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おこぜの藤兵衛 ~幕末異聞 朝倉藤吾伝~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第八話 阿蘭陀鼠

 時は少しさかのぼる。安政四年八月二十六日。


 暦のうえではまだ夏の腹にいるはずなのに、城下の風はもう、夜だけ先に秋へ渡っていた。昼の陽は名残を張り、庭石はまだ温い。だが日が落ちると、露が木の葉の縁を噛み、虫の音が「薄い刃」のように耳へ触れる。


 高知城――御用の間。

 障子は高く、灯は低い。紙と硯の匂いが、湿りと混じって重く沈んでいる。机上には巻紙が一つ、折り目を正した別紙が二つ。


 東洋は、巻紙を指で押さえたまま言った。


「弥太郎、長次郎。商いの道に通ずる二人に聞きたい。――おまんらの鼻で嗅げ。どこが餌で、どこが罠か」


 東洋の声は静かだった。静かな声は、座を乱さぬ。乱さぬまま、深いところへ手を入れる。


 座にいるのは四人。

 参政・吉田東洋。

 参政仕置役・朝倉藤兵衛。

 長崎会所役・岩崎弥太郎。

 長崎会所役・近藤長次郎。


 長次郎は膝の上で手を重ね、黙っている。黙は臆ではない。商いの場で、口が先に出る者ほど損をすることを知っている。


 藤兵衛は視線を落とした。紙の白さが、妙に眩しい。白は隠しやすい。隠したものほど、後で血が出る。


 弥太郎だけが、最初から目を細めて紙を見ていた。笑いはない。笑いがないときの「叱り弥太」は、銭より怖い。


 東洋は巻紙をほどき、条の頭だけを読み上げた。

 言葉は礼に編んだ縄だ。振り払えば刃になる。だから最初から刃を見せず、縄として差し出す。


『螺旋推進式双胴蒸汽船 特許密約証文』


 藤兵衛の胸の奥で、拍が一つ鳴る。

 密約とは、声を小さくするための工夫ではない。声を出せぬほど大きいものを、紙の中へ閉じ込める技だ。


 東洋が、続ける。


「第一条。供与と独占。

 阿蘭陀に限って、欧州と属領で“双胴蒸汽船”として独占の権利を与える」


 弥太郎が、鼻先で息を吐いた。息だけで値踏みする。


「第二条。使用範囲の限定。

 本技術は双胴に限る。単胴その他への転用は禁ず――名目の如何を問わず契約違反」


 ここで長次郎の眉が、ほんの僅かに動いた。

 “禁ず”。その二文字は、鞘にも刃にもなる。使いどころを誤れば、こちらの喉に当たる。


「第三条。期間と更新。

 五年。満了六ヶ月前までに申し出なければ同一条件でさらに五年。更新が成るとき更新料――八万ギルダー相当」


 弥太郎の目の奥が、ここで一度だけ光った。


「第四条。前払金。

 調印と同時に前払金――八万ギルダー相当。

 以後、販売価格の五分を特許料。

 支払いは新世社の指定による。現金ギルダーまたは現物」


 東洋は読み上げを止め、弥太郎と長次郎を見た。――見た、というより、計った。


「第五条。日本内の権利留保。

 幕府含め、日本のいかなる勢力にも売却、開示、技術指導、図面交付、一切禁ず」


 長次郎が、ようやく口を開いた。声は小さい。


「阿蘭陀は“商い”で動く国。……ここまで縛ると、相手は嫌がりませぬか」


 東洋は頷いた。

 頷きは肯定ではなく、「その懸念は織り込み済み」という合図だ。


「嫌がる。だから餌が要る。餌は“独占権”じゃ。独占は嫌悪を甘さに変える」


 弥太郎が、巻紙の端を指で弾いた。弾く音は軽い。だが軽い音ほど、座を刺す。


「……正直に言うて、たっすいのう」


 東洋が目を細める。藤兵衛は動かない。長次郎が息を呑む。


 弥太郎は紙の白を見ながら言った。


「これは信に重きを置く行商のやり方じゃ。藩と国、大店同士の商いは、もっと強う出ないかん。五分? 安い。十から始めて八で落とす。そういう筋でないと、向こうは“値”を信じん」


