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おこぜの藤兵衛 ~幕末異聞 朝倉藤吾伝~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第九話 潮吹く勇魚

 長崎出島の潮は黒い。

 黒さの正体は水ではない。港に染みついた匂いだ。炭、油、香料、異国布――それに、人の腹のぬめり。夜になるほど、その気配が輪郭を持つ。


 会所かいしょ脇の荷場は、昼でも薄暗い。板敷きの隙間に砂が噛み、縄が擦れる音がよく響く。

 箱が積まれている。木箱は新しいが、縄目だけが妙に馴れている。


「荷改めぇ――!」


 声が飛ぶ。佐野屋さのや萬助まんすけは、荷場の端で一度だけ呼吸を置いた。落ち着いて見せるためだ。落ち着きを崩した者から先に、札を貼られる。


 齢二十八。叔父から継いだ木材卸は、かつては高知城下でも大坂でも通る看板だった。だが寅の大変で、家も蔵も帳面の当てども、まとめて崩れた。残ったのは、借りと、他人の慰め口上だけ。慰めは腹の足しにならぬ。


 それでも萬助は、卑しく生きる気はなかった。恥はかいてもよい。だが自分の目に恥じたら、戻れぬ。


 ゆえに長崎へ来た。世さ来い祭り後、土佐の和紙や樟脳、蝋、茶、生糸――そうした正規品の仲介で命脈を繋ぎつつ、開国の匂いを嗅ぎ、異国商人とも水面下で当たりをつけていた。道が出来れば、また商いは起こせる。


 今日の荷も、その道の一本になるはずだった。


「次! ……荷主は、土佐の佐野屋だな」

 役人が言う。言い方がいつもに増して妙に丁寧だ。丁寧な声ほど、刃を隠す。萬助は膝を折り、礼を整えた。


「左様にございます。土佐藩邸へ納める和紙の見本、ならびに樟脳も少し。荷目録も揃えております」


 紙束を差し出す。だが役人は受け取らず、箱へ手を伸ばした。


「開けい」

 縄が解かれ、蓋が外れる。白い土佐和紙の束が見えた。

 役人は丁寧に扱わない。いきなり指先で束を引っこ抜く。


 ――硬い音がした。

 和紙の下から、鉄の塊が転がった。乾いた金属音が板を叩き、二度跳ねる。


 そこにあったのは、洋式銃の部品だった。銃身ではない。だが銃の骨だ。薬室まわりの金具、引き金の部品、ねじ。量はわずか。


 役人の目が削げる。

「ほう……和紙の下に鉄とは。これは何だ」


 嵌められた――萬助は瞬時に悟ったが、すぐには声を上げなかった。怒りを出せば、相手はそれを餌にする。


 一息置いて、首を振る。


「存じませぬ。身に覚えがございませぬ。これは佐野屋の荷ではない、故郷の品でもない――藩の会所役のお立会いを願います」


 役人は萬助を見なかった。見ないまま、帳面の端を指で叩き、隣の下役へ顎を振る。下役が箱の口をさらに広げ、和紙の束を乱暴にほどいた。白が畳に散り、金具がころりと転がって乾いた音を立てる。


「故郷でないなら、どこの品だ。異国の品か。抜荷ぬけにたぐいだな」

 

 抜荷。

 

 その二文字が落ちた瞬間、周囲の空気が固まった。固まった空気は、すぐ噂に化ける。噂は軽い。


 役人はわざと声を落とした。甘い声は、毒の入れ物だ。


「奉行所へ引き渡す。――だが、穏便に済ませる道も、ないではない」


 しかし、萬助は揺れなかった。あえて顔を上げ、役人をまっすぐに見る。


「……賄賂はいたしませぬ。私は、誰にも恥じぬ商いをいたします」


 役人の唇の端がきしむ。笑いではない。“折る”口元だ。


「清い商い、か。ならば奉行所で清さを証明せよ」


 萬助の胸に、冷たいものが落ちた。落ちた瞬間、血の気が逆流して指先が痺れた。握った拳の爪が掌に食い込み、薄く痛い。痛みがないと、怒りが溢れそうだった。


 あの日、地面がうねって蔵が潰れ、看板が泥に沈んだ。――あれで終わったはずだった。


(まだ足りんがか。全部失うた後に、まだ“誇り”まで寄越せと言うがか)



