かない。退かずに、足の置き場だけを変えた。

 沈んだ力を腕で持ち上げない。腰で受け、板へ流し、板から返ってきた分だけ前へ滑る。

 乾いた板は音を返す。返りが減るほど、場の雑音も薄れる。


 万が小さく息を吸った。女の細い胸が動いたのではない。道場の空気が一枚、詰まった。


「本気で――行きます」


 声は低いほど、刃になる前に鞘を探す。


 万が――初めて自分から仕掛けた。

 踏んだはずなのに板が鳴らない。その代わり、見物の喉が先に鳴った。

 剣圧が灯の芯へ触れる。触れたのに揺れない。揺れぬまま、空気だけが潰れてくる。


 半平太は受けに行かない。

 受けた瞬間、される――それを身体が知っている。


 江戸で学んだ鏡心明智流。皆伝の返し。当てずに外せ。外して返せ。位が先。


 半平太は一息、腹へ沈めた。


 万の面が降りる。

 降りた刃の“行き先”だけが、ふっと失せた。


 次の瞬間、半平太は返す。

 外した分だけ前へ滑り、胴へ落とす。落とす刃は熱を持たない。順で走る。


 ――だが、万はいない。

 次の瞬間、風向きだけがそこに残った。


 刃が来る前に、刃の来る道を消す。


 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。


(……この“いなし”――藤兵衛と立ち会うた時の、あれと同じじゃ)


 ただ速いのではない。

 打ち込む前にこちらの拍を読み、拍ごと外す。――氣有理けあり流、“風読み”。


 しかも万はそれを、己の剣の骨に溶かしている。

 鏡心の返しを、呑敵どんてきの沈みで受け、氣有理の風でいなす。まるで流派という境を笑うように。


 驚きが先に立つ。だが次の瞬間、その驚きは喉で止まらず、腹の底へ落ちた。落ちた驚きは火になる。


(面白い――!)


 あらゆる技を使う。あらゆる理を繋ぐ。これぞまさに剣神。越えるべき頂。

 自分が江戸で拾い直してきた“順”が、ただの順では終わらぬ相手――。


 だが熱は表へ出さない。出せば刃が荒れる。

 半平太は一息だけ深く吸い、吐いた。吐いた息が板へ落ち、板の返りを足裏で拾う。


 万の身体が半寸ずれ、半平太の刃はまた空へ落ちた。

 空へ落ちた刃の先で悟る。


 受ければ圧される。

 だが――受けねば、返せぬ。


 半平太は足を止めない。止める代わりに“受ける場所”を選んだ。

 中心線を、わざと渡す。渡して、渡された分だけ取り返す。

 圧を受けて、圧の中から返す。盾の剣――圧の真ん中へ刃を差し込む決意だ。




 岡田以蔵は、壁際の暗がりで拳を握り潰しそうにしていた。

 眩しい中央が嫌いなのではない。中央で“順”が決まってしまうと、自分の刃の居場所が消える気がするからだ。


「……来い」


 半平太の声が梁まで届いた瞬間、以蔵の胃の腑が締まった。


 武市先生が“受ける”と決めた。受ければ圧される相手に、あえて受ける――。

 だがその瞳に宿るのは覚悟。その気概に、以蔵は息も瞬きも奪われた。


 万の目が笑わぬまま、わずかに深くなる。


「では――そのように」


 たったそれだけで、場の温度が一段上がった。

 女の声ではない。骨へ直接触れてくる刃の声だ。抜かれた瞬間の刀身が、耳の奥で鳴った気がした。


 以蔵は生まれて初めて、“恐怖”が形になって立っているのを見た。

 自分の刃が届かないものが、目の前で息をしている怖さ。



 踏み込みの音は――なかった。


 いや、ないはずがない。板の上を踏めば鳴る。鳴らぬなら、踏んでいない。

 それなのに、万は“居た”。


 さっきまで二間ほど先にあった小柄が、次の瞬間、半平太の鼻先に立っている。

 影が縮んだのではない。距離そのものが、折り畳まれた。


(縮地――いや、柳生新陰の燕飛えんぴか!?)


 以蔵の背中が粟立った。目が追うより先に、間合いが終わる。終わってから、板の冷たさだけが足裏へ遅れて届く。


 竹刀が来る。真っ直ぐ。余計な軌道がない。逃げ場はない。


 それでも半平太は逃げなかった。逃げずに、盾を立てた。


 受けた――いや、受け止めたのではない。上からの圧を板へ流し、板の返りを足へ入れて横へ受け流した。だん、と足が鳴る。鳴った音が拍になる。崩れそうな脚が踏ん張る。


 万の剣圧が、半平太の両腕を押し流す。巨体が横へ運ばれる。


(先生が……負ける……?)