 弥太郎は言い切って、藤兵衛を見た。


「それに、阿蘭陀だけに売る理由は何じゃ。諸国に嗅がせて、一番高い札を出したとこへ結べばよい。英でも仏でも露でも、欲しがる。欲しがる者ほど払う」


 長次郎が、控えめに添える。


「……噂を広げれば、噂に追いかけられます。追いかけられれば、商いは“脅し”に見えます」


 弥太郎が肩を揺らした。だが口角は上がらない。


「脅しは下手がやる。上手は“望み”にする。望みなら追いかけられても金になる」


 東洋は黙っている。黙りは、弥太郎に考えを続けさせるための間だ。


 弥太郎は、第二条の紙面を指で撫でた。撫で方が、猫が獲物を確かめるときに似ていた。


「……それと、ここ。双胴限定。単胴への転用禁ず。なぜじゃ? 土佐の速さの核は双胴だけではあるまい。――心臓がある。螺旋がある。翼の角度がある。そこが本質じゃろう。そこを器に閉じ込めるのは、銭を捨てるに等しい」


 藤兵衛は、言葉を飲み込んだ。

 “心臓”。

 その言い方が、胸に触れる。触れた瞬間、遠い場所の記憶が、露の冷たさのように滲んだ。


 ――異界オラゾ。

 滅びの匂いのする空。その下の大地を歩き、商いをした日々。三つ目で笑う者。巨躯で荷を担ぐ者。鉄の骨を鳴らして歩く者。

 彼らは値切り、騙し、笑い、そして時に、己の誇りのために命を払った。藤兵衛は、胸の内でだけ答える。


 利を取りすぎれば恨みが残る。恨みは刃になる。刃は海を越えて飛んでくる。“勝つ”より先に、“生き残る”筋を立てねばならぬ――それが、あの世界で学んだ算だ。


 藤兵衛は顔を上げ、座の言葉として短く置いた。


「双胴に閉じ込めるのは、銭のためではない。――綱のためじゃ」


 弥太郎が目を細めた。


「綱?」


「向こうが“心臓”に気づいた後でも、勝手に単胴へ転用できぬようにする。転用は違約。違反を押さえるための綱を、先に首へ掛けておく。――そのために“双胴”という器に限るがじゃ」


 弥太郎の口角が、わずかに上がる。

 上がるが、笑いではない。


「……なるほど。石見銀山鼠捕り、言うわけか」


 長次郎が首を傾げる。


「鼠捕り……?」


 弥太郎は、指先で机を二度叩いた。拍を揃える叩き方だ。


「石見の鼠捕りには、匂いのせん砒霜ひそうを混ぜる。食うたときゃ味も匂いもない。気づいたころには毒が回って、鼠は壁の隅で硬うなる。――この“同一条件で更新”が、それじゃ。五年のうちに向こうの工廠がこの技術に寄りかかり、植民地の港がこの速さで回り始めたら、更新の席でこちらの言い分を聞くしかない。逃げたら他に取られる。自分の国が止まる」


 東洋は、その言い方に頷いた。

 欲しいのは称賛ではない。理解だ。理解されるほど、仕込みは効く。


 弥太郎は、しかしそこで止めない。


「ただし、この証文――約をたがえた時の縛りが薄い。ここは刃にせんといかん」


 東洋の目が、初めてわずかに笑う。


「言うと思うた。――では弥太郎、どの刃を立てる」


 弥太郎は即答した。

「第二条と第五条、あと第四条の支払い遅滞。ここを“重大違反”に落とす。罰は重うせんと効かん。例えば、最新式軍艦四艘――は大袈裟に見えるが、向こうの腹に“恐れ”を残す。恐れは契約を守らせる」