 その時、座の外――人の輪の縁が、ひとつ分だけ静かに割れた。


「……どういたがじゃ」


 萬助はすがるように低い声の方を見た。息の使いどころを知っている短い声。

 墨の匂いが、潮のぬめりに混じる。煤けた藍の小袖に、黒い羽織。袖には小さく、三ツ柏。――誤魔化しようのない土佐の紋。


 帯の端の帳面差しの角は、使い込まれて丸い。腰の差料は軽い――抜かせぬための鞘としてぶら下がっている。


 役人の指が、一瞬だけ止まった。刀を恐れたのではない。藩の札を恐れたのだ。奉行所の名ではない。公儀の威でもない。だが長崎ではこれが厄介だ。――会所の者は、荷と帳簿の間を握っている。


 男は、役人と萬助、そして床に転がる金具へ視線を走らせた。名乗りもせぬまま、ただ一瞥でこの場の“形”を掴む。


 土佐藩長崎会所役・岩崎弥太郎。


「荷改めか。……この荷は、土佐藩向けと聞いちゅうが」


 役人が言い訳めいた咳を噛むより先に、弥太郎は膝を折った。拾い上げたのは慈悲ではない。証拠を壊さぬためだ。

 金具を一瞥し、すぐ和紙の束へ目を移す。


「……この束だけ、紙の肌が違う」


 役人の眉が動く。萬助の喉が鳴る。

 弥太郎は続けた。


「包みの端が不自然に裂けちゅう。運ぶ途中で擦れた裂け方やない。何かを刺しこんだ裂け方じゃ」


 弥太郎は金具を床へ戻し、指で数えた。


「それに量が少なすぎる。抜荷は死罪、もっと抱かな割に合わん。――これは“見つけさせる”量じゃ」


 役人が口を挟もうとする。

「しかし岩崎殿、現に――」


 弥太郎は遮らない。遮らない代わりに、手順を置く。

「封は誰が見た。運び込みは誰がした。これは藩の荷。改めの立会いはわしの役目じゃ。……おまんらだけで開けたがか」


 役人の喉が詰まった。名を出せぬ。名を出せば縄になる。

 弥太郎は、萬助へ目だけを向けた。


「佐野屋。荷作りは誰じゃ」

「私と手代のみ。封も私が」

「その手代はどこじゃ」

「裏に……」

「呼べ」


 弥太郎は役人へ戻り、淡々と言った。


あかしが薄い。薄い証で奉行所へ回せば、土佐の荷口の信も傷つく。信が傷つけば、長崎の商いが細る。細れば、奉行所も困る。――困ることを、わざわざ作る必要はないろう」


 役人は目の奥を忙しく動かした。綱を探す目だ。


「……では、どうする」


「荷は一旦預かる。封を改め、立会いのうえ再検分したらえい。今日はここまで。佐野屋は放免。異議はあるか」


 役人は唇を噛んだ。だがこの場で刃を抜けば、自分の腹が見える。

 結局、声を落とすしかなかった。


「……よかろう。だが土佐が責を持つのだな」

「持つ」


 萬助の胸の底で、ようやく空気が動いた。助かった――だが“助けられた”だけでは終わらないと、同時に悟った。


 この若い会所役は情けで動いていない。筋で動いている。




「……礼を申す。岩崎殿。飯でも」


 萬助が言うと、弥太郎は帳面を畳の端へ置き、あっさり頷いた。


 荷場を離れ、裏道へ入る。潮のぬめりが一枚ずつ剥がれ、代わりに味噌と炭、魚の骨を焼く匂いが腹へ落ちてくる。


 飯屋は表通りから半町外れ、井戸端の陰に暖簾を垂らしていた。暖簾は水気を吸って重い。重い布は外の目を切る。くぐった瞬間、耳に入る音が変わった。

 箸が椀に当たる乾いた音。鍋の底で味噌が煮詰まる小さな泡。炭のはぜる短い音。


 店の中は狭い。狭いから、声も大きくならない。隅の卓には旅人が背を丸め、どこかの藩の小者らしい男が酒を舐めるように飲んでいる。


 二人は奥の壁際、煤けた柱の影に腰を落とした。柱の影は暗い。暗い場所は、言葉の形を変える。


「飯は大事じゃ。腹が細ったら算が狂う」


