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おこぜの藤兵衛 ~幕末異聞 朝倉藤吾伝~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第十二話 置かれた刃

 文武館の板は乾ききっていた。乾いた板は、音をよく返す。返る音が多いほど、人の腹の中の雑音も増える。秋の息は白うならぬのに、夕暮れだけは冬の刃を混ぜてくる――そんなときだった。


 道場の中央に、二人が立つ。


 文武館頭取・武市半平太。

 身丈六尺(約180㎝)――肩は広いが張りすぎず、背は真っ直ぐで、立ち姿に余計な威張りがない。剣客の体つきというより、場の柱のような体つきだ。


 そして機巧学講師・細川万。

五尺(約150㎝)の小柄な身体。長い髪を後ろで束ね、けれど足裏が板へ沈む重さが、女のものではない。沈み方が違う。板が息を呑む重さだ。


周りに人が集まる。人は噂で寄る。噂は毒にも薬にもなる。――決めるのは竹刀ではない。観る者の“異”だ。




 岡田おかだ以蔵いぞうは、壁際の暗がりで腕を組んだ。文武館の“端”が落ち着く場所だった。

中央は師範や上士の子が立つ場所だ。礼が先に立ち、言葉が先に立ち、剣は後から付いてくる。そういう順が苦手だった。


 以蔵は郷士の子で、腹の底にいつも飢えがあった。

飢えとは米の話ではない。「名」の飢えだ。誰かに見られ、誰かに呼ばれ、誰かに必要とされる飢え。


 剣だけは、その飢えを埋めてくれた。竹刀が鳴れば、相手は黙る。刃が届く距離では、言い訳は役に立たない。


 学は浅い。だが刃だけは、誰より早く抜ける。だから、半平太に拾われた。初めて名を呼ばれた日の声。初めて「もっと強うなれる」と言われた日の眼。以蔵にとって“世の形”が変わった。


 岡田以蔵は、「武市先生のために剣を振るう」ためにある。理屈ではない。それが、以蔵の“世の形”だ。


 だから、許せない。

 女の噂だけは聞いていた。少林塾の連中が「万殿」とか「金屋子さま」とか、妙におそれて口を結ぶ。以蔵にはそれが気に食わなかった。女だろうが男だろうが、斬れるなら同じ。だが女に頭を下げる連中の腹は、どこか“たっすい”気がした。


 女が悪いのではない。女は弱い――と、以蔵は決めつけていた。弱い者が板の上へ上がるのが悪い。


 ――そう単純に思ってしまうほど、以蔵の世界は「力」でできている。


 人垣の間から中央を見る半平太はすでに竹刀を取っていた。


(……先生の何が、変わったがか?)


 江戸へ行く前の半平太は、“火”だった。火の勢いと熱で人を引っ張り、場を動かす人だった。今の半平太は火を囲っている。火鉢の炭のように、赤白い芯だけ残して、表を黒くしている。


 以蔵は、その変化を「良い」と言えなかった。“落ち着き”は、以蔵の中では弱さと紙一重に見える。刃は熱で走ってこそ刃だと信じているからだ。


 その半平太の前へ、細川万が進み出た。


 小柄で、背は低い。立ち方も棒立ちで、素人のそれ。

 以蔵は鼻で笑いかけて――笑えなかった。


 万の足が、音を立てない。板の上に立っているはずなのに、板がその存在を「忘れている」ようだ。


(……なんじゃ、この女は)


 以蔵の“異”は単純だ。

 強い者を信じ、強い者に酔い、強い者のために刃を抜く。その単純さは刃として鋭いが――鞘としては危うく、脆い。




 一方、道場のさらに端――柱の陰に、樋口ひぐち真吉しんきちがいる。


 文武館の剣術講師。大石神影流の達人は巨躯だった。半平太と背丈はほぼ同じ。立てば人が避ける。座っていても“岩”のように見える。

 だが人が避けるのは体格ではない。目だ。目の中に、刃より冷たい時間がある。


 幡多・中村の郷士の長男。

 郷里で道場を開き、門弟は千人に及んだ。人が集まるということは、刃が集まるということだ。刃が集まれば、いずれ血が出る。


 その血を「出さずに済ませる順」を――真吉は長い年月、考えてきた。


 尊王の火は胸の内に常にある。攘夷の言葉も嫌いではない。だが真吉は、その火を振り回す者――武市半平太が好きではなかった。


 火が風を呼び、風が刃を呼び、刃が内を裂く。土佐者の風土は荒い。いったん裂ければ、修復に十年かかる。真吉はそれを知っている。


 さらに真吉は、剣だけの男ではない。江戸や長崎で西洋砲術を学び、数字と距離で人が死ぬ世界を見た。

刃は腕を切る。だが砲は、腹ごと国を割る。そこが違う。


(武市は、江戸で何を見た)