 そこで一息置き、弥太郎は口角だけを上げた。


「……土佐の毒は、甘うないと知らしめる」


 藤兵衛が、静かに継いだ。声は低いが、座の拍を揃える言葉だった。


「ただし――“恐れ”だけでは綱が切れる。切れぬための鞘が要る」


 藤兵衛は指先で紙の端を押さえ、条文の空白を見た。空白は、後から刃にも鞘にもなる。


「破棄の条を付けましょう。破棄できる道を、こちらから先に置く」


 弥太郎が眉を動かす。

「逃げ道を与えるがか?」


「逃げ道が見えちょった方が、鼠も落ち着くろう」


 藤兵衛はさらに一段、言葉を柔らかくした。柔らかいほど、刃を隠せる。


「破棄は、相手の面目も守ります。面目を潰せば、契約は刃になります。刃はいつか、国を切る。――ならば、刃にせぬために、先に“降りる段”を作っておく」


 そして藤兵衛は、最後に短く締めた。

「破棄は慈悲ではない。綱を長う保たせる“結び目”です」


 東洋が、その言葉を受けて紙を取り直した。筆は速くないが、迷いがない。迷いのない遅さは、最も信用できる。


「では、こうだ」


 東洋は条を短く整えた。

 “第八条 違約”。

 第二条または第五条に背くとき、または給付遅滞・指定方法に従わぬは重大違反。

 重大違反のとき、最新式軍艦四艘相当の賠償。

 相手方は破棄し得る。


 長次郎が、小さく頷いた。


「よろしいかと。しかし……良き匂いがなければ、鼠は食いつきませぬ。ですが、匂いが強すぎれば、鼠は“毒”を疑います。匂いは甘く、毒は無味。――その塩梅が肝にございます」


 言い切って、長次郎は一拍置いた。商いの拍だ。

 そして、懐から薄い包みを取り出すような所作で、言葉を続ける。


「……ゆえに、匂いは“言葉”で作りとう存じます。条文は冷たい。冷たいままでは、向こうは算しか見ませぬ。算だけ見れば、疑いが先に立ちます」


 東洋が目だけで促す。藤兵衛も黙って聞く。長次郎は、畳の上へ掌を伏せ、慎重に言った。


「親書を、添えてはいかがでございましょう」


 藤兵衛の目が、わずかに動いた。長次郎は言葉を急がない。急げば“欲”に見える。


「土佐が“商い”として差し出すのではなく、“信義”として先に差し出す形にするのです。二百年来の蘭学の恩、出島の窓の歴史、他国の威圧とは異なる礼――そういう言葉で、向こうの虚栄と体面を先に立てる。『まず貴国へ』と書けば、鼠は“選ばれた”と思います。選ばれた鼠は、餌を疑いにくい」


 東洋が、低く笑った。


「虚栄を餌にするか」

「虚栄は、毒より効きます」


 長次郎は淡々と続ける。

 東洋が顎を引いた。


「……親書の文言は、誰が起こす」


 長次郎は、迷わず言った。


「殿の筆が最も重うございます。甘さは礼に隠し、言うべき肝は一行だけに留めるがよろしいかと。“独占”を誇らせ、他国を見下させ、急ぎたがる腹を正当化する文に」


 藤兵衛が、静かに息を入れた。

 条文は鎖。親書は綱。綱で近づけ、鎖で締める――長次郎はその順を知っている。


 東洋は短く言った。


「よし。親書を添える。――匂いはおまんが見立てよ。筆は殿に伺いを立てよう」


 長次郎が、深く頭を下げた。


「承知いたしました。鼠は、見目の良い餌ほど早う食います。――急ぐ鼠ほど、なおのこと」


 東洋が弥太郎へ言った。


「――これで、商いとしての骨は立った。だが最後に問う。契約主体を“土佐藩”ではなく“新世社”とした理由、弥太郎はどう見る」


 弥太郎は答える前に、鼻から短く息を落とした。笑いではない。腹の悪さを飲む息だ。


「……理屈は分かっちゅう。藩の名を出せば、国と国の条約になる。万一、密が露見したら公儀の刃が殿の首に入る。じゃが、新世社なら名目はあくまで“商い”。商いは逃げ道が多い」


 一拍置いて、口元が僅かに歪む。そして己の腹を一文字になでる。


「――誰ぞ召し腹を差し出せば、殿には害が及ばん。上手いが、危うい。表で守れん分、裏の綱が要る」


 長次郎が続ける。


「現金を“阿蘭陀通貨ギルダー”にするのも同じ理かと。銀の基準を先に相手へ渡し、こちらは“指定”で主導を取る。現物払いは、御目付の目を避ける。帳簿が静かなうちに、材が入る」