 息が詰まる。以蔵の拳に爪が食い込み、血がわずかに滲んだ。


 だが半平太の目は死んでいない。押されながら、押された分だけ“返り”を拾っている。

 圧に耐えるのではない。圧を使う――そんな剣があるがか、と以蔵の腹の底がざわめいた。


 次の瞬間、半平太が腕を返した。


 押された軌道のまま、半歩だけ“前へ”滑る。受けた盾のまま刃を差し込む。

 力で斬らず、順で刺す。

 万の竹刀の腹に、半平太の刃先が吸い付くように入る――当てるのではない。外さずに“置く”。


 万の身体が、わずかに沈んだ。鳴らぬ沈みは、理そのものだ。


 だが沈んだまま、万の気配だけが熱を帯びた。板の上に火はない。それなのに、空気の芯が灼ける。

 炭が赤くなる前の、あの“息を潜めた熱”が、刃の内側で膨らんでいく。


 再び、万が返す。返しは速さではない。押し返す力でもない。――焼き入れだ。

 打ち込まれた拍が乾いた音を立てて硬くなる。半平太の竹刀の先が、じわりと痺れた。


 そのとき、耳の端で少林塾の誰かの囁きが混じった。


(――あれぞ、金屋子かなやごさま――)


 以蔵の胸の内で、その呼び名が自然に立った。火を扱い、鉄を鍛え、熱で形を決め、最後に冷えで刃を生かす神。


 万の攻めは、まさにそれだ。

 一太刀ごとに“熱”を入れ、次の瞬間に“冷え”で締め、こちらの芯だけを鍛え直してくる。


 女でも男でもない。そこに映るのは“鍛冶の神”だ。剣の熱すら、思うままに打ち替える者。


 だが、次に胸を刺したのは別の感情だった。

 その神へ向かって、先生は退かない。押されながらも拍を掴み、拍の中で返し続ける。


(先生も――神に劣らぬ!)


 この瞬間、以蔵の“世の形”は“力”から“信仰”に形を変え、音を立てて深く魂に焼き付いた。

 武市先生は旗だと思っていた。だが今は違う。先生は刃の“順”そのものになりつつある。

 ならば以蔵の刃の居場所は消えない。むしろ、先生の順の端に、自分の刃が要る。



 そのとき――廊下の板が鳴った。

 踏み込みの音ではない。静かに、だが遠くまで響く。


「両者、そこまで!」


 声は柔らかい。皆が一斉に表戸を見ると、側用役・小南五郎右衛門が、その陰から現れていた。


 半平太も万も、同時に止まった。五郎右衛門が静かに続ける。


「この先は、勝っても負けても刃の火が残る。――今日は、ここで鞘に収めよ」


 万は無言で一礼した。

 半平太も礼を返す。乱れていた息はすぐに戻る。だが目の奥は熱を宿したままだ。


 以蔵は暗がりで、拳をほどいた。血のにじむ掌の痛みも忘れて、笑いそうになった。

 神を見た。しかも、先生がその神へ手を伸ばした。


(……金屋子さま、武市先生……!!)


 以蔵の胸の中で、二つの名が並んだ。

 これから先、誰が何を問うとも、以蔵の刃はこの二人に向けて研がれる。順が決まるなら、その順のために斬る。それが、以蔵の“居場所”になる。




 五郎右衛門の声が落ちたあと、道場の空気はまだ熱を抱えたまま固まっていた。竹刀を下ろしても、刃は鞘へ戻りきらぬ。戻りきらぬ刃は、噂になって人を裂く。


 半平太は板の中央に立ったまま、門下へ目を走らせた。以蔵の濡れた眼。古い藩校の者のこわばり。少林塾筋の伏せた呼吸。


「……今のは勝ち負けではない」


 低い声が梁へ触れ、ざわめきが一段沈む。


「去年の新町道場の夜。江戸へ発つ前――わしは細川殿に折られた」


 その告白に、誰もが喉を動かした。


「折られたのは腕やない。わしの腹にあった“異”じゃ。見えぬものを、見えぬまま怖れて、怖れた分だけ刃を抜こうとしちょった。えびすも同じじゃ。まだ見ぬ相手を、勝手な形にして、勝手に憎む。――それは攘夷やない。はらうのは相手やのうて、自分の怯えじゃ」