 半平太が頭取就任の場で口にした“攘害と和夷”。講師就任前に聞き及んでいた“火の男”――その風向きが変わったことに、真吉は違和感を覚えていた。


 理としては分かる。分かるからこそ怖い。

 便利な言葉ほど人を酔わせる。酔った者は、いつか血で醒める。


 そして今日の“女の講師”。

 女が剣を取ること自体ではない。女が「場の芯」に立つことが、古い者たちの腹を刺す。刺されれば反発が生まれる。反発は攘夷の旗に絡み、旗は裂け、裂けた端が首へ巻きつく。


 真吉の“異”は思想だ。正しさを秩序で守りたい。秩序を壊す熱を怖れる。

 その怖れは臆ではない。守るべき背後――道場の門弟や、郷里の暮らしや、裂けたあとに泣く者の顔――を知っているからだ。


 だからこそ、剣術家として、細川万の立ち姿を見た瞬間に胸の奥が冷えた。


 小柄だ。だが背の低さが弱さに繋がらない。足裏が板に吸いつくように沈み、体重の落ちどころが一点も遊んでいない。肩は力んでいないのに、そこに“逃げ”がない。剣を持たずとも、すでに構えが出来ている。


(……只者ではない。武市はこの女の何を知っている?)




「……いくぞ」


 半平太が場へ声を投げた。声は高くない。だが板の下の梁まで届く重さがあり、ざわめきが一段、沈む。

 以蔵は鼻の奥でわらいかけ――その嗤いを、喉の奥へ飲み込んだ。 “熱”を奥へ押し込み、順で刃を通す、本気の声だった。


 半平太が一足、詰める。

 受けて返す「盾の剣」を得意とする男が、先に間を奪る。傲りではない。――相手の重さが、こちらの受けを“受け”として残さぬことを知った踏みだ。


 板がきしんだ。見物の雑音が、踏み込みに潰れた。


 一合目。


 半平太は真正面から入った。

 踏み込みのひょうしが鋭い。踵が板を叩く前に、腰が先に落ちる。落ちた腰に乗って、竹刀が上から真っ直ぐ降り落とされる。


 その瞬間、万は棒立ちのまま、竹刀を掲げた。

 掲げた、というより――置いた。


 万の足裏が板へ沈む。沈んだはずなのに、板が鳴らない。鳴らぬ代わりに、空気だけが一枚、張った。


 以蔵は、背中の毛が逆立つのを感じた。

 打ち合いの前に、道場の音が消えた。呼吸が、どこか遠い。


 刹那。音はなかった。


 半平太の刃は、受けた竹刀の“腹”へ吸われた。

 吸われて、そこで殺されるのではない。吸われたまま、真横へ滑らされる。


 まるで刃の行き先だけ抜かれたように。踏み込みの勢いだけが、板へ残る。


「っ――」


 半平太の息が漏れかけるより早く、万の手首が返った。

 返ったのは腕ではない。中心線だ。


 万の竹刀が、胴へ薙ぐ。薙ぎは横ではない。横に見せた“斜め”だ。斜めの刃は、受け手の腰を割る。


 半平太は即座に胴を立てて受けた。

 受けた瞬間――道場に、ようやく音が来た。


 今度はドン、と鈍い音と衝撃。

 竹刀が鳴ったのではない。巨体の重さが、板へ押しつけられた音だった。


 半平太の身体が、板間を滑る。

 滑るというより、圧し流される。足が踏ん張っているのに、巨体が板の上を横へ運ばれる。板間の縁へ近づく速度が、恐ろしく早い。


 以蔵は思わず、拳を握った。

(嘘じゃ……先生が片手で圧された!?)


 半平太が滑りを止めた瞬間、道場全体の空気が変わった。ざわめきが消えたのではない。息が揃ったのだ。


 藩校の道場に通うのはいずれも一廉ひとかどの剣士。今の一合で見物の誰もが、同じことを胸の奥で思った。


 ――女か男かなど、もう関係ない。


 そこに立っているのは、“剣の理”そのものだった。



 万は追わなかった。あえて一寸、間を置く。倒すためではない。打ち合いの「手応え」を確かめるためだ。


 ゆっくりと竹刀を下し、手元を見た。指の開き、柄の当たり、掌の皮のずれ。余裕ではない。戻ってきた衝撃が、痺れになりきらず、指先の奥で薄く熱を残している。


 万はその熱を、舌で味わうように息を吐いた。

 そして、もう一度だけ半平太を見た。目は笑わない。だが硬さが、先ほどよりわずかに解けている。――解けたのは油断ではなく、認めた証だ。


「……なるほど」


 声は小さい。小さいが、刃の筋が通った声だった。


「腕を上げました。……江戸で“順”を拾ってきたのですね」


 言い終えた万は、竹刀の握りを一度だけ組み替えた。握りを深くする。左手が下がり、肘が締まる。構えが変わったのではない。呼吸が変わったのだ。


 場に、見えない圧がもう一枚落ちる。


 静かに呟いた万の声を、聞き取れたのは半平太だけだった。

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