 東洋が頷いた。藤兵衛は、胸の内でだけ息を吐く。

 “材が入る”。

 それは船より先の船――土佐の未来の骨格だ。


 東洋が言った。


「よし。弥太郎、長次郎。――出島へ向かえ。強う出れば刃。弱う出れば縄。あくまで“綱”を通せ」


 弥太郎が口角を上げた。今度は少し笑った。


「承知した。阿蘭陀鼠捕りじゃ」


 夜の露が、障子の外で葉を打った。音は小さい。小さいが、綱を擦る音に似ている。

 綱の上を走る鼠は、罠を見ない。


 灯の芯が一度だけ揺れ、また静かに戻った。



 そして――この夜より数か月後。


 安政五年一月四日、オランダは土佐側提案の条項を悉く承諾し、密約証文に署名した。

 鼠は、餌の匂いのまま、毒を飲み下した。

※補足 『螺旋推進式双胴蒸汽船 特許密約証文』


土佐国新世社(以下「新世社」)と阿蘭陀王国(以下「和蘭」)とは、新世社の創製せし「螺旋推進式双胴蒸汽船」の技術(以下「本技術」)につき、左の通り密約を結ぶ。


第一条 供与と独占

一、 新世社は和蘭に対し、本技術(意匠、機関・推進装置、軸系・軸受、潤滑・冷却・熱交換、補強要法、運用手順を含む)を供与する。

二、 和蘭は、欧州諸国および其の属領において、本技術を用いる双胴蒸汽船の製造・販売・運用につき独占の権利を有す。


第二条 使用範囲の限定(双胴限定)

一、 本技術は双胴船に搭載し運用する場合に限り使用を許す。

二、 単胴その他への転用・改変・応用、または第三者に之を為さしむること、一切禁ず。

三、 前二項に背くときは、名目の如何を問わず契約違反と看做す。


第三条 期間・更新・更新料

一、 契約期間は調印の日より満五ヶ年とす。

二、 満了の六ヶ月前までに、条件変更または終了の申出なきときは、同一条件にて更に五ヶ年更新す。

三、 更新が成るとき、和蘭は更新料として八万ギルダー相当を新世社に給付す(支払方法は第四条)。


第四条 前払金・特許料・支払方法(新世社指定)

一、 和蘭は調印と同時に、前払金として八万ギルダー相当を給付す。

二、 和蘭は本技術を用い販売したる双胴蒸汽船の販売価格の五分を特許料として給付す。

三、 前払金・更新料・特許料その他一切の給付は、新世社の指定する方法により行う。

 (イ)ギルダー現金払 または

 (ロ)新世社の指定する現物(最新工作機械、精錬鋼材、精密部品、石炭、潤滑油等)の給付

四、 現物給付の品目・規格・数量・評価・納入地・名目は、新世社の指図に従う(必要あらば別紙を定む)。


第五条 日本国内の権利留保・不開示

一、 日本国内における本技術の一切の権利は新世社に留保す。

二、 和蘭は、徳川幕府を含む日本国内のいかなる勢力にも、本技術の売却・開示・貸与・技術指導・図面交付を一切してはならぬ。


第六条 契約主体と保証

一、 本契約の当事者は新世社および和蘭王国とす。

二、 土佐藩主山内豊信は別途の親書を以て、新世社の履行能力ならびに安全を保証す。


第七条 秘匿

一、 本契約の存在・内容・交渉経緯・供与内容は、双方とも最上の秘事として扱い、口外を禁ず。

二、 和蘭は議会等の手続に際し、名目・帳簿を工夫して外部に露見せしめざるよう配慮す。


第八条 違約

一、 第二条または第五条に背き、または第四条の給付を遅滞し、もしくは新世社指定の方法に従わざるときは重大違反とす。

二、 重大違反のとき、違反当事者は相手方に対し、最新式軍艦四艘の無償提供または其の相当額を自国通貨にて支払うべし。

三、 相手方は本契約を破棄し得る。


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