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おこぜの藤兵衛 ~幕末異聞 朝倉藤吾伝~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第七話 安政の逆転

 冬の湿りは、海からではなく、記憶から来る。


 オランダの首都ハーグ――議事堂群ビネンホフの石畳は、霧の粒を踏みしめるたび、古い時代の足音を返した。かつて海を制した国が、いまは霧の中で息を潜めている。息を潜めるのは慎みではない。余裕が削れたからだ。


 フランスの靴底に踏まれた年月。ナポレオンの戦争が残した借金と傷。ベルギーが離れた日、地図から消えたのは領土だけではない。港と商いの中心、税の血管、そして「大国の顔」そのものだった。


 工場の煙は英国ほど濃くならず、資本は海の向こうへ流れる。東インドの砂糖と香料に寄りかかった経済は、寄りかかった分だけ本国の背骨を細くした。植民地は富を運ぶが、富を運ぶ道が本国の筋肉を育てるとは限らない。育たぬまま、世界の波だけが速くなっていく。


 それでも国は、体裁を保たねばならぬ。

 王は「決める者」から「決裁する者」へ形を変え、議会の椅子が重くなった。椅子が重い国ほど、決断は遅くなる。遅くなる国ほど、外の速さに負ける。


 その「速さ」が、今夜、東洋から届いていた。




 会議室の灯は低い。机の上に置かれた三つの封筒は黒く、封蝋の朱が異様に濃かった。宛名には、外務でも海軍でもない、ただ一つの言葉――「国益」。


 出席者は少ない。少ないが、国の骨が揃っている。


 国王ウィレム三世。

 首相ユスティヌス・ファン・デル・ブルッヘン。

 海軍大臣ヤン・ウィレム・ヘンリクス。

 財務大臣フロリス・アドリアン・ファン・ハル。

 そして、バタヴィア総督府からの特使が一名。

 アムステルダム工廠から海軍将校が一名。


 ――長崎の商館長クルティウスの姿はない。

 代わりに彼の「書面」だけが、封筒の中で息をしていた。


 首相ブルッヘンが一つ目の封蝋に刃を入れた。蝋が割れる音は小さい。小さいが、割れた瞬間に戻らぬものがある。


 書類を取り出した特使は、紙の角を揃え、淡々と告げた。


「バタヴィア経由、長崎商館より。商館長クルティウスの報告書――読み上げます」


 

 特使が開いた紙面の文字は、責任を残すために整う。


「――本年九月、江戸湾品川沖にて、幕府上層が公式の測距と記録の手順を整え、土佐藩の新造蒸気船を上覧に供した。米国総領事ハリス、当職も同席。平均速力――14.5ノット」


 部屋の空気が一段、固くなる。

 数字が出た瞬間、政治は必ず沈黙する。沈黙は賛成でも反対でもない。沈黙は「計算」に入る合図だ。


 海軍大臣ヘンリクスが、椅子の肘掛けをきしませた。声はまだ出さない。出せば欲が露になる。


「――この報告をもって、次の契約を検討されたし」


 国王ウィレム三世が、紙面を見ずに言った。


「……長崎の男は、いつも結論を急がないな」


 特使が答える。


「急がぬように書くほど、急いでおります」


 国王は小さく鼻を鳴らした。笑いではない。承知の合図だ。


 二つ目の封蝋が開かれる。封口が裂け、紙が滑り出た。

 表題だけが、まず目に刺さる。


『螺旋推進式双胴蒸汽船 特許契約草案』


 紙は机の端から端へ、音もなく渡っていく。最初の者が目を走らせ、次の者へ滑らせる。


 白い紙の上で、黒いかなめが、行ごとに立っている。


 適用範囲――双胴船に限定

 独占権――欧州諸国およびその植民地

 期間――五年

 特許料――売上の5パーセント

 支払――金ではなく、物

 前払い――8万ギルダー


 指先がわずかに紙を押さえる。押さえる力が強いほど、その者の胸の内は荒れている。荒れていても、顔には出ない。紙は回り、回り、最後に国王の前へ戻る。


 首相ブルッヘンが、報告書の一行を指で叩いた。


「14.5ノット……イギリスの蒸気船でも簡単には届かぬ。まして東洋の“藩”が? ――我が国が、そんな相手に金を払う話を、ここでしているのか」


 言葉は「威信」の匂いを帯びていた。衰えた国ほど甘く、そして危うい匂いだ。


 海軍大臣ヘンリクスが、ここで初めて口を開いた。


「威信は海に浮かびません、首相。浮かぶのは船です。――速度は剣になります。速度を持つ者は、戦場を選べる。植民地の海でも、先に着く者が秩序を作る。検討の価値はあります」


 首相が、次の問いを置いた。


「仮図面は届いていただろう。――我が国が誇る造船技術をもって、再現できないのか」


 問いは国家の矜持への問いだ。だから答えるのは、技術者でなければならない。


 アムステルダム工廠の海軍将校は、立ち上がらなかった。立ち上がれば芝居になる。彼は座ったまま、紙束を一度だけ揃え、淡々と述べた。淡々と述べるほど、内容は残酷になる。