 言い方は荒いが、芯が曲がっていない。

 萬助は一拍だけそう考え、店の奥へ向いて声をかける。


「干物を頼む。あと酒を二つ。岩崎殿は?」

「わしは、いも煮を」


 店の親爺が「へい」と返し、奥で網が鳴った。脂が落ちて、炭が小さくはぜる。はぜる音は小さいが、耳の奥に残る。残る音は、故郷の浜の音に似ていた。


 皿が出る。身は硬い。香ばしいのに、どこか薄い。

 萬助は箸を入れ、ひと口噛んでから、つい口が滑った。


「……奈半利なはりの魚が懐かしいのう」


 いも煮を突いていた弥太郎の箸が、ぴたりと止まった。目が、萬助の顔を一瞬で測る。


「おまん出はどこじゃ」

「安芸の……赤野あかのよ。佐野屋萬助じゃ」


 “赤野”の響きに、弥太郎の頬が一瞬だけ緩む。笑いではない。確かめが取れたときの短い安堵だ。声が、さっきより少しだけ軽くなる。


「わしも安芸の井ノ口いのくちじゃ。――岩崎弥太郎」


 異国の匂いのする長崎で出会った同郷の士。二人の胸の奥で、冷えが一度ほどけた。ほどけたのは警戒だけではない。遠い浜の空気が湯気に混じって戻ってくる。


「……あの役人、前から私を狙うちょった。何度か賄賂を断ったき、目を付けられちょったがやろう」


 弥太郎は笑わない。

「清さは目立つき。目立つもんは引っ掛けやすい。……じゃが清いだけじゃ、生き残れん」


 萬助は視線を逸らさず言った。

「生き残るために卑しくなるなら、私は戻らん。寅の大変で全てを失ったとき、卑しくなってでも生きようと思うた。だが卑しくなったら、何を取り戻しても戻らんものがあると分かった」


 弥太郎は、しばらく黙った。値切らぬ黙りだった。やがて低く言う。


「わしも一度、奉行に牢へ放り込まれたことがある。正しさを言うてな。世の中は正しさに銭を払わん。……じゃが正しさが要らんとは言わん」


 萬助は息を呑んだ。泥の匂いのする正しさは強い。

「正しさを通すには綱が要る。綱を作るには銭と伝手と、場が要る。場ができたら、今日みたいな小役人は刃を抜きにくい」


 萬助は、そこではじめて気づいた。

 助けられたのではない。値を見られたのだ。自分の清さと、折れぬ意地を。


「……場、とは」


 弥太郎は盃を置き、声を落とした。


「実は、家老の五藤主計様の命で商会を興す者を探しゆう。土佐の庇護を背にして動く商会じゃ。土佐は今、阿蘭陀と筋を作りよる。じゃが阿蘭陀だけでは足りん。世は開く。英も仏も露も嗅ぎに来る。嗅ぎに来るなら、伝手は先に持っちょかんと席を奪われる」


 萬助の眉が寄る。

「土佐が泰西諸国と…?」


「藩が表で動けん筋がある。表に出せば公儀の鎖が来る。だから裏で動く。――新世社じゃ」


 新世社――噂で聞いた藩の専売公社だ。土佐の“新しい世”の綱。萬助の背に、薄い冷えが走った。


「おまんに頼みたいのは、その窓口じゃ。藩の筋で看板を立てれば、会所の役人も嵌め込みがしにくうなる」


 弥太郎は、燗の湯気の向こうから萬助を見た。若い。だが若さで押す目ではない。

 さっき荷場で、役人の“形”を一瞥でほどき、言葉の順で刃を鞘へ戻した――あの手際。あれは機転ではなく、才だ。


 萬助は、その目に見覚えがあった。


 寅の大変の前――銭の匂いが未来へまっすぐ繋がっていた頃の自分だ。怖いものが少なく、恥じるものも少なかった若さ。

 いま自分が失ったのは銭だけではない。「世が広がる」と信じ切れる芯だ。その芯が弥太郎にはまだ熱く残っている。悔しくも、眩しかった。


 萬助は盃を指で一度だけ回し、喉の奥の渇きを噛んだ。


 世さ来いの太鼓――あの朝、港町の拍が揃い、声が同じ高さになった瞬間を思い出す。あの場にいたとき、自分の中で何かがほどけた。


(――門出の波、か)


 あれは祭りの唄の言葉に見えて、実は「いま出ねば遅れる」という潮の合図だった。


「店の――名は」

 弥太郎が先に言ったのではない。萬助の口が勝手に問うた。

 問うた時点で、もう半分は船に足を掛けている。


「そうじゃの……土佐商会。筋が通る」


 萬助は首を振った。反発ではない。看板は魂だ。魂のない看板は、最初の風で折れる。

 そして――いま自分が折れずに残しているものがあるとすれば、看板に恥じぬ清さだけだ。


「筋だけでは足らん。志が要る。……わしは、あんたの才を見た。荷場で、あの場を殺さずに救うた。あれが出来る者は、商いでも政でも、人を運べる」


 萬助は言い切って、盃を置いた。置いた音が、太鼓の一打に似ていた。

 弥太郎は笑わずに返す。笑わないが、目の奥が僅かにほどけていた。


「おまんは、清い商いで生きたい言うた。――なら、清いまま生き残る場が要る。わし一人じゃ守れん。今日みたいに嵌められて終いじゃ。だが土佐の札を背にして動けるなら、卑しくならずに済む筋が立つ」


 萬助はそこへ、もう一つだけ本音を落とした。これが最後の決め手だ。


「世さ来いで思うた。遅れたら、また海に奪われる。奪われるのは木材や銭だけやない。席じゃ。志じゃ。――門出の波は、待たん。わしは、その波に今度は乗りたい。舟を出すなら、あんたと出したい。若い舵取りが要るきに。わしは、荷を積む。綱を結ぶ。看板を背負う。……その代わり、卑しくせんで済む筋を、一緒に作らいて欲しい」


 弥太郎が、ようやく息を吐いた。値切る息ではない。腹を決める息だ。


「……恩で結ばんでえい。利で結べ。利は続く。恩は腐るきに」


「利でえい。恩でする商いは、それこそ卑しさしか残らん」

 萬助は即答した。即答して、少しだけ間を置く。自分の中で最後のひっかかり――“また失う恐れ”を噛み切るための間だ。


「けんど、利の立て方は選ぶ。卑しくならん利で行く。賄賂に手を染めて延びる命なら、わしは要らん」


 弥太郎の目が細くなる。鋭さではない。合図だ。


「……それでこそ使える。藩の庇護で動けば、会所の小役人も刃を抜きにくい。抜いたところで、こっちが札を出せる」


 萬助は頷いた。頷きは軽いが本気だ。

 寅の大変で沈んだ自分が、もう一度浮かぶなら――それは銭の力ではなく、看板の力で浮きたい。


「店の看板は志じゃ。高う掲げないかん――名は、鯨海げいかい


 弥太郎が一息置き、唇の端をわずかに上げた。


「鯨海商会、か」


勇魚いさな――鯨は潮を吹いて息を継ぐ。商いも同じじゃ。息継ぎが要る。潜る胆が要る。渡る綱が要る」


 萬助は盃を見つめたまま、低く付け足す

「――鯨は、潮を吹いて戻るたびに深う潜って、遠うへ行く。わしは……もう一回、潮を吹く。今度は、沈まんように」


 弥太郎は帳面を取り、畳の端へ置いた。置き方は雑に見えて、筋だけは正しい。


「ほいたら決まりじゃ。鯨海商会。――門出の波に乗って、大海おおみへ漕ぎ出す勇魚じゃ」


 暖簾の外から潮の気配が戻る。闇に沈む海は黒い。だが今夜の黒は、恐れの黒ではない。沖へ出る前の、深い海の黒だった。


 弥太郎は、帳面を閉じた。ぱん、と乾いた音がした。その音は契りの音ではない。商いの始まりの音。


 佐野屋萬助――。


 歴史に沈むはずだった名が一つ、掬い上げられた。

 やがて世界の海をまたぐ鯨は、まだ潜ったまま。潮を吹くのは先だ。


 ただ、門出の波だけが、闇の中で静かに立っていた。

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