 半平太は万へ視線を向け、すぐ門下へ戻した。万の前で語るのではない。場に語る。


「江戸へ行って、中浜万次郎先生に会うた。蕃書調所へ通うた。蘭書を読んで、海図を見て、条約の文言を見た。――夷は刀で来る前に、文で来る。値で縛り、噂で腹を動かし、遅い国から骨を抜く」


 門下たちの肩が、わずかに下がる。順の話が腑へ落ちていく。


「やき、先にすべきは攘害じゃ。内の害を攘い、割れ目を塞ぐ。割れたまま攘夷を叫べば、楔はそこへ打ち込まれる。夷と和して利を取る――それは媚やない。鍛えるための息継ぎじゃ。鍛えた後に攘う。それが順じゃ」


 半平太は竹刀を床へ置いた。置く音は軽い。軽いほど、言葉が重くなる。


「今、わしが攘いたかったがは――おんしらが、夷や“異”に抱いちょった先入観じゃ。知らぬまま笑うたもの。怖れて刃を抜こうとしたもの。細川殿は、それを剣で教えた。……教えられた以上、わしは順を誤らん」


 誰も笑わない。笑えば、自分の腹の浅さが鳴るからだ。


 その端で、樋口真吉が腕を組み直した。岩のような巨体が、ひとつ息を深くする。


(武市のように、わしは細川万に挑めるか)


 問いは胸の奥へ落ちた。剣の問いに見えて、場の問いだ。真吉は長く「血を出さずに済ませる順」を探してきた。強い者を押さえつければ恨みが残る。恨みは次の刃になる。ならば――恨みを生まぬ形で、刃を鞘へ収める順が要る。


 真吉は一歩、板の縁へ出た。巨躯が動くと、見物の呼吸が一つ遅れる。同じ高さの半平太の瞳の熱を見据え、己の視線の冷たさは変えぬまま、声だけを低くした。


「武市殿。……今日のことは、噂になる」


 半平太は頷かない。頷けば“認め”に見える。だから目だけで促す。


 真吉は続けた。


「“藩校の頭取が女子に負けた”――そういう形で走るだろう。ここを見ぬ者は、己の腹の“異”で物を言う。異は毒にもなる。毒は刃になる。……それを、どう納める」


 道場の端で、誰かが唾を飲んだ。以蔵の拳がまた硬くなる。噂は早い。早い噂ほど、形になる前に人を裂く。


 半平太は一拍置き、言葉を選んだ。

 

「……噂は止めん」


 真吉の眉がわずかに動く。


「止めようとするほど、噂は“隠し事”の匂いを帯びる。匂いが強うなれば、異はなお増える。――なら、匂いを変える」


 半平太は板の中央を指さすでもなく、場そのものへ声を落とした。


「明日から、機巧学も剣術も、なるべく“見えるところ”でやる。見えるところで学べば、見ぬ者が減る。見ぬ者が減れば、異は痩せる」


 真吉が問い返す。


「それでも、見ようとせぬ者は残る。残った者は、“女子に負けた武市”だけで腹を作る」


 半平太は短く、笑わないまま答えた。


「なら、その腹に“順”を入れる。勝ち負けの話ではない、と。――今夜は火が残りかけた。小南殿が鞘に収めた。勝てば勝ったで女子を折ったと噂になる。負ければ負けたで、今みたいに走る。どっちも毒じゃ」


一段、声を落とす。


「そして、その毒を“攘夷”に繋げる。まだ見ぬ夷を、勝手な形にして憎むのは、今夜の噂と同じじゃと。見えぬものを見えぬまま斬ろうとする。その癖を攘うのが攘害。――だから文武館は、知を鞘へ通す場にする」


 道場の空気が、ゆっくり温度を変えた。熱が静まり、芯だけが残る。


 真吉は腕を組み直した。岩のような身体が、ひとつ深く息を入れる。


 勝敗ではなく、偏見を折り、熱を毒にせず、場を育てる順。武市半平太は火の男ではない。火を囲い、次へ渡す男になりつつある。


 それは真吉が永らく探してきた「出さずに済ませる順」そのものだった。


 真吉は、ゆっくりと頷いた。賛同ではない。覚悟の合図だ。


「……よし、武市殿。わしもその順を借りよう。人を育て、異を太らせぬ場を作る。――共に歩もうぞ」


 半平太は短く頷いた。


「頼む。樋口先生。土佐の鞘は、一本じゃ足らん」


 道場の隅を温めていた火鉢の炭の芯が、ぱちりと鳴った。火は鞘に収まり、次の冬を待った。


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