「模倣は試みました。仮図面は寸法としては完璧でした。しかし、寸法だけでは船は走りません」


 彼は指先で三つの点を、机上に置くように言った。


「第一に、双胴の接続部強度を保つ方法が解明できません。試作では、海上で双胴がねじれて破断しました」


 首相の眉がわずかに動く。技術者は続ける。


「第二に、スクリューの最適な角度が未知数です。角度と翼形がわずかに違うだけで、推力は落ち、振動は増えます。我々はこの最適解を見出せていません」


 海軍大臣が、短く息を吸った。海軍にとって船の不安定さは戦闘中の死を示す。


「第三に、最高速度を維持する機関部の詳細が解明できません。圧力、回転数、潤滑、軸受け、そしてそれらを耐える材料。――14ノット越えの速力再現はおろか、10ノットを越えたあたりで破綻が始まります」


 技術者はそこで一度だけ、言葉を止めた。止めるのは躊躇ではない。評価の重さを置くための間だ。


「……思い付きや偶然でできた船とは考えられません。膨大な試行の末に、『物理の真理』に到達した技術の極致と評価するほかない。我々が自力でこの回答を見つけ出すには――十年、いや二十年かかるかもしれません」


 部屋の空気が、さらに静かになる。

 静けさは恐怖だ。恐怖は、衰えた国の肺を締める。


 首相が、声を低くした。


「二十年……。その間にイギリスは何をする」


 海軍大臣が即答した。


「奪います。東洋で。土佐で。――技術は理屈で奪うより、武力で奪う方が早い。イギリスは、早い」


 “早い”。その語が、今夜の中心だった。

 早い国に、遅い国は勝てない。




 財務大臣ファン・ハルが、ここでようやく口を開いた。声音が変わる。熱ではなく、冷たさが場を支配する。


「議論を整理しましょう。5パーセントは高い――という感情は理解します。しかし国家は感情で航海できません」


 彼は紙の端に、短い算を置いた。


「これは“屈辱”ではなく“投資”です。この技術を得れば、我が造船所は“新型”として欧州へ売れます。植民地へも回せます。英国の市場に真っ向勝負は難しくとも、沿岸・河口・島嶼での価値は別です。速度は軍にも商にも利く。利くものは売れる」


 首相が言い返そうとする前に、ファン・ハルが先に切った。


「重要なのは数字ではありません。土佐の条件にある“欧州諸国およびその植民地での独占権”――つまり、我々が窓口を独占できる点です。独占できるなら、特許料5パーセントも前金8万ギルダーも成功報酬に過ぎない。もう一度言いますが、屈辱ではなく投資です。――未来の海洋覇権を割引で買う取引だ」


 バタヴィア特使が、さらに現実を置いた。


「付け加えます。いま我が国は、積極外交の余裕が薄い。欧州の椅子はイギリスとフランスに押され、アメリカの資本も海を渡ってきている。ベルギー独立以後、商いの重心が変わり、産業の歩みは遅れた。――このまま東インドの収益だけに寄りかかれば、本国は細る。細ったままでは、植民地も守れません」


 言葉は穏やかだが、内容は“現実”という刃だ。


 ウィレム三世が、椅子に深く座り直した。国王は王座ではなく、椅子で国を感じる。憲法で軽くなった権限の分、決裁の重みは増した。


「……つまり、我々には時間がない、と」


 誰も否定しない。

 否定しない沈黙が、また一票になる。




 その時、特使が最後の包みを机に置いた。封蝋の形が違う。王の名が、まっすぐ書かれている。


「土佐藩主・山内豊信より。国王陛下ならびに議会宛の親書でございます」


 首相が一瞬、躊躇した。国王宛の親書を議会の承認なく勝手に開けば、政治になる。政治は面倒だ。だが面倒なものほど必要だ。


 ウィレム三世が短く言った。


「開けろ。ここは国益の部屋だ」


 封蝋が割れる音は、さきほどより少しだけ大きかった。


 特使が読み上げる。文は東洋の礼に満ち、しかし礼の奥に刃がある。刃は脅しではない。誇りを立てる刃だ。


「今、世は蒸気の煙に覆われ、列強各国の巨艦が四海を騒がしている。――彼らは武力と強欲を以て扉を叩く。我が国と貴国との間に流れる二百余年の歳月は、それら野蛮なる威圧とは全く異なる、信義と理性の歴史であった。長崎の細き窓を通じて、貴国は我らに文明の灯火を掲げ、我らは貴国を”唯一の友“として重んじてきた。この歳月は、一朝一夕に現れた他国が決して立ち入れぬ、神聖なる絆である」


 何人かが思わず目を上げた。ベルギー独立ののち、欧州で削られ続けた自尊の芯に、いま不意に火が入ったのだ。


“二百年の信義”は、海図の古い線ではなく、今夜この卓を動かす現物の綱として、議会席の胸に掛かった。


「――此度、我が土佐において、万国いまだ見ぬ速力を誇る双胴蒸気船を成し得た。これを公儀に先んじ、他国を差し置いて貴国へまず提案するは、ひとえに右の信義に基づく」


 “まず貴国へ”。

 その一節が、部屋の空気を変えた。


 衰えた国は、侮られることに慣れそうで、慣れない。慣れたふりをする分だけ、誇りの傷は深い。

 そこへ「選ばれた」という言葉が、蜜のように落ちた。


 首相ブルッヘンが、喉の奥で息を詰めた。

 屈辱が、少しだけ姿を変える。屈辱は「払う金」ではなく、「頼られる責任」に化ける。


 親書はさらに続く。


「――貴国は単なる貿易の徒にあらず。智慧と技術を愛する、高潔なる理学の先達である。この技術が貴国の優れた手業によって欧州の波を割り、再び“大阿蘭陀”の名を天下の海に知らしめんことを切に願う」


 財務大臣ファン・ハルが、ほんの僅かに口角を動かした。微笑ではない。算盤に「理由」が加わった顔だ。


(議会は理屈だけでは動かぬ。体面と恐れで動く)

 その体面が、今、親書で立った。


 海軍大臣ヘンリクスが、静かに言った。


「これは……屈辱の逆ではない。挑戦状でもない。――同盟の言葉だ」


 特使が最後を読み上げる。


「――願わくば、この密約が新たなる二百年の栄光の礎とならんことを」


 読み終えた瞬間、会議室の空気は、別の温度になった。

 冷たい恐怖だけでは国は動かない。冷たい恐怖に、温い誇りが一滴混じると、国は動く。




 ウィレム三世が、机の上の紙束を見た。報告書。特許草案。測距の写し。仮図面。技術者の試作失敗の報告。親書。

 それらは別々の紙だが、同じ一点を指している。


 ――遅れるな。


 ウィレム三世は、王としてではなく、国の顔として言った。


「反対する者はいるか」


 反対の声は、出なかった。

 出ないのは賛成だからではない。反対を出せば、二十年遅れるからだ。遅れは、負けだ。

 負けを選ぶ勇気を、今夜この部屋の誰も持っていない。


 沈黙が、賛成票になる。そして沈黙は、最も確かな票だ。署名より裏切らない。


 国王は頷いた。頷きは軽い。だがその軽さの下で、国の舵が切られる。


「よろしい。密約を承認する。条件は特許料5パーセントを含め、前金8万ギルダー。土佐案を基本として予算を議会へ通せ。――ただし、この密約の存在は最高機密とし、この会議で交わした内容は一切を秘匿とせよ」


 首相ブルッヘンが、すぐに口を挟んだ。


「陛下。議会への説明は――“日本の一藩に支払い”では通りません」


 財務大臣ファン・ハルが即座に答える。


「名目を作る。幸いにも相手は当面の現物払いを望んでいる。支払いは“東インド貿易の特別割戻”あるいは“資材供給”として処理する。金ではなく物で動かせば、帳簿は静かになる」


 海軍大臣ヘンリクスが続ける。


「表向きは“バタヴィアでの研究成果”あるいは“日蘭共同開発”。他国には、我が国独自の改良として見せる。――漏れれば、イギリスは武力で土佐を奪う」


 国王が言った。


「奪わせるな。必要なら盾になる。――ただし盾は、我々の独占のためでもある。そこを忘れるな」


 正直な言葉が出る。正直は美徳ではない。正直は、国益の計算だ。

 盾は善意で作られない。盾は利益で固くなる。


 特使が、最後の紙を差し出した。会議録ではない。会議録など残せない。残せば噂が走る。


 残すのは、封印の名だけだ。


 紙の上に、短い蘭語が書かれていた。


 De Omkering van Ansei

 ――「安政の逆転」



 ウィレム三世はその紙に視線を落とし、ゆっくりと頷いた。

 封印されるべきは密約だけではない。文明の向きが逆転した事実そのものだ。西洋が教える側であるという天秤が、今夜、少し傾いた。その傾きを外に見せれば、世界の刃が集まる。


 国王は立ち上がり、部屋の扉へ向かう前に言った。


「急げ。だが急いでいると悟られるな。――急ぎは値札になる」


 それは王の言葉であり、商人の言葉であり、衰えた国が生き残るための言葉だった。


 外には霧。霧の向こうに、海。

 海は誰のものでもない。だが海を速く走る者が、一時だけ海の顔になる。


 今夜、オランダはその顔を取り戻す算段を立てた。

 取り戻すために、屈辱を飲むのではない。屈辱の形を変える。屈辱を「投資」に変える。投資を「栄光」に変える。


 ――そして、その起点は、東洋の一藩から届いた黒い封筒だった。


 霧の中で、議事堂群ビネンホフの石は冷たく光った。

 冷たい光ほど、長く残る。


 密約は、封じられた。

 だが封じた瞬間から、歴史はもう、動いていた